小説
 仕事の不満が日に日に溜まっていってそれがついに爆発した時、これはもうやってられないと思った。
 職場で暴れたい気持ちを心に留めただけでも正直褒めてもらいたいくらいで、まあ、つまり自分の心が完全に壊れてしまわないように仕事を辞めたのだ。
 生きるにはお金がかかる。けれども、仕事のためだけに生きるのは御免だ。だから次の仕事が見つかるまで、無理をしないでのんびりすることにした。


 ある冬の日、目的もなく冬の海に行った。
 朝、海岸を走る犬連れの子どもが楽しそうにしている様子がテレビに映っていたのを見たからだ。犬も子どももはしゃいでいて、朝日が輝いていた。それを見たら自然と海へのアクセスを調べていて、簡単に準備を済ませて家を出ていた。

 夏とは違う色をした海にたどり着くも、当たり前だがテレビで見た子どもや犬はいない。けれども冬の海にも関わらずサーフィンをしている人がいて、私はそれに驚いた。
 辺りを見れば、私と同じように一人で海を眺めている人がいて、海岸を歩いているカップルもいるしよちよち歩きをする赤ちゃんのいる家族連れもいる。冬の海は私が想像していたよりも寂しい場所ではないようだった。

 海にいるのは私一人きりではない。
 髪を揺らす風は確かに冷たくて強いけれども、嫌な気持ちを吹き飛ばしてくれるような気持ちになった。
 そうして何もしないでただただ地平線を眺めていると、ふと思い至った。審神者になってしまおうと。

   〇

 大変なことはあるものの審神者という職は私に合っていたらしく、以前のように仕事関係で泣きそうになることや、仕事に関する悪夢を見ることはなくなった。
 審神者になったばかりの頃は慣れないことに悩んだものの、仕事を辞めたいと思うことはなく、心身ともに健康になったと思う。
 そして仕事仲間である刀剣男士に毎年誕生日をお祝いしてもらえる程度には親しくもなれて、充実した日々を過ごしている。

「――名前、お誕生日おめでと〜」
「ありがとう」

 誕生日の朝、部屋を出て廊下を歩いている次郎太刀と出くわすと、挨拶の言葉の次にそう言われた。私の朝食がまだだと知ると、次郎太刀は大げさに驚きながらも口角を上げて「んふふ」と笑って少し屈み、手を口に持っていって内緒話をするように「もしかして一番に祝いの言葉を言えたかい?」と目を細める。
 私が頷けば、そうかいそうかいと次郎太刀は頷く。それは嬉しいねぇと姿勢を戻して、改めてというように次郎太刀はもう一度「おめでとう」と歯を見せて笑顔を作った。

 朝から晴れて良かったねぇと言った次郎太刀は、私が久しぶりに現世で友人と会ってランチをすることを知っているのだろう。
 何時に本丸を出るのかと聞かれ、十時ちょっと過ぎだと言えば次郎太刀は楽しんで来なよと言う。「ただし、夕飯は本丸でパーティーだよ」と人差し指を一本立てて念を押す姿は気さくで、まるで人のようで。そういった次郎太刀の言動は、審神者になる前に思い描いた神様像とはかけ離れているので一瞬おかしく感じるものの、すぐに幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
 照れくさい気持ちを隠すように「わかってるよ」と、子どものような言い方をしてしまったが、次郎太刀は特に不思議がる様子をするでもなく、ならいいけどと肩をすくめるだけだった。

 今日一日刀剣男士に出陣の予定はなく、自由に過ごしてもらうことになっている。
 そうであるものの、前もって夕飯は私の誕生日会を兼ねていると伝えられているため、例年の様子を思い返せば彼らには準備の時間が必要になってくる。それを考えると本丸で休みをもらっているのは私だけのようなものだろう。
 有り難い気持ちは確かにあるものの、申し訳ない気持ちが勝る。小学生であるならまだしも、二十歳を過ぎて誕生日会がないと不満に思うことも不機嫌になることもない。
 一ヶ月程前に会の話を持ってきた和泉守兼定に、申し訳ないと思う気持ちから「せっかくの休みを私に使わなくとも」と伝えたことをふと思い出す。けれどもその時、和泉守は肩をすくめて「何言ってやがる」とため息を吐いたのだった。

