小説
 自分を犠牲にしてまで他人の幸せを願うなんて馬鹿げていると、私はそう思っている。けれでも、名のあるヒーローたちはインタビューで誇らしそうに言うのだ。「身体が勝手に動いていた」と。
 自分の身がどうなるかなんて気にしていなかったと、平気な顔で言うヒーローたちが本気でそう思っているのかどうかは私にはわからない。けれどもそういったインタビュー映像は瞬く間に動画サイトにアップされ、ヒーローを褒め称えるコメントで溢れかえる。多くの人にとって、ヒーローの自己犠牲的行動は、ヒーローたらしめる行為に見えるようだ。
 ヒーローは崇高でなくてはならないなんていう気まりはなくて、けれどもトップヒーローとして名を残すのであればそうでなくてはならないような教育がなされているような気がした。長くNo.1ヒーローとして君臨し続けたヒーローの影響なのか、強く逞しく、そしてピンチのこそ笑顔を見せるような存在こそが真のヒーローだと思う一般人も多くいるらしい。


   〇


「ヒーローは、まず一番に己の幸福を求めるべきだと思うの」

 寮の共同スペースでソファに座る見慣れぬ女子の存在に轟焦凍が気付いたのは、爆豪勝己と仮免講習から帰ってきたある日のことだった。荷物を部屋に置いてこようと思ったところで聞いたことのない声が聞こえた。不思議に思い声がした方へ轟が視線を向ければ、クラスメイトの緑谷出久が私服姿の見慣れぬ女子に絡まれていた。

「ヒーローは自分のことを犠牲にしすぎだよ、そういうのよくないと思います」
「そうだねぇ」
「嘘、出久くんは絶対そんなこと思ってない!! 自分のこと犠牲にしてでも人のこと助けようとしてる!! 出久くんは昔からそう!!」
「そうだねぇ」

 見たことのない女子が、コップを持ったまま腕を胸の高さまで上げている緑谷の腰に抱き着きながら頭をぐりぐりと押し付けている。出久くん、出久くん、と意味もなく繰り返す女子に緑谷は目を瞑りながら「そうだねぇ」と、こちらもまた繰り返していた。そこには、誰からどう見ても、明らかに異常な光景が繰り広げられていた。
 緑谷の近くにいた蛙吹梅雨は、緑谷と女子とを交互に見て心配そうに「本当に大丈夫?」と声を掛ける。近くに偶然いたのであろう面々もその異様な光景に声も掛けられずに様子を窺っているが、緑谷はクラスメイトのその気持ちも理解しているという風に「うん。大丈夫だよ」と返事をした。慣れてるから、と付け加えて。

「名前ちゃん、とりあえずお水、飲もうか?」
「どーして?」
「名前ちゃんが後で後悔するからだよ。落ち着くために、ね?」
「大丈夫大丈夫、後悔なんてしないよ〜」
「いつもそう言うけど、必ずしてるんだよぉ」

 轟がなんなんだあれ、と思っていると後からやってきた爆豪が唸り声のようなものを出しながら「おい、どーして名前が酔っ払ってンだよ!!」と緑谷と女子に向かってズンズン向かっていく。爆豪の存在に気付いた緑谷は「あ、かっちゃんおかえり」と腰に絡みつく女子の頭を撫でながら幼馴染の帰りを労った。
 それを見た爆豪は、クソっといいながら緑谷にくっついている女子をあっという間に引き離す。きゃ、という小さな叫び声を出した女子は自分を緑谷から引き離した人物が爆豪だと気付いた途端に「げっ、勝己くん」と明らかに顔を歪めた。様子を見るに、どうやらあの女子は二人の知り合いのようだ。
 爆豪によって緑谷から離された女子は、緑谷を相手にしていた時と打って変わって気まずそうに顔を歪めて爆豪を見上げている。それにも関わらず、爆豪は女子の顎を掴んで上を向かせて「また個性使ったんか」と、問うような声を出した。位置の関係で轟からは爆豪の顔は見えないが、きっとその目は吊り上がっているのだろう。

 爆豪が怒るのはいつものことだが、ただ単にイライラしているといった風ではなかった。今まで見たことのない感情が爆豪の背中から漏れているような気がして、轟は静かに彼らがいるソファに近付く。
 すると、緑谷は爆豪と共に帰ってきた轟の存在に気付いて静かに轟の傍へ寄った。講習お疲れ様と轟に言った緑谷は水の入ったコップを持ったままで、轟がそれを見れば緑谷は察したように爆豪と、未だに顎を掴まれたまま爆豪へと顔を向かせられている女子に視線を移した。「あの子は幼馴染の名字名前ちゃん」と、困ったように眉を下げながら緑谷は言う。

