小説
「春の匂いがするー」
 そう言えばぱちんぱちんと先ほどまで鳴っていた音は止んだ。
 潮江文次郎が一人でそろばんを使って作業をしていた部屋にお茶を持っていってからどのくらい時間が経っただろうか。持っていったはいいものの、一口も飲んでくれない。彼自身が持ってこいと言ったのにだ。私は飲んでくれるまで待つことにした。

 今日は天気も良く気温も丁度いい。過ごしやすい日だ。障子を開けて外を眺める。眠ってしまいそうになる。

「春の匂い? わからねぇ」
 潮江文次郎の方をちらっと見れば、首を傾げて私の方を見ていた。
 今日の潮江文次郎は少しおかしいと思った。普段なら私の言葉なんて気にしないし、お茶もすぐに飲んだらお礼は言うがすぐに出てけと言わんばかりの顔をする。私が今のように部屋で寝っ転がっていれば怒るし、私が食満と話してると本当に驚くほどに不機嫌だし怖い。
 変なの。へんなの。私のこと、嫌いなのか好きなのかわかんない。

 綾部がうきうきと歩いているのが見えた。伊作の叫び声が聞えた。小松田さんの声も聞こえる。は組たちのかわいい声も、きこえる。瞼は重くなっていく。さいごにすこし、私のなまえをよぶ声がした。



 ふと、目が覚める。ああやっぱり寝てしまったと身体を起こす。
 外の様子をうかがった。さほど時間は経っていないようだ。顔を洗ってこようと伸びをして、ふとどうしてこんなにも静かなのだろうと思った。仕事をしているはずの潮江文次郎のいる方を向けばあの潮江文次郎が寝ていたのだ。
 変なの、無意識に言葉が出た。

「今日はどうしたの、潮江文次郎。何か変なもの食べたの? 嫌なことあったの?」
 反応してこないと知っていながら、そう尋ねてみる。疲れてるのかな、ただ春の陽気に負けただけなら、そっちの方がいい。きっと悩み事なんてあっても私になんか話してくれないのだし。

「少しは休みな、文次郎」
 幼いころから、兄のように父のように、時々母のように小言を言う時もあった。そして大切な時だけ、他人になろうとしていた。彼はばかたれなのだ。

 風邪をひかないように、何か彼にかけてあげるものを持ってこよう。音をさせないようにして立って気付く、湯呑にもうお茶は入っていなかった。

20130305
20150402修正
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