「この身を得て、人と語らうことが出来るようになったのによぉ。名前の誕生を祝うのがどれほど嬉しいことか……なぁ名前、その機会を奪わないでくれ」

 そこまで言われれば、頷く他ない。
 いつもの自信のある表情とは違い、眉の端を下げて憂いがある表情は普段の「かっこよくて強い兼さん」ではなく色男のようで、艶のある長い髪から香ってくる百合の匂いも整った唇の色もいつもと同じはずなのに別の本丸の和泉守兼定を前にしているような気になった。
 和泉守兼定という刀を使い、刀剣男士である彼を形作る上でも影響を与えているかの副長は非常にモテたという話は聞いていたが、その片鱗なのだろうかと、ドギマギする心臓を落ち着かせる私を見て彼はなんでもお見通しというように目を細めたのだった。

 けれども今になってよくよく考えれば、和泉守は時々こういう話の持っていき方をして私を頷かせていた。
 一度だってこちらに損が生まれる話はなかったので今まで特に気にしていなかったが、私がただただ和泉守に、そして多分彼の顔に弱いだけかもしれないと今さら気が付いた。


 万屋街に行くという次郎太刀の、にやける口元を隠せていないまま言う「今夜はお祝いだからじゃんじゃん飲もうね」という姿を思い出しながら自室で出かける準備をしていると、軽い足音と共に「主さん」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。それは浦島虎徹のもので、普段よりも少し明るい声に自然とこちらの口角も上がる。
 姿見の前に立ち、一度自身の姿を確認してからどうしたのかと部屋から出ると、浦島は準備している時にごめんねと両手を合わせてこちらの顔色を窺うような表情を作った。もう準備はほぼ整っているため気にしていないという意思表示で首を振れば、彼はぱぁっと花でも咲かせるような笑顔をこちらに向けて良かったと安心して見せて、朝の次郎太刀のように内緒話をするように口元に手を添えて言った。

「主さん、お誕生日おめでとう! それと……夜にやる誕生日会が終わったらさ、少し俺に時間くれない?」

 脇差のため、次郎太刀ほど身長のない彼は私と話す時に屈む必要はない。それでも内緒話をするような恰好のせいか、浦島は普段話す時よりも一歩こちらに踏み込んでいた。
 何も履いていない浦島の右足がいつもよりも近い距離にあるのを見て、すぐにそこから視線を外す。「主さん?」と首を傾げる浦島に「えっと、誕生日会の後だね。うん。大丈夫。特にその後することないし」と早口で返事をすれば、浦島は「やったー!」と両手を上げた。

「あっ、予め言っとくけど、ふたりきりだからね!!」

 軽やかに廊下を駆ける中「ランチ楽しんできてね」という言葉も決して忘れない浦島が廊下の角を曲がるまで、私は動くことが出来なかった。どっどっと煩い心臓を落ち着かせるように胸に手を当てるも、しばらく心臓は落ち着いてはくれなかった。

   〇

 久しぶりに会った友人とは、楽しい時間を過ごすことが出来た。お洒落な喫茶店でランチをしたり、流行りのお店に入ってみたり。特別珍しいことはしなかったのに、ずっと楽しかった。なんでもないことに笑って、難しいことは考えないで思ったことを口にして、それだけでも満足出来る相手がいるというのは本当に幸せなことなのだろう。
 友人と会ったことで、審神者でない私に久しぶりに戻れたのも満足出来た理由の一つだったのかもしれない。審神者であることは苦ではないのになと思いつつ、やはりオンオフの切り替えというものは時に必要なのだろう。

 友人と別れ、約束の時間の少し前に本丸に戻ってくることが出来た私は、好物しかない豪華な夕食を食べ、多くの刀たちにお祝いの言葉を贈られ、素敵なプレゼントを貰った。そして最後は、年々芸術性が高くなっている誕生日ケーキを食べて会はお開きとなった。
 賑やかな場が好きな刀やまだ飲み足りない刀はこの後まだ楽しむようで、会場となった大広間を一端片付けたにも関わらず、それぞれが新しいお酒を持ち込んではしゃいでいる。

「名前〜おめでとう〜大好きだよ〜」

 大広間を出ようとしたところで、頬を赤くして酒瓶を掲げる次郎太刀がそう声を掛けてきた。その周りの刀も、楽しそうな顔をこちらに向けて次郎太刀に続いていろいろと言ってくる。おやすみ。楽しかったよ。またやろうな。とか、そんなことを。
 誕生日会の話を聞いた時は申し訳ない気持ちが勝っていたものの、最中の刀剣男士の楽しそうな顔を見れば次第に有り難く思う気持ちが強くなっていった。
 ケーキが運ばれる前、隣に座った亀甲貞宗にこっそりと「大変じゃなかった?」と聞いた時も、彼は「まさか!」と目を見開いたのだ。「準備している間、ご主人様が喜ぶ顔を想像したんだ。とっても楽しかったよ」と、そう言われたので和泉守の言葉に頷いてよかったとホッとすることが出来た。


