小説
 ひゅっ、と喉から出た音は自分が思っていたよりもずっと小さかったのか、少し離れたところにいる二人に気付かれることはなかった。
 驚いて中途半端に上げたままの両腕はきっと傍から見たらカッコ悪かっただろうけれど、見た目を気にしている場合ではない。その場から一刻も早く逃げたくて、なるべく音をさせないよう息を殺して踵を上げる。
 じゃり、という足元の音がどうかあの二人に聞こえませんようにと願いながら。


 あの二人に気付かれないよう、少し距離を置いた場所から一気に全力疾走をしたため心臓がバクバクと煩い。今年は体育の選択でも陸上は選んでいないから、生身でこんなに走ったのは本当に久しぶりだ。
 まさか、学校帰りにカップルがキスしている場面に出くわすとは思わなかった。まだそこまで辺りは暗くなかったし、そもそも外で何やってんの――なんて今なら思えるけれど、あの時はそれどころじゃなかった。ドラマや映画でならキスシーンなんて何度も見てきたが、リアルじゃ違う。キスをしていたカップルが自分と同じ学校の制服を着た子だったのが尚更、気持ちを焦らせる原因の一つになっていたのかもしれない。
 なんだか胸の辺りが変な気持ちになりながら、ぜえはぁと整わない呼吸をなんとか落ち着かせるように姿勢を正す。
 夏は終わり、薄ら寒いこの季節に汗をかく原因となったあの衝撃的な出来事を誰かに言って気持ちを発散させたくも、内容が内容なだけに誰これ気軽に話すことも出来そうもない。もやもやした気持ちが胸を占める中、額に掻いた汗を拭う。

「名字……?」

 そんな中、現れたのは我らがボーダーのナンバー4攻撃手の村上鋼だった。
 どうしたという風に少し目を大きくさせた彼も制服姿で、時間的に本部帰りかなと思いながらなるべく平生を装いつつ「村上くん、こんばんは」と返事をすると、彼はこくりと頷いて「何かあったのか?」と首を傾げた。

「随分慌てていたようだから」

 変に思われないようにと頑張っても、どうしたってトリオン体でない今の私は急に走れば心臓は派手に鳴るし汗が出る。その反動は鍛えている人よりも顕著だ。
 肩で息をしていた私を見て、水でも買ってこようかと心配してくれる村上くんに「ちょっと驚いたことがあったから」と言って特に問題ないと示すように手を振れば、彼は少しほっとしたような顔をした。

「気にしてくれてありがとう、大丈夫だよ」

 どうしてこんなことになっているか全て吐き出したい気持ちはあれど、個人的に同じ年齢の男の子に言える内容ではなかった。言ってもどうにもならないことだし、村上くんだってそんな話されても困るだろう。
 前髪を整えながら「村上くんは鈴鳴に帰るの?」と聞けば、彼は「これから荒船と『かげうら』だ」と表情を和らげた。

「かげうらかぁ〜」

 そっちの線をすっかり失念していた私は、ちょっと悔しく思いながら「かげうら」という言葉によって鉄板の上で美味しそうに出来上がった豚玉の様子を思い浮かべた。ジュージューと鉄板の上で焼かれる音と甘みのあるソースの匂い、かつお節が踊る姿を簡単に想像出来て、思わず唾を飲み込む。委員会終わりでお腹が減っている人間には羨ましいことこの上ない予定である。

