小説
※好き勝手書いてますのでご注意ください





 古典が苦手だった私は、本部に遊びに来ていた栞ちゃんに恥を忍んで宿題について教えを乞いた。
 学校が違うにも関わらず、嫌な顔もせずに笑って了承してくれた栞ちゃんはもしかしたら女神様なのかもしれない。いや、多分そうなのだろう。もし今後女神をイメージするようなことがあったら、私の女神様は限りなくは栞ちゃんの姿に近くなるだろう。
 ラウンジで宿題を教えてもらえば、その声が聞こえたのか菊地原くんが現れた。ため息を吐きながら「学校が違う人に教えてもらうなんて、よっぽどなんだね」なんて言われてしまい、その通りなので「何かあっても菊地原くんに古典教えられないのは本当に悲しい」と言えば「聞く訳ないでしょ」と言われてしまった。菊地原くんは相も変わらず辛辣だ。

 栞ちゃんと一緒に食べようと、コンビニ限定と謳われていたために買ったチョコを菊地原くんにもおすそ分けすれば、自販機で買ったらしい紅茶を貰ってしまった。優しいねと言えばちょっとだけ菊地原くんは顔をしかめた。しかしその表情が本当に嫌がってのものでないことは知っているので、可愛いなと思わず口角が上がった。
 その後はラウンジに現れた出水くんや陽介くんに応援されながら栞ちゃんの優しい教えによってなんとか宿題を終わらせ、次の日に無事宿題を提出することが出来た。

 休憩時間に胸を撫でおろして栞ちゃんにメールを送る。感謝の言葉と共に今度お礼をしたい旨を伝えれば「気にしなくていいよ〜けど、名前ちゃんのその気持ちはすごく嬉しいな」と返信がきた。優しい。やっぱり栞ちゃんは女神様だ。


 そんなこんなであれから一週間が経ち、私は玉狛支部にやってきていた。
 本部の隊員である私が玉狛にやってくることは滅多にないものの、栞ちゃんに用事があって何度か尋ねたことがある。毎度お土産にお菓子を持っていくからか、いつ行っても歓迎してもらえるけれど、橋を渡った先にあるあの独特な建物を前にする度に本当に入っていいのかとつい考えてしまう瞬間があるのも確かだった。

 今日も今日とて、紙袋の持ち手を握る手が少し強張る。
 栞ちゃんにこの間のお礼をするためで、ちゃんと連絡も入れてある。栞ちゃんには支部で待っててと言われたのだから大丈夫だろうと、そう思っていたのだけれど――

「――えっ!?」
「……」

 なんだお前は、みたいな顔をしたまま一瞬でトリオン体に転換したのは、つい先日ランク戦途中から玉狛第二に参入したヒュース隊員で。眉を寄せてこちらを見る彼に心臓はどきりとした。歓迎されていない様子なのも勿論そうだけれども、トリオン体に転換する前の彼の頭に、一瞬角が見えたからだ。
 先の侵攻で現れた角付きの人型近界民 ひとがたネイバーの情報を思い出して体が石のように固まる。そして、ここが玉狛であることと、彼の初試合を思い出していろいろと納得した。

「玉狛は、私なんかじゃ考えもつかないことをするねぇ」

 頭の中で情報を整理していくと、肩の力が抜けてペタリと床に尻もちをついてしまう。
 未だ無言を貫いたまま観察するようにじっとこちらから視線を外さないヒュースくんに「いやあ、ごめんなさい。急にびっくりしたよね」と言えば、彼は更に眉に皺を寄せた。

   〇

 ヒュースくんが近界民だと知ってしまったことについて、玉狛のみんなの反応は随分とあっさりしていた。私が無暗にヒュースくんのことを話さないと信頼されているのだと気付いて、ピンと背筋が伸びた。迅さんがゆるい表情でヒュースくんの説明をしながら「今後も気軽に遊びに来なよ〜」なんて言っていたので、私がヒュースくんの素性を知っても、これからの未来に悪い影響は出ないのだろう。
 そういったこともあり単純な私は、それまでとは違って遊びに行く感覚で玉狛支部を訪れるようになっていた。毎度お菓子をお土産に持っていくことでヒュースくんとも少しずつ距離を縮め、いつの間にか、彼を好きになっていた。


 その日も私は、玉狛支部を訪ねていた。
 家族の付き添いで行ったデパ地下で偶然見つけた今季限定の可愛らしい缶に入ったクッキーは、きっと桐絵ちゃんも興奮ものだろう。この間の数量限定のプリンを持っていった時の表情を思い出して、その時と同じように陽太郎くんとはしゃぐ姿が簡単に想像できた。そしてきっと、ヒュースくんも食べてくれる。彼は食に関しては他以上に興味があるようだから。
 クッキーを口にして何を言うのか想像して、私は少しだけ、胸の辺りがくすぐったくなるような心地になった。
 それから、お菓子のお土産にプラスしてもう一つ、私はヒュースくんに渡したいものを手にしていた。ヒュースくんの好きなことの一つが絵を描くことだと知った私は、小学生の時に使ったっきり仕舞ってあった水彩絵の具を彼に使ってもらおうと思っているのだ。