 去年も楽しかったけど、今年も楽しかった。
 そう思いながら酔っ払いたちに手を振り、大広間を一歩出ると「主さん、プレゼントは俺が持つよ」と、浦島が後ろから声を掛けてきた。ありがとうと言ってプレゼントの入った紙袋を差し出せば、浦島はそれを慎重に受け取る。

「じゃあ、よろしくね」
「うん。勿論!」

 浦島は脇差の中でも小柄な方で、彼が兄と呼んで慕う二振りとも体格差がある。それでも刀剣男士なので私よりも力があるし、比べるまでもなく私より強い。
 男士から贈られたプレゼントを軽々と持って前を歩く浦島の後ろ姿を見ながら、いつもよりほんの少しゆっくりと歩く。浦島はこちらを振り返らないけれど、私の足音を聞いて歩くスピードを調節しているようだった。
 部屋にたどり着くまで私たちに会話はなかった。それでも、外から聞こえる虫の鳴き声とそれぞれの足音、とくとくと鳴る心臓は絶えず聞こえていたので静かであるとは感じなかった。

 私の部屋の前で立ち止まった浦島にお礼を言って、彼から贈り物が入った袋を受け取る。自室の床にそれらを丁寧に置き、部屋の前で待っている浦島を窺う。そわそわとしている浦島は朝は戦闘着だったのに軽装姿になっていて、そういえば時間をくれと言われただけで何をするのかは教えてもらわなかった。
 今日この日を選んだ浦島のことを考えるも、この後何をするのか想像がつかない。けど、部屋に入ってこない彼がチラチラと外を窺っているのを見るに、どこかへ行こうとしているのかもしれない。
 廊下にいる浦島に何か持って行った方がいいか尋ねると、彼は少し慌てたように「何も! いや、薄手の上着とかある?」と言葉が返ってきたので薄手のカーディガンを手に自室を出た。

「よし、行こう」

 そう言って差し出された浦島の手を見る。
 身長差の少ない浦島の手は、それでもやっぱり私のものとは違う。男の子の手というには色っぽさがあり、大人の男性と比べれば小さく感じるその浦島の手に触れると、心臓がまたはっきりと音を立てた。

 優しい力で手を引いて私を導いてくれる浦島にどこに行くのか尋ねれば、彼は緑のキラキラと輝く瞳をこちらに向けて「海」と一言。
 夜にいなくなってしまったら見つけられなくて大変だと、彼の肩が定番の位置となっている亀吉は本丸でお留守番とのことだったので本当にふたりきりで本丸を出て、歩いて二十分程のところにある海岸へとやってきた。

 常に玄関に置いてある懐中電灯をお供にして道を照らしながらふたりで海まで続く道を歩いていくと、慣れた道が違うものに思えた。夜に海を見にやってきたことはなかったのだから当然で、浦島も「危ないから一人じゃ絶対駄目だよ」と何度も言う。
 そんな中やってきてふたりで見る海は、審神者になってから何度も見てきた昼間の青い空の下にある海とは違い、美しくもなんとも寂しい印象を抱かせるものだった。月が海の上を照らしていて、反射して輝くそれが一本の道を作っているようにも見える。

「夜の海、初めて来た」
「そうなの? 審神者になる前も?」
「うん。だから、なんかすごく不思議な感じ」

 波の音が心地よく、けれどもやっぱりどこか寂しい想いが消えない。そう思う気持ちの大半が、私たちの他に誰もいないからかもしれないけれども、その寂しさに不安は感じなかった。それはきっと、隣に浦島がいるからだろう。
 暫く海を眺めていると、彼は少し掠れた声で「名前ちゃん」と久しぶりに私の名を口にした。

「久しぶりにさ、昔みたいに俺と内緒話しない? 今は俺と名前ちゃんしかいないから、何でも好きなこと言っていいよ!!」

少し驚いて体を浦島へと向ければ、浦島もこちらを向く。それでも互いに手は離さず、浦島は「へへへ」と笑って目を細めた。

「名前ちゃん最近頑張ってるからさ、息抜きしない?」

 その言葉を聞いて、昼間友人に言われた「前の仕事辞める前の名前、会う度に大丈夫かなーって思ってたから、今は元気そうでよかった」という言葉を思い出した。


 隣に立つ浦島虎徹という刀は、私が審神者になったその日に顕現した刀剣男士である。
 浦島は、私が仕事を辞めて心身共に疲れていた姿を知る刀の一振りで、それ故に私のことをずっと気にかけてくれる刀でもある。