「いいなぁ」
「じゃあ一緒に行くか?」

 お腹すいたぁと思いながら自然とこぼれ出た言葉に、村上くんは今日イチバン良い笑顔でそんなお誘いをしてくれた。「いいの!?」と驚きながら聞けば、勿論と頷いてくれる。

「やったー!!」

 両手を上げて喜ぶと、村上くんは笑う。お好み焼きのおかげで、さっきまで胸を占めていた路チュー事件は既に過去のものになっていた。

   〇

 高校は違うものの、ボーダーが縁で出会った私たちは同じ年ということもあって多分そこそこに仲が良い。二人でかげうらを目指しながら歩く道中は会話が絶えず、親しい仲間たちの話題が続いていく。
 筋肉をつけるために穂刈くんに弟子入りしようかと思っていると私が言えば、村上くんは驚いたような顔して、けれどもなんだか楽しそうに笑った。私と筋トレの組み合わせが意外だったのか、それとも私が穂刈くんに指導されている場面を想像しておかしかったのか、どちらにしても村上くんにとってその発言は予想外のことだったらしい。
 どういう理由で筋肉をつけたいのかと聞かれたから、体力の無さを痛感して、と答える。先ほどの全力疾走の時もそうだけれど、今年の体力測定の後も一度考えていたことだった。

「生身を鍛えて悪いことはないって聞いたからさ。トリオン体での戦闘も向上するって言われてるし」
「ああ、なるほど」

 納得したように頷いて、けれども隣を歩く村上くんの表情は変わらず楽しそうだった。

「そんなに面白い?」
「いや――ああ、不快に思ったら悪い。ただ、想像したら楽しそうだなって」
「そうかなぁ。ああ……でも確かに、キツイだけだと続かないからって穂刈くんめちゃくちゃ応援してくれそうな感じはあるよね」

 穂刈くんは案外お茶目だもんなぁと思いながらいつもの調子で応援してくれる穂刈くんを想像して、私も笑ってしまった。

「荒船も最近筋トレに励んでいるようだから荒船に教わるのもいいかもしれない。あいつは教えるのが上手いから」
「荒船くん、私の体力の無さ知ってるからガチでやりそうだしなぁ……」

 そんなことを言っていると、少し勢いのある車が通りすぎていった。それを見て、ハッとする。薄暗い中、隣を歩く村上くんが当たり前のように車道を歩いてくれていることに今さら気付いたのだ。思い返せば信号を渡った時に立ち位置が変わったのも彼が車道側を歩くためだったのかもしれないし、歩くスピードも私に合わせてくれているような気がする。
 それは私のためという訳ではなく、鈴鳴第一として過ごす彼の無意識のうちから出る癖なのかもしれないし、彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。けれども、なんでもないように自然と対応されているのを知った時の衝撃はやはり大きい。きゅっと胸が締め付けられてドキドキする。
 こんな場面が今までにも何度かあった。そしてそんな時はいつも、彼をもっと好きになってしまうのだ。

 村上くんと知り合ったのは同じクラスの荒船くんに紹介されたのがきっかけで、同じ年の攻撃手ということで少しずつ仲良くなっていった。同じ攻撃手ではあれど、彼と私とじゃ力に雲泥の差がある。それでも彼は、会えば目元を優しく細めていつも気に掛けてくれるのだ。それを嬉しく思うようになったのはいつからだったのか覚えていない。私はいつの間にか、彼が好きになっていた。
 村上くんは、良い人だ。ボーダーにいる時だけでなく、ボーダー外でもそれを感じる。強くて頼りになって、今まで何度も防衛任務で助けてもらったし、勉強を教えてもらったこともある。いつもお世話になってばかりなのに彼は決して驕らないから、すごいなぁと思う。
 告白しようとか、付き合いたいとか、そういう気持ちがないわけではないけれど、友達と楽しそうにしている姿を見たり、いざという時のために励む彼を見たら自分の気持ちはあまり相応しいものではないんじゃないかと思うようになった。友達として、仲間としてこうして話が出来るだけで幸せだしこれが私にとっても良いことなんだと、そう思っている。
 それでも、時々こうしてときめくようなことがあると気持ちが溢れそうになって、ちょっと困る。


「荒船くん、お疲れ様〜」

 お店に入ってすぐに荒船くんを見つけて声を掛ける。予め村上くんが連絡してくれていたおかげで私が登場しても荒船くんが驚くことはなかった。
 私服姿なので荒船くんは一度帰宅したらしい。彼の姿を見て、今更お好み焼き屋さんに制服で来てしまったことに気付く。制服に匂いがつくかもしれないけれど、まぁそれはその時だと思いながらお腹が鳴りそうなので早く注文をすることにした。