「幼馴染?」
「うん。経営科の一年生で――名前ちゃんはね、個性の関係で酔っ払っちゃってるんだ」
「個性……」
「うん。名前ちゃんの個性は『酔拳』で、言葉通り酔っ払ったような感じになって、でもすごく強くなる。個性だから勿論お酒は飲んでないんだけど……最後はああなっちゃうんだ」

 ぐでんぐでんだけど記憶が飛ぶことはない。けど、だからこそ毎回後悔して後から謝ってくるんだよ。
 そう言って、緑谷は小さくため息を吐いた。きっと頼まれて個性使ったんだろうな、と独り言を呟いて。

「小学生の頃、名前ちゃんは個性を使ってあんな感じで酔っ払っちゃって、事件に巻き込まれたことがあるんだ。その事件で名前ちゃんを助けたヒーローが怪我をして、暫くしてそのヒーローは引退しちゃって……」

 それから名前ちゃんはずっと後悔をしてる。自分を助けるために負った怪我のせいだーって。それが原因でヒーロー公安委員会でヒーローが働きやすい社会を作っていくのが夢なんだって言うようになったんだ。
 いつも酔っ払うと、あの話になるのだと緑谷は轟に話した。
 轟の問いに、緑谷は何でもないようにホイホイと答えていく。聞いてないことまで説明する緑谷に轟は驚いた。そんな話俺にしていいのかと轟が尋ねれば、緑谷は考える素振りすら見せずに頷く。轟を見る緑谷の瞳は、躊躇を感じさせないまっすぐなものだった。

「うん。名前ちゃんのあの気持ちは、将来ヒーローになりたいと目指す僕たちが知らなくちゃいけないもののように思うんだ。……まあ、だからって名前ちゃんの言う通り自分の身を第一に考えられるかっていったら、難しいんだろうけどね」

 そう言って緑谷は、爆豪と女子――名字名前に再び視線を向ける。目を細めて見るその目は、いつもと少し違うように轟には思えた。
 緑谷が何でもないように幼馴染である名前の過去を口にした時、轟は少し驚いた。しかし、緑谷と爆豪の幼馴染という言葉だけでは言い表せられないような奇妙な関係性を見ていると、二人と名前の間にも轟には知ることの出来ない何かがあるのかもしれないと思わされた。
 轟には、幼馴染と呼んでいい間柄の友人がいない。そのためそれが普通のことなのかどうか、よくわからない。
 それに緑谷は、時々必要以上に他人に干渉するきらいがあることも轟は知っている。もしかしたら幼馴染だから、というだけではないかもしれない。

 いつもと少し雰囲気が違う共同スペースを見ていると、轟は胸の辺りがざわざわとするような心地になる。
 水の入ったペットボトルを爆豪から無理やり渡されている名前から視線を外し、荷物を部屋に置くためにその場を後にした。

   〇

「あっ、轟焦凍くん!!」

 放課後、寮へ戻る途中でそう声を掛けられた轟が振り返ると、手を振ってこちらへ向かってくる女子生徒の姿が目に入った。一瞬考えて、しかしすぐに緑谷出久と爆豪勝己の幼馴染だと思い出す。
 数日ぶりに見た名字名前の姿だった。しかしあの時、名前は酔っ払っていて轟は挨拶などしていない。あの日以降緑谷から名前に関しての話もなく、なにか用事だろうかと思っていると目の前までやってきた名前は少し荒い息のまま「この間は、恥ずかしいものをお見せしてしまって……申し訳ないです」と頭を下げた。

「わざわざ皆に謝って回ってんのか?」
「あー、いや、そういう訳じゃ……轟くんには聞きたいことがあったから」
「聞きたいこと?」

 困ったような照れたような顔をした名前に轟は首を傾げる。
 話したいことってなんだ。そんなものあるだろうか。そんなことを考えているうちに轟は名前に案内されるままに雄英の敷地内でも人通りの少ない場所にあるベンチに座っていた。
 その場所に辿り着く前に自販機で購入したお茶を口にしたところで、名前は「今日は講習ないって聞いてたから良かったよ」と笑った。次の講習は土曜だと轟が言えば、名前は体が少しでも轟へ向くよう座り直し、お疲れ様ですと頭を下げる。そして頭を上げてから轟を見て、眉を下げて小さく笑った。