 葉の上の朝露が朝日に照らされて輝く美しさを教えてくれたのは浦島で、食事がつまらないものと思うようになっていた私に料理が美味しいことを思い出させてくれたのも浦島だ。本丸に咲く花の名を教えてくれたのも、蝉の鳴き声の違いを教えてくれたのも、夕日に照らされた黄金色に輝くススキが広がる場所を教えてくれたのも、季節の変わり目の変化を教えてくれたのも浦島であった。
 勿論本丸に彼以外がいなかった訳ではないし、彼以外が何も教えてくれなかった訳でもない。本丸の刀剣男士との仲は良好で、それぞれの刀剣男士との思い出は沢山ある。けれども私の心に変化が起こる時、そのきっかけを与えてくれたのはいつも浦島だった。
 自分のものでない体温が心を落ち着かせてくれることを教えてくれたのも彼で、いつの間にか、それを教えてくれた彼は私の心臓を騒がせる原因にもなっていた。

 そんな浦島は、私が審神者という職に潰されないよう、最初のうちは私を「名前ちゃん」と呼んでいた。まるで友達のように、はたまた仲の良い家族のような距離感で。
 けれども本丸に刀が増え、多少なりとも私に自信がついてくると、彼は私を「主さん」と呼ぶようになった。もう右も左もわからない未熟な審神者ではなく、一人前の審神者になったと、そう太鼓判を押してもらえたような嬉しさを抱きつつ、なんだか少し寂しくもあったことを覚えている。

 それが、どうして今になってまた名前を呼んだのだろうと考えていると、浦島は「最近任務続いてたから疲れたかなーって」と肩をすくめる。そういえば、ここ最近ため息を吐くことが増えたような気もしなくない。久しく浦島を近侍にしてはいないが、もしかしたらずっと気に掛けてくれていたのかもしれない。

「……仕事だから、疲れることはあるけど、前の時とは全然違うよ。この仕事って、大変なこともあるけど自分に合ってると思ってるし」
「そう?」
「うん。前はいろいろ考えすぎて頭パンクしそうになったけど、悩みとか……あっ、みんなの作る料理が美味しくて、ちょっと太ってしまったのは困ってる。唯一の悩みかも?」

 冗談めかして言った私の言葉に浦島はぱちぱちと瞬きを繰り返してから「俺は名前ちゃんと初めて会った時の元気がない姿に不安になってたくらいだから……」と視線を彷徨わせて言う。えっと、と繰り返す浦島に私は慌てた。

「いや、ごめん。同性であっても返しづらい話題を出してしまった……」
「……ううん。うん。けど、そうだな。健康診断で問題が無ければ、いいんじゃないかなって俺は思うから」

 けど、名前ちゃんが気になるなら筋トレ手伝うよと、彼は私の手と繋がっていない方の腕を上げて力こぶを作る。
 私の反応しにくい言葉にも、彼は一生懸命考えて寄り添ってくれる。そういうところに私は何度救われただろう。

「本当? 本当にお願いしちゃうかもよ」
「うん、いいよ」

 そうやって即答できるのが、すごいなぁといつも思うのだ。

 月に照らされてキラキラと光る海は寂しくて、でも、綺麗だ。
 浦島の少し高い体温に触れて、浦島の優しい気持ちに触れて、少しだけ感傷的な気持ちになってしまう。

「浦島は優しいなぁ」
「えー、普通だと思うよ」
「優しいよ。本当に」

 私の言葉に、浦島はきゅっと手を強く握り直した。

「名前ちゃんが……名前ちゃんが嬉しいって、幸せだって思ってくれるなら、俺なんでも出来そうだから、だから何でも言ってね」

 いつも明るい元気がいっぱいの浦島の声が、その時は少しだけ落ち着いたものに聞こえた。浦島の顔を見ると、緑色の綺麗な瞳が優しく光っていた。


 少し浦島と話した後、流石にそろそろ帰ろうと来た道を戻ることにした。
 手を繋いだまま、ゆっくりと歩いていたものの、本丸が見えてくるまであと少しというところで浦島は私を「主さん」と呼んだ。浦島の顔を見るも、いつもと変わらない浦島の顔をしている。
 そこで漸く、今夜浦島が私を「名前ちゃん」と呼んだ理由を察した。多分、あの時の浦島は審神者である名字名前ではなく、一人の人間である名字名前に対して話しかけてくれていたのだ。

 本丸を離れ、ふたりきりになったその時、主ではなく、友達のような、家族のような距離感で話を聞こうとしてくれた浦島虎徹という刀剣男士の美しい心に触れて、私は一瞬歩みを止め、泣きそうになってしまった。
 浦島が好きだという気持ちと一緒に涙が溢れてしまいそうになって、けれどもぐっと堪える。そして、今までで一番優しい音になりますようにと祈りながら彼の名と感謝の言葉を口にした。

20231007
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