小説
※捏造アリ





 お風呂に入る時とか、着替えをする時とか――毎日、肩に残る傷跡を見る訳ではない。
 何年も前に出来た傷跡にもう痛みはないし、場所が場所である。普通にしている時に目に入るものでもなかった。けれども、その傷を見る度まだ小さかった幼馴染の泣きそうな顔を思い出す。白い服ににじむ血を見て血の気を失ったかっちゃんの顔を。

   〇

 私が知る中で一番の悪ガキは、幼馴染のかっちゃんだった。
 家が近所で同じ幼稚園で、同じ歳。大人相手でも物怖じせず自分の思ったことを言うかっちゃんは自信家で、口角を上げて楽しそうに男の子たちを率いて遊んでいる姿をよく見かけた。
 かっちゃんはお母さんから頭を叩かれても歯向かうし、怪我をしてもへっちゃらだというようにいつもフンと鼻を鳴らすだけ。強くて、頭の回転も速くて、けれどもちょっと……いや、普通に乱暴者でもあった。私自身が何か乱暴をされた記憶はない。けど、出久くんに対する態度は好きじゃなかった。それに対して私が物申すと、ムッと口を尖らせて私の外見の短所をからかうようなことを言った。
 だから、私はかっちゃんがあまり好きじゃなかった。

 けど。ある日、事件を起こして町内を逃げ回っていたヴィランに遭遇した。習い事を終え、もうすぐやってくるであろう母を建物の外で待っている時だった。
 人通りの少ない住宅街で足を引きずりながらきょろきょろと辺りを見る男の人と目が合った瞬間に笑われ、その歪な笑みに体が一気に固まったことを覚えている。にぃと笑った顔で何かを喋りながら近付いてきて、その顔がものすごく怖かった。
 怖くて、よくわからないけど、悪い人だということは幼い私にもすぐにわかった。
 毎日、ヴィランが何かしら事件を起こしていることをニュースで知ってはいたものの、自分には関係ないものだと思っていた。習い事が終わっても外で待たなくていいと何度も言ってきた母の言葉の意味がわかって、涙が溢れた。

 笑って近付いてくる男の人が目の前にやってきた時、周りに大人は一人もいなかった。サイレンが近付いてくる音は徐々に近付いていたものの、居場所を知らせるために必要な助けを求める声は少しも出ない。けれどもすぐに「名前!!」と名を呼ばれて近くに爆発が起きて、それで――


 駄菓子屋に行った帰り道だったらしいかっちゃんは、果敢にも私を助けてくれたらしい。らしい、というのも私はその瞬間のことをよく覚えていなくて、爆発音の次に覚えているのは、かっちゃんの泣きそうな顔だった。
 爆発が起きた際に飛んだガラスの破片で肩に怪我を負った私は、けれどもそれだけで済んで良かったと心から思った。怪我の傷跡が残っても問題だとは思わなかったし、むしろ私はかっちゃんに感謝していた。

 それでも。
 それでも、かっちゃんはそうじゃなかったらしい。あの日を境に、彼は変わった。私にだけ、遠慮をするようになったのだ。
 私をからかうことはなくなり、重い物を持っていると荷物を持つと言うようになった。それまで意地悪だったかっちゃんの変化に最初はくすぐったいような不思議な感じがした。けれども怪我の痛みがすっかり消えて中学生になってからもそれが続くと、悲しくなった。かっちゃんは、私に笑顔を向けることがなくなったからだ。
 中学以降、一度も同じクラスになったことはないから口角を上げて楽しそうに笑う姿を直接見る機会はなくなった。私に向ける表情はいつも同じで、眉間に皺を寄せてから傷跡が残る肩の辺りを見るのだ。

 例の事件が起こるまで、私はかっちゃんのことがあまり好きではなかった。けれど、嫌いでもなかった。
 あれ以来、かっちゃんは私の名を呼ぶことはなくなった。話をする頻度もぐっと減った。けれど、私の肩へ向ける視線にはいろんな感情が含まれているようだった。
 かっちゃんはきっと、肩に傷跡が残っていることを知っている。たいして大きくもない跡に、かっちゃんは思うところがあるのだろう。