「今日影浦くんは?」
「カゲは防衛任務らしい」
「なるほど」

 注文している豚玉の生地が届くのを待っていると、目の前でにやりと笑う荒船くんに気付いてムッと軽く彼を睨む。
 先にお好み焼きを焼き始めた隣の村上くんは荒船くんのにやにや顔に気付いていないのだろう。荒船くんには私の恋心がバレているので、こうして私が村上くんと一緒にいる時、彼はからかうような態度を取るのだ。普段は大人っぽくてクールな荒船くんは、この時ばかりは子どもっぽい顔を見せる。もしかしたら大の仲良しの村上くんですら、こんな悪戯っぽい荒船くんの表情は見たことないのではないだろうか。

「鋼と名字と、三人で飯って実は初めてじゃないか?」
「確かにそうかもしれないな」
「ここに来るとだいたいボーダーの人いるから賑やかになるもんね」

 村上くんの方をチラリと見てすぐにこちらに顔を向けた荒船くんは、良かったな、と声には出さず口だけ動かした。今度はからかっている風でなく、純粋に思ってくれているようだった。それがなんだか余計恥ずかしくて静かに頷けば、荒船くんは小さく笑う。

「たまにはいいな、こういうのも」


 豚玉を作り上げて完食した私と似たようなタイミングで、お好み焼き以外も注文していろいろ食べていた村上くんと荒船くんも食事を終えて満足そうな顔をして手を合わせた。
 美味しかったねといいながら会計を済ませ、用事があると言った荒船くんをお店の前で見送れば、村上くんはこちらを見て「家まで送ってくよ」と微笑む。

 街灯で照らされた道を二人で歩く。草むらの中で虫が鳴いて、月は優しい光を帯びている。
 見送ると言った彼に、平気だよと一度断ったものの、私一人で帰ることを彼は良しとしなかった。そういえば、前も家まで送ってくれたなぁと思いながら少し歩く速度を上げれば、村上くんはすぐに気付いたように「どうしたんだ?」と驚いたような声を出す。

「早く帰らないと、村上くんが帰るの遅くなるなって」
「そんなの気にしなくていい。まだそこまで遅くないし」
「でも、送ってもらうのやっぱり申し訳なくて」
「オレは、名字ともう少し話したいと思っていたんだけど」

 名字は違う?
 目を細めた優しい表情で好きな人にそんなことを言われて、違うと言う女の子はいない。首を振れば、良かったと優しい声がして、隣を歩く彼との距離がほんの少し縮まったような気がした。

 そんな時、ふと今日彼と出会う前に遭遇した出来事を思い出した。秘密を楽しむかのように裏道でキスをしていた同じ学校のカップルのことを。
 好きな人と付き合えると外でもキスをしたくなるものなのか、人と付き合ったことがない私にはわからない。けれど、好きな人と一緒にいられるのは嬉しいし、優しくされると胸が高まるのは誰もが知る感情だと思う。そういう感情は、きっと人と付き合ったことがあってもなくても理解しやすいものだ。
 私は、村上くんにそういう感情を沢山教えてもらった。優しくて嬉しくて、幸せでドキドキして甘酸っぱい気持ちを。村上くんも、誰かにそんな感情を教えてもらったことがあるのだろうか。
 付き合ったら下の名前で呼んだりするのかな、とか。村上くんもキスをしたいと思うのかな、とか。人前でもイチャイチャ出来るタイプなのかな、とか。そういった知りたいことは沢山ありつつも、一生口にしないままかもしれない。それでも今この一瞬は確かに彼の優しい目は私を見ているから――

「じゃあもう少しゆっくり歩いても、平気?」
「ああ、勿論」

20210825
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