小説
※名前変換主は現代を生きる女の子
神様が本当にいるのかはわからないけれど、いたらいいなと思っている。
だからって信心深い訳ではないし、過去に不思議な経験をした訳でもない。
漫画やアニメのようなファンタジーな体験をしたい訳ではないし、そんな世界があるとは思ってもいないし、神様から選ばれた特別な存在として世界を守りたい訳でもない。けど、まぁ、夏休みくらいちょっといつもと違う一日を過ごしたい気持ちにはなる訳で。
〇
家から徒歩十分も掛からない場所にある小さな神社の石段は少し急だ。
階段を一段ずつ上りながら心の中で神様に会う準備をするんだよと教えてくれたのは祖母だったっけ。
駅からの帰り道に神社の前を通ると、石段の上の鳥居が夕日に照らされていた。いつもするように小さく頭を下げれば、微かにする桜の花の香りに気付く。
季節は夏である。蝉が鳴き、夕日ですらジリジリとアスファルトに熱を与えていた。汗が滲んで張りついた髪を払いながら辺りを見渡すも、特に変わった様子はない。夏祭りを 数日前に終えた神社はひっそりとしていて、参拝客もいないようだ。
石段を上って鳥居をくぐった先に、香りの真相に辿り着けるのだろうか――昔から幾度と訪れた神社から漂ってくる香りに好奇心とほんの少しの不安を抱きながら、私は足音を立てないように石段を上ることを決めた。
いつもなら気にかけないだろうに、どうして今日はこんな気持ちになるんだろう。
さらさらと、音が聞こえる。
花の匂いが強くなって、石段を一段上るごとに変なことに巻き込まれることはないだろうかと不安が募る。不安を抱くのに、何故か石段を下りる選択肢は生まれない。それが自分でも不思議でたまらない。
先に進んで匂いの正体を知らなくてはいけないような気がして、そうしなくてはいけないような気になっていて、ゆっくりと足を進めた。
この先に、明らかにいつもと違う何かが待っているような気がして――
神様が本当にいるのかはわからないけれど、いたらいいなと思っている。
だからって信心深い訳ではないし、過去に不思議な経験をした訳でもない。
漫画やアニメのようなファンタジーな体験をしたい訳ではないし、そんな世界があるとは思ってもいないし、神様から選ばれた特別な存在として世界を守りたい訳でもない。けど、まぁ、夏休みくらいちょっといつもと違う一日を過ごしたい気持ちにはなる訳で。
石段を上りきって鳥居を潜れば、驚くことに辺り一面桜の花びらが舞っていた。
舞った花びらはどこか遠くへ飛んでいくこともなく少しずつ色を薄くし、夕日に照らされながら少しずつ景色の中に溶けていくようだった。
「なに、これ」
視界は桜色でいっぱいだったが、地面には一枚の花びらも落ちていない。ありえない風景に思わず声が漏れる。何が起きているかと辺りを見渡せば、いつも掃除がされている参道の中央に一人の男の人が立っていることに気付いた。
白いフードのようなものを頭に被って空を見ていたその人は、私に気付いたのか振り返って笑った。夕日に照らされてはいるが、よく見れば着物を着ていて髪も白っぽい。
その人は、トントンと足を鳴らしてから気さくな笑顔を作って「よっ」と手を挙げてこちらに近付いてくる。
知り合いではないはずだが、顔の向きからして多分、いや絶対私に向けて挨拶をしてきた。
「……っ」
着物の上に白いフードのようなものを着たその人の恰好は真夏には不釣り合いだ。それでも綺麗な顔のせいか、目が合ったとわかると照れくさい気持ちが強くなる。
特殊な恰好故にコスプレイヤーなのかと思うけれど、カメラを持っているようにもカメラがどこかにあるようにも見えない。変な人、なのだろうかと一瞬考えてしまうものの顔が良いせいであまり危機感は湧いてこない。
「こ、こんにちは」
歯を見せて笑って声を掛けられてしまったためについ返事をしてしまった。
まずい、と思ったらふわりと桜がまた空に舞う。変な人だったらどうしようという気持ちはあるのに、離れよう、逃げようという気持ちにはならなかった。
私の返事に目を細めたその人が、すぐに「おっ」と声を上げて空を見上げる。釣られるように顔を上げれば、頬に何かが触れた感触。
「お天気雨か」
空を見上げても雨雲らしい雲はないが確かに雨がぽつぽつと頬を濡らした。
「これはこれは。俺たちの出会いは神に祝福されているらしい」
水溜まりも出来なさそうな量の雨がぽつぽつと降ってくる。
手水舎の屋根の下、空を見る。やはり空は晴れていて雨を降らしそうな雲はない。けれども長い間、私は雨宿りをしている。土砂降りという訳でも雨に濡れるのが嫌という訳でもないけれど、手水舎の屋根の下に一度入ったら出ることが出来なくなってしまった。