「あの日は本当に恥ずかしいところを見せちゃって、ごめんね。個性使った後に出久くんに会っちゃうと、もう駄目なんだよね。勝己くんにもあの後めちゃくちゃ怒鳴られて、学校でもう個性使うなって言われちゃった」
「緑谷に会うと、どうして『駄目』なんだ?」
「うーん、安心しちゃうっていうのかな。子どもの時みたいに距離近くなっちゃうんだよねぇ……もう高校生なんだから、あんなことしたら駄目だってわかってはいるんだけど」

 個性が個性だから、大人になったらお酒は飲みすぎないようにしなきゃっていつも思うの、と名前は恥ずかしそうに髪に触れながら続ける。

「それで、その、勝己くんの調子はどうかな?」
「いつもと変わらねぇと思うが……なんでだ?」

 轟のその言葉に、名前は視線を動かして気まずそうな顔を作る。
 自身の手をいじって数秒黙るも、轟に視線を戻してゆっくりと口を開いた。

「えっと……その、実は夏にも個性を使ってかなり酔っ払っちゃったことがあって……その時偶然勝己くんに会ったんだけど、私が個性を使ったってわかった時の勝己くんの様子が変だったというか……この間は出久くんとかみんながいたから普段とそんなに変わらなかったように見えたけど、本当はどうなのか、気になって……轟くんは勝己くんと一緒に講習に行ってるって聞いたからわかるかなって――けど、調子悪い訳じゃないならちょっと安心したというか」
「それは……爆豪本人に聞いた方がいいだろ」

 轟の言葉に、名前の指がピクリと動いた。
 無理やり笑うような、気まずそうな顔を作った名前は少しの間の後、意を決したようにスカートをぎゅっと握って口を開く。

「あー、その、私はあまり自分から勝己くんに声を掛けることはしないんだ。中学の時、何度も喧嘩吹っ掛けてたから……」
「……爆豪と喧嘩してたのか?」
「……うん。勝己くんが出久くんにしてたことが許せなくて。個性使って勝己くんに勝負挑んで、けど勝己くんは男の子だし元々センス良くて強いから私なんか全然相手になんかならなくて……というか、そもそも相手にされなかった。勝己くんは個性を使わないで一分もしない間に私の腕を掴んで、それで終わり」

 名前は頭を掻いて小さく笑う。その表情が、轟には自嘲しているように見えた。

「出久くんから私の話、聞いたかな? あのね、私……昔よく『自分を犠牲にしてまで他人の幸せを願うなんて馬鹿げている』って言ってたの。ヒーローは自分のことを大切にして周りを助けるべきだって、けど、中学二年の冬に勝己くんに言われたんだ。『おまえはデクを理由にこうやって何度も挑んでくるけど、おまえがいつも言う理想と、今やってることは違うんじゃねぇか』って」

 轟はじっと名前の顔を見る。名前の瞳が、微かに潤んでいる。

「その時、その通りだと思っちゃった。私が女だから勝己くんはいつも腕を掴むだけで終わったけど、そうじゃなかったら個性を使われてたかもしれない。そうなると、怪我してたっておかしくない」

 名前は静かに視線を下に向けた。

「自分の身がどうなるか考えることもしないでずっと勝己くんに挑んでたこと、勝己くんに言われてその時初めて気が付いた。本当に、勝己くんの言う通り。ヒーローを目指していない私がそうだったんだから、ヒーローが無意識に人を助けるのは当たり前だって理解したし、私のしてたことって結局、暴力で言いなりにさせようとするのと同義なんじゃないかって……今でも思い返すと自分が気持ち悪くて仕方がなくて、それに、出久くんが私に助けを求めたことなんて一度もなかったのに何度も勝己くんに挑んでたのも本当に、最悪すぎて吐きそうになる……今でも個性使うとその時の考えが口に出るのも最悪すぎる……」

 私が勝己くんに喧嘩を吹っ掛けてたことを出久くんは知らないだろうけれど、と言いながら名前は目を閉じ、両手で口元を覆った。
 過去を悔いているような、そんな様子に思えた。

「人に沢山迷惑を掛けて、その癖偉そうなことを言って、自分勝手で、恥ずかしくて、馬鹿で、私は本当にどうしょもないんだ。自分の内面をこれでもかってくらい気付かされたせいか、私は勝己くんに会うと自分の嫌なところをまた突きつけられるんじゃないかって身構えちゃう」

 勝己くんのせいにしちゃいけないって思ってるんだけど、と言いながらベンチの背もたれに寄りかかった名前は眉を寄せる。

「何度自分のことを嫌いになったら、嫌いって感情の底に着くんだろう」

 気持ちを切り替えるためなのか、名前は自身の頬を両手で叩いて真っ直ぐ前を向く。しかし、すぐに口元が歪んだ。
 轟は、名前が今にも泣いてしまうんじゃないかと思ってしまった。泣いてしまったら、どうしたらいいだろう、とも。