 私の肩に残る傷跡はかっちゃんの起こした爆発が原因かもしれないけど、かっちゃんが悪い訳じゃない。そもそものきっかけを作ったのはヴィランである。
 傷は残ってしまったものの、痛みが残るものでもなかった。傷跡はそこまで大きいものでもなく、ぱっと見てすぐに気付くものでもない。私はあの時のかっちゃんに感謝しているのに、かっちゃんはずっとこの傷跡に囚われているのだ。
 痛くもないこんな傷跡のことなんか、忘れちゃえばいいのに。

 昔みたいに普通に話せないことが寂しくて、悲しくて、心がどうしょもなくなる時がある。
 囚われているのは私も同じなのだろう。
 いつからか、私はかっちゃんのことが好きになっていたのだ。

   〇

 かっちゃんの連絡先は知っていたものの、普段やり取りはしていなかった。向こうからメッセージが送られてくるはずはなく、私も何を送ればいいのかわからなかった。同じ学校にいながらも校舎で出会うことは稀で、普通科ですら暇だと感じることはないのだから、ヒーロー科であれば毎日があっという間に過ぎていくだろう。だから今まで、用事もないのにメッセージを送ろうだなんて考えたこともなかった。

 とはいえ、今回ばかりは違う。
 かっちゃんのためにも私のためにも会話が必要だと思ってメッセージを送れば、かっちゃんは私の送った内容を読んでくれた形跡はあるものの返事をするつもりはないようで。

「来るかなぁ」

 雄英の敷地の、人通りの少ない場所を指定して放課後に話があるとかっちゃんに連絡を入れたものの、かっちゃんはまだ来ない。
 ヒーロー科と普通科だと同じ学年でも授業内容が違うために寮に戻る時間が予想しづらく、待ち合わせ時間なんてものを決めて伝えることは出来なかった。出久くん相手なら相談しただろうなぁと、紫色に変わり始めた空を見上げる。
 制服が夏服から冬服へと変わって数週間。この時間にもなると肌寒く、ベンチに座っていると足元にひやりとした風が通っていった。放課後、一端寮に戻って私服に着替えておいて良かったと思いながら足を延ばす。スカートだったら、少し寒く感じただろう。

 あと三十分待って来なかったら連絡を入れて戻ろうと、スマホを取り出そうとポケットに手を突っ込んだ瞬間「おい」と唸るような声が聞こえた。声のした方へ顔を向ければ、制服姿のかっちゃんが立っている。外灯に照らされたかっちゃんは、やはりいつもと同じくへの字口である。
 いつものようにまず肩に視線を向けたかっちゃんにベンチに座るよう促せば、指図するんじゃねぇと言いながらもポケットに手を入れながらこちらに近付いてきて隣に座ってくれた。
 伝えたい事柄について思うと、胸の辺りがソワソワと落ち着きがない。隣に座るかっちゃんへ視線を向けられないまま「急に連絡してごめんね」と、忙しいかっちゃんが時間を作ってくれたことへの感謝を伝えれば、かっちゃんは別に、と一言。
 文化祭でドラムを叩いていたかっちゃんを会場で見ていたから、元気なことは知っている。元気そうで良かったと言えば、当たり前だというように彼は鼻を鳴らした。

「で、なンだよ」

 その声は、想像していた以上に優しかった。昨夜、突然「放課後に会って話がしたくて」とメッセージを送った私に、彼は小言すら言うつもりはないらしい。
 他の人が相手だったら、どうだろう。文句を言うか、それとも内容が詳しくわからないお願いには従わないのだろうか。それが、わからない。
 彼とこうして二人きりで会話をするのは久しぶりだったし、高校に入学してから、かっちゃんは変わったからだ。この間の文化祭の出し物をお客さんとして見た時にそれがはっきりとわかった。口の悪さは変わっていないようだから文句を言うことはあるようだけど、昔と違ってそこに意地悪な感情は含まれていないように見えた。

 だから、尚更言わなくては、と思ったのだ。
 私の言葉を辛抱強く待つかっちゃんに伝えるべく、ゆっくりと立ち上がる。ベンチに座ったままのかっちゃんを見下ろすように前に立てば、彼は訝しむ様子で眉をぎゅっと寄せた。