「――受け取れない」
「どうして?」
「どうしてもだ」

 しかし、ヒュースくんに絵の具プレゼントは断られてしまった。
 一応中身を確認して綺麗にしたものの、やはり私のお古が嫌だったのだろうか。じゃあ陽太郎くんが使うか聞いてみようかなと言えば、彼はムッとした顔をした。どうしてそんな顔をするのかわからないので困っていると、彼は「受け取れないが、預かってやることは可能だ」と言う。ヒュースくんの考えていることは理解出来ないものの、持って帰るのも少し面倒なので、それじゃあと預かってもらうことにした。
 私が来られない時に陽太郎くんと一緒に遊んでいいからね、と言えばフンと鼻を鳴らされる。そして、気が向いたらでいいからと念を押してから、もし絵を描いたら一枚私に頂戴とお願いをした。ヒュースくんがどんな絵を描くのか、私は気になっているのだ。


 陽太郎くんは林道支部長と本部に出掛けているらしい。ヒュースくんは少し考えたような素振りをした後、絵の具を置く場所を決めるからついてこいと言った。
 言われるがままヒュースくんの後をついていけば、初めて彼の部屋に案内される。最低限のものしか置いていないすっきりとしたヒュースくんの部屋に入ったところ、ヒュースくんは静かに振り返った。どこに置けばいいのかと聞かれ、ヒュースくんの邪魔にならないところでいいよと答えれば、彼はベッドの脇に絵の具のセットが入っている黒いケースを静かに置く。

 本当は彼に使ってほしくて持ってきたものだ。彼の好きにしていいのに、わざわざ置く場所まで聞かれるとは思わなかった。
 絵の具を使ってほしいと伝えてからのヒュースくんは、なんだか少し不思議だった。違和感という程ではないけれど、いつもと違うような気がする。嫌な感じはしない。けれど、何か、彼を見ていると妙に緊張してしまう。その緊張が彼に伝わらないように、隠すように、私は何もわかっていないというフリをした。

「部屋に、何もないんだね」
「当たり前だろう」

 私の言葉にヒュースくんは呆れたような声を出す。
 ヒュースくんは捕虜で、ずっとここ――三門にいるつもりはない。遠征部隊を目指していて、その目的は彼の故郷であるアフトクラトルに帰るため。
 それを考えれば部屋に私物を増やさないことは当たり前だ。そこで漸く、絵の具を受け取らなかったのも、そういう理由なのだと気が付いた。

「……そ、そうだね」

 そうか。そうだ。当たり前だ。
 ヒュースくんが言う「預かってやる」という言葉の裏には、彼の優しさがあったことに気付いて胸の辺りがきゅうと締め付けられた。

 未来に訪れる別れを想像して寂しさを感じながら、じゃあ戻ってお土産に持ってきたクッキーでも食べようと提案しようとしたところ、ヒュースくんは返事をすることなくそっと私の腕を掴んだ。それは簡単に振り払うことが可能なくらい優しい力ではあったものの、私はそんなことはしないでゆっくりと顔を上げた。
 ヒュースくんの灰色がかった青い綺麗な瞳と目が合う。互いに何も言わないまま数秒の後、彼はそっと顔を近付けてきて、静かに唇を寄せた。
 触れ合うだけのキスは、実はもう五度目のことだった。

 ヒュースくんへ抱く私の好意は、敏い彼にほぼ気付かれているだろう。でも、好きだと伝えたことは一度もなかった。
 彼からそんな雰囲気や言葉もないのに、ふとした瞬間、彼は触れるだけのキスをする。いつもと変わりない、なんでもないような顔をして。


 最初のキスは、事故だった。
 それは、激しい雨に降られた桐絵ちゃんがシャワーの後にドライヤーを使っていることを知らずに私がオーブンレンジを使ってしまったことから始まる。その日は雨であったために、玉狛支部では各々部屋で好きに過ごしていた。そのため他の部屋でもいろいろと電気を使っていた可能性は高いけれども、まあ一番はオーブンとドライヤーが原因だろう。電気を使いすぎたせいでブレーカーが落ち、玉狛支部は停電してしまったのだ。