「……勝己くんのことは今でも少し苦手。けど、勝己くんのあの時の言葉は間違ってないし、勝己くんのことが嫌いな訳じゃない。心配に思う気持ちもあって、だから、どうかなって思って轟くんに聞こうって思って」
「それなら、俺より緑谷に聞けば良かったんじゃないか?」
「確かにそれも一つの方法だよね……けど、うーん。それは難しいかな」

 緑谷との仲が悪いとは思えないのに、どうしてなのかと聞こうと開きかけた口を轟は静かに閉じる。
 困ったように轟を見る名前の表情がなんだか悲しそうで、胸の辺りが締め付けられるように痛みを覚えたからだった。


 名前と別れた轟は、寮に戻ってから爆豪に声を掛けた。爆豪は、丁度共同スペースから自室に戻ろうとしていたところだったらしい。

「爆豪、名字がおまえのこと心配してた」
「は?」

 一人、部屋に向かうつもりだったらしい爆豪は振り返って訝し気な顔を轟に向ける。どうしておまえが、といった風な顔で。

「おまえが調子を崩していないかどうか、気になってたみたいだった」
「ハッ」

 正面から轟を見る爆豪は、顎を上げて笑った。
 片方の眉を上げ、両手をポケットに入れたまま「経営科の面倒見るなんて、随分と余裕だな」と言って。

「おまえの幼馴染だろ?」
「おまえにとってはただの顔見知りだろ」

 何を言っているんだ、といった風な爆豪に轟は言葉を噤む。実際爆豪の言う通りだからだ。
 だが、名前と別れる前に見た少し寂しそうな顔を思い出すと、轟は名前の気が晴れるような何かをしてやりたいような気になった。それがどうしてなのかわからないから、言葉にすることが出来ない。
 轟が何も言わないでにいるのを見て、ポケットから右手を出して爆豪は片方の口の端を上げて笑った。

「ヒーローを目指す人間だから、おまえは名前を気に掛けんのか? いや違ェ。そうじゃねぇっておまえだって気付いてんじゃねぇのか?」


   〇


 昔から、名前のことを考えるとおかしくなる。
 名前がデクを好きだったことも、それが初恋であったことも、ずっと昔から知っていた。デクと俺とで態度が違うことも、デクのことを見る横顔が他と違うことも、俺は知ってた。デクは一生知ることはねェが、名前が一等良い顔をするのは、デクを見る時の横顔だった。
 名前のそういうことに気付く度、むしゃくしゃした。それと同時に、ずっと傍にいるのに気付いてもらえねェ感情を抱き続ける名前は哀れだと思った。それで、ざまぁみろと心の中で馬鹿にした。永遠に気付いてもらえないのに馬鹿じゃねぇかと、そう思うことで自分の気持ちを落ち着かせていたのだ。

 雄英に入学してから、経営科の名前と顔を合わせることは減った。
 そもそも、中学に入った辺りからロクな話はしてなかった。名前と顔を合わせればあいつはデクの話をして、勝負をしようとした。
 名前はバカだ。頭はバカじゃねぇはずなのに、俺と自分が昔と変わらず同じだと思っていたらしい。勝負をして、本気で勝とうとしていた。勝てる訳がねぇのに、デクの名を口にして向かってくる名前を前にする度にイライラして仕方がなかった。
 何度名前が向かってきても、向かってくる名前を止めるのに個性を使う必要はない。動きを止めるために名前の腕を掴む度に、俺は、細い名前の腕が折れるんじゃねーって、ずっと考えてた。俺がそんなことを思っていたってことを、名前は一度だって考えなかっただろう。
 いつも、名前は文句のある顔をして、悔しそうに俺を見上げていた。

 名前と関わることが減った夏、オールマイトを終わらせてしまったのは自分だと思い至った時、最初に思い浮かんだのは名前の泣き顔だった。
 ヒーローが引退したのは自分のせいだとデクに泣きついていたあの時の名前が抱いていた気持ちが、俺と同じものかどうかはわからねぇ。けど、全く別の感情ではないはずだと考えた時、無性に泣きたくなった。


 高校に入って、名前がデクに抱く感情が前と少し変わっても、それは初恋の延長にある。
 名前にとってデクはずっと一等大切な幼馴染で、あいつらの関係はガキの頃のまま一生変わらない。
 けど、俺は違う。デクを見る名前をずっと見ていたせいで、誰にも気付かれないようにしていたせいで、俺が名前に向ける感情は昔と違ったひどく歪なものになっているような気がした。

20230501
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