「かっちゃんに言いたいことがあって」

 そう言って着ていたパーカーのファスナーを下ろすと、かっちゃん口を開けて「は?」と声を上げる。意味がわからないというように――事実、他人から見たらそう思われるであろうことをしている自覚はある――狼狽するかっちゃんの目を見ながらファスナーを下ろしきり、襟元に手を持っていくと私のすることに気付いたのか「おい」と多少の焦りが含まれた声と共に彼の赤い瞳が揺らいだ。

「ねぇ、かっちゃん」

 そう言ってかっちゃんに傷跡を見せるように肩をはだけさす。パーカーの下に着たキャミソールのおかげで、それは彼によく見えるだろう。
 一歩、かっちゃんに近付く。

「もう、ちっとも痛くないから」

 私がそう言うと、かっちゃんは二度ゆっくりと瞬きをした。傷跡をじっと見て、そして私の真意を探すように顔を上げて目を合わせてくる。
 ずっと、この傷からかっちゃんを解放してあげたかった。そして、普通に話をする関係になりたかった。もう一度、私の名を呼んで笑ってほしかった。
 昔に戻りたい訳ではない。彼を好きになった私は、昔のようにかっちゃんに接することはどうしたって出来ないだろう。だから、今出来る関係を築いていきたいと思ったのだ。
 それを決意して彼を呼びよせた。彼にとって嫌な出来事を思い出させる行動を取るかもしれないと思いつつ。

「私の言葉が信用ならないなら、触ってもいい」

 だから、こんな傷を気に掛ける必要はない。ベンチの前で膝をつき、今度は私がかっちゃんを見上げる。かっちゃんの頭の奥に見える空に星が見えた。
 かっちゃんを待っている間、吹く風に季節を感じた。けれども今は、肩をさらしているのにちっとも寒くはない。顔に熱が集まり、じっと向けられる赤い瞳から逃れたくて、けれど嘘偽りがないと証明するように向けられた視線から逃げてはいけないように思えた。

 かっちゃんに助けてもらったあの日を境に、かっちゃんの態度が変わったこと。その原因が残ってしまった傷跡にあると気付いた旨を伝えれば、そうだとも違うとも言わないかっちゃんは静かにポケットに入れていた手を出した。
 躊躇うように一度外された視線が再びこちらに戻されたので頷けば、かっちゃんは呼吸を整えるように間を取ってからその手を私の肌に近付ける。

 私の肩に残る傷跡の、その凹凸を確かめるように人差し指でそっと優しくなぞる。熱を持ったかっちゃんの指が傷跡の端に着くと、今度はそれまでよりもしっかりと跡をなぞるように指が戻っていく。
 くすぐったくて体が震えると、かっちゃんは「痛ェか」と指を皮膚から離して低い声を出した。口元に手をやってくすぐったいと言えば、かっちゃんは少しの間の後、眉をぎゅっと寄せて、けれども決して怒ったという風な顔はせずにもう一度私の肌に触れる。
 出久くんの腕の跡と比べたら全然目立たないでしょと言えば、うるせェと言われた。

 傷跡が残っていることを知りつつも、それがどんなものか見ていなかったせいでかっちゃんは傷跡に囚われていたのだろう。だから、残った傷跡を見て、気にする必要のないものだと理解すれば彼はこの傷跡から解放されるだろう。そう思って肌から手を離したかっちゃんを見上げれば、かっちゃんはボソッと「……お前に、謝りたかった」と呟いた。

「えっ?」

 想像もしていなかった言葉に、間抜けな声が出た。けれどもそれは本当に、意味のわからないものだった。何にと問えば、かっちゃんはぶっきらぼうに「いろいろ」と言いながらはだけたパーカーをきちんと着せてくれた。
 私の腕を引っ張って立ち上がらせたかっちゃんは、掴んだ腕を離さないまま私を見上げる。そして小さくため息を吐いてからゆっくりと立ち上がって「ごめん」と一言呟いた。
 上から見下ろされて、そこで驚く。私が想像していたよりもずっと、かっちゃんは背が高くなっていた。

「痛みはなくても、跡は残った。だから、ごめん」
「跡は残ったけど、それだけで済んだんだよ。あの時はありがとう」

 私が言うと、かっちゃんは少し驚いたように目を見開いて、微かに口元を上げた。


 あの日の前のようには戻れない。私の肩には傷跡が残っているし、私はかっちゃんに恋をしたのだから。
 それでも今日この日を境に、私たちの関係は良い方へ変わっていくような気がした。

20240405
20240419修正
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