 その日、私は出来たてのおやつが食べたいというヒュースくんの願いを聞くため、玉狛支部のキッチンを借りてマフィンを作っていた。停電なんて露程考えていなかった私は、オーブンの中で焼かれるマフィンをヒュースくんと一緒に見ていたのだ。そんな時、ぷつんと一気に電気が切れ、慌てたところで隣りにいたヒュースくんにキスをしてしまったのだ。
 暗い中での一瞬の出来事だったから確信はもてないけれど、多分そうだと思いつつ、ヒュースくんは唇と唇が偶然ぶつかってしまったとは気付かないかもしれないと、そう思った――というより私は、そうであったら気まずくならなくていいなと願うような気持ちになっていた。
 遠くで桐絵ちゃんが慌てる声が聞こえて、林道支部長の声も聞こえた。中が暗くなって静かになったオーブンがある辺りを見て「停電かな」と呟くも、すぐ隣のヒュースくんからの返事はなかった。ぶつかったせいで、唇が少し痛かった。
 誰かがブレーカーを上げてくれたのか、少ししてから照明が点いた時、停電している最中にぶつかってしまったことをヒュースくんに謝った。彼は少し考えたような顔をしたものの、それまでと変わった様子はなかった。私に倣うようにすまないと口にした彼の様子を見て、事故チューになってしまったことには気付かなかったのか、気付いてもなかったことにしてくれたのだと安心するような、けれどもちょっと残念に思うような気持ちになった。

 それからすぐに、ないと思っていた二度目のキスが訪れる。
 事故チューをしたその日、雨が小雨になったタイミングで家に帰る道すがらのこと。途中まで送ると言ったヒュースくんは、別れ際にキスをしてきたのだ。わざわざ私の傘を持ち上げ、ぐっと距離を縮めてきたことに驚いた私の顔を見たヒュースくんの表情は少しだけ満足気で。そのまま何も言わずに触れるだけのキスをした彼の行為が事故のはずはなく、その時は流石に驚いてどうしたのかと尋ねた。

 彼は近界民である。私が知らない遠い国で生まれ、そこの文化で育ってきた男の子だ。もしかしたら彼の育ってきた土地には、こちらにはない習慣があるのかもしれない。雨の日に、家へ帰る相手の無事を祈るためにキスをする、とか。
 一生懸命それらしいことを考えて、私はない頭の中で彼の行動を正当化しようとした。そうでなくちゃ、おかしいと思ったのだ。彼が私にキスをするなんて、と。
 けれどもヒュースくんは一言、駄目だったのかと聞いてきた。純粋な疑問を持ったような顔で。惚れた弱みで、私は何も考えずに首を横に振ってしまった。

「もしかしたら、ヒュースくんが生まれ育ったところでは誰に対しても別れ際にこういうことをする文化があるのかもしれないけど……ここでそれをやると相手にびっくりされるよ。誰にでもこういうことをしちゃ駄目だよ」

 私の言葉にヒュースくんは暫く何も言わなかった。

「じゃあ、名前だけなら問題ないか?」

 雨粒の音が音楽のように聞こえる中、ヒュースくんは尋ねてきた。その声は淡々としていた。
 私の心臓はどくどくと音を立て、熱が一気に顔に集まっていた。きっと、顔は真っ赤だろう。無意識に傘の柄を持つ手に力が入っていることに気付いた。

「……えっと、その」
「――名前」

 名を囁かれた瞬間、私は無意識に顔を上げた。それはまるで、従順な犬がご主人様に名を呼ばれた時のように。
 自分でも、馬鹿みたいだなと思った。けど、仕方がない。我ながらチョロイなと思うものの、一つ年下の近界民の男の子のことが、私はもう、大好きになっていた。
 だから、ヒュースくんと目と目が合った瞬間、私は「うん」と頷いてしまったのだ。

 彼の言葉に頷いたのは良くないことなのか、それともあれは私にとって良いことだったのか、未だに正解がわからない。
 それでもまた暫くしないうちに三度目のキスがやってきて、私はそれを受け入れた。優しく触れるだけのキスは、魔法に掛かったような気分にさせた。まるで、自分が彼にとって特別な女の子になったような。
 四度目のキスの時も、ヒュースくんは何も言わずにキスをした。数秒触れただけの唇が離れた後も、彼は何も言わなかった。
 五度目のキスが終わった後、私は漸く「どうしてキスをするの?」と尋ねることが出来た。動揺して出た疑問とは違うことを、ヒュースくんはわかっているようだった。

 彼の部屋で、私はもう一度尋ねる。ヒュースくん、と名を呼べば彼はもう一度キスをしてきた。何も言うな、というような様子ではない。そうすることが必要だというような、切なる願いが込められているようだった。

「この行為が、特別なものになってしまわないためだ」

 そうして口を開いたヒュースくんは少し考えた後、ベッドの上に座り、隣をポンと叩いた。説明をするから座れということらしく、倣うように、しかしいつもより少し距離を取れば、ムッと彼は分かりやすく不機嫌な顔を作った。ただ彼の部屋で二人きりという状況故か、流石に文句は言われなかった。

「――それで、特別って?」
「ああ。停電があったあの日、初めてしただろう。事故だったが……」

 事故チューの認識は彼にもちゃんとあったのだと今更恥ずかしくなりながら頷けば、彼は腕を組んでフンと鼻を鳴らす。

「そもそも、名前がオレに対して特別な感情を抱いていることにオレは気付いていた。だから事故であったとしても、そのたった一度の接触が名前の『特別』になってしまうことを、オレは避けたかった。なぜなら、名前は限定品に弱いからだ。この間も、季節限定の菓子と数量限定の菓子についてキリエと話していただろう」
「……ああ、なるほど」

 季節限定品ばかり買ってきていた結果、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。しかも限定品に弱いなんて自分では気付いていなかったから、尚更だ。

「たった一度の特別なものでなければ――名前にとってこの行為がありふれた日常の一つになってしまえば、『特別』でなくなれば、オレが帰った後の名前は平気だろうと……そう思った」

 ヒュースくんの表情は、いつもと何も変わらない。
 未来のことを既に決めている、彼の意思を強く感じた。

「名前の気持ちに、オレは応えてやれない。名前は家族や友人がいる玄界 ミデンを、捨てることが出来ないだろ?」

 わかったかと、ヒュースくんは言う。
 小さく息を吐いたヒュースくんは、じっとこちらを窺うような目をしている。
 彼の言葉を頭の中で繰り返すと、嬉しいような切ないようなそんな不思議な気持ちが胸を占めた。私のことをちゃんと考えてくれたこと、けど、なんだか少しずれていること。
 優しくて、責任感がある彼らしくて、でも女心はわからないんだなぁなんて。
 口を開くも、上手く言葉が出ない。自分の胸に手を当てて深呼吸をすれば、少し気持ちが落ち着いてきた。
 彼の言葉に対する今の気持ちを伝えるべく、改めてヒュースくんに目を合わせる。

「……けど、ヒュースくん。キスを何回もされたらそれはそれで、その、ヒュースくんが言う『特別』とは別の……えっーと、上手く言葉が出ないな……あのね、こうやってキスするの、あまり良い関係とはいえないというか、私たち、お付き合いしてない訳だし、そもそもヒュースくんに付き合うつもりはないようだし……これ、私からしたら良い想いをさせてもらってるような気もするし、結局何度もキスされたら将来ヒュースくんが帰った時に引きずるだろうし、いやむしろこう何回もされるともっと引きずるような気もする、ような……」

 まとまらない感情をそのままに伝えるも、ヒュースくんは口を挟まない。決して馬鹿にせず、私が全て口にすることを望んでいるように待っている。

「何が言いたいのかというと、ヒュースくんが私のこと考えてくれた結果の行為だとしても、未来のことは私にもヒュースくんにも全然わからなくて……ヒュースくんにとっては残念かもしれないけど、多分私、記憶消されない限りヒュースくんのこと忘れられないと思う。だから、ヒュースくんの気持ち、教えて。付き合わなくていいから、それだけ、教えて。それだけで私、いいから。」

 そう言うと、ヒュースくんは微かに口を開け、そして視線を外した。考える言葉を探すような間だった。
 ヒュースくんは責任感がある。真面目で、けどちょっと頑固なとこもある。嫌なことは嫌だとはっきりと言う。だから、彼のキスに込められた感情の大部分は責任感だったとしても、何度も繰り返されるキスにネガティブな感情は含まれていないんじゃないだろうか。
 そう気付けたからこそ、尋ねる勇気が沸いた。ヒュースくんと付き合いたいから、という訳ではない。けど、問うこともなく、なあなあなままキスを受け入れたくもなかった。たった一度、彼が私に向ける感情を知ることが出来たら、この恋は報われるんじゃないかと思ったのだ。

「……名前と同じ気持ちだ。じゃなきゃ、口付けなんて、何度もしない」

 諦めたように感情を吐露しつつも、それでも「好き」とは言ってくれないのがまた彼らしくて、けど嬉しくて、私は笑ってしまった。
 頑固だなーと言えばムッとした顔をされて、いつもより距離を取っていたにも関わらず、ヒュースくんに腕を引っ張られてキスをされた。


 暫くしてから、ヒュースくんが絵の描かれた一枚の画用紙をくれた。
 水彩絵の具を使って描かれた柔らかい絵には、夜の花畑の中で星空を見上げる可愛らしい二匹の大きさの違う犬が描かれていた。

20230523
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