「きみ、俺が言うのもなんだが、もう少し警戒心だとか危機意識というものを持った方がいいんじゃないか?」
隣に立つ男の人が腕を組んで私に言った。視線だけこちらに向けるその人は、近くで見れば見るほど美しい人だった。
名を聞かれ、どもりながらも名字名前だと伝えたところで今の言葉である。自分で聞いたんじゃないかと思っていると、彼はからからと笑って「悪い悪い」とおどけてみせた。
髪も瞳も、彼は自分とは違う色を持っている。ウィッグなのかカラコンなのか、それすらもわからないのは綺麗すぎて彼を三秒以上続けて見ることが出来ないからだ。結局のところ、コスプレイヤーなのかなんなのかもわからない。
綺麗な人だけれど、気さくで友好的な態度を取るのでもう少し話してもいいかな、なんて思ってしまって今に至っている。もしも本当にこの人が悪い人だったら、という考えがない訳でもないけれど、心のどこかでこの人は大丈夫だろうと安心しきっている部分がある。それは、今までにない不思議な感情だった。
「名前はここら辺の子なのか?」
「……まぁ」
「そうか、いいな。ここは気持ちがいい」
彼はゆっくりと深呼吸をしてから伸びをする。「空気も悪くない」という独り言を聞きながら少しだけ勇気を出して私が「お名前は?」と聞けば、少し考えるような素振りをしてから「あー、そうだな……鶴さんと呼んでくれ、この服とか、鶴みたいだろう?」とおどけて見せる。
言い方からして、本名ではないのだろう。私に警戒心を持てと言った彼は、正しくその言葉通りの言動を取ったということだ。しかし、嫌な気持ちにはならなかった。
「……鶴さん、ですね」
「ああ、そうだ」
嬉しそうな声色がなんだか子どものようで、少しだけ笑ってしまった。
鶴さんは何もかも不思議で怪しくて、けれども美しい人だと思った。
神様がいたとしたら、こんな綺麗な姿をしているのかもしれない。そう思ってしまうほど、同じ人間には思えなかった。美しいという言葉はこういう人に使うのだと私は初めて理解出来たのだ。
「俺は初めてここに来たんだが、面白い場所はあるか?」
「面白い場所? 観光するようなところは電車に乗らないとないですよ」
「いやいや、観光地なんて聞いてない。きみが好きな場所だったり、面白いと思うものがある場所を知りたいんだ」
「えぇ……うーん、そうですねぇ」
美しいけれど、口を開けば気さくな感じだし、結構面倒な質問をしてくる人だなと思ってしまう。
地元に関する難しい質問に悩んでいると、ふと思い浮かんだ光景があった。
「あっ、季節外れになってしまいますがいいですか?」
「勿論! 名前の思ったことを知りたいんだ」
「ここの神社、春は桜がすごいんですよ。神主さんは掃除が大変だって以前仰ってましたが、世界が桜色に染まったようで――」
綺麗なんです、と言い終わると鶴さんは目を細めて笑っていた。
「普段と違う場所で桜を見るのも悪くないか……じゃあ、次は桜の時期に来るとしよう」
頷きながら言った鶴さんは、私に礼を言った。楽しみが出来た、と嬉しそうだ。
「名前はここが好きなんだな」
「そう、ですね。昔からお世話になっている、と言っていいんでしょうか……」
「そうか。きっとここにいる神も今の名前の言葉を聞いて喜んでいるだろう」
空を見上げながら手水舎から出た鶴さんは「雨、止んだみたいだな」と振り返って笑う。同じように手水舎から出れば空気が微かに湿っているように感じたが、地面を見ても濡れてはおらず、頬に落ちた雨の存在を知っているのに、景色だけ見れば雨が降ったようには感じられなかった。
空の遠くの方がうっすらと暗くなり始めているのを指さして、鶴さんは「名前はそろそろ帰った方がいい」と言った。それはまるで、子どもに言うような具合だった。
ここまで来たのに本殿に寄らずに帰るわけにはいかないと、雨宿りをさせてもらったお礼も兼ねて参拝をしてから少し離れたところを歩いていた鶴さんに声を掛ける。
鶴さんの目的はよくわからないが、彼が言った通りもう用のない私は帰るべきだろう。
そろそろ帰りますねと伝えれば、鶴さんは気をつけろよと手を挙げた。
気さくで、でも何度見ても鶴さんは美しい神様みたいな見た目をしている。
「……あの、変な質問かもしれませんが、鶴さんは神様はいるって思いますか?」
神社でする質問じゃないかもしれないと口にしてから気付く。なんだかここの神社に対して申し訳ない気持ちになりながら鶴さんを見れば、鶴さんは口元に微かな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「勿論」
迷いのない言葉を耳にした途端、背筋が伸びて鳥肌が立った。
寒い訳でもなく、何か恐怖心を抱いたわけでもない。そういうのとは全く違う何かを本能で感じ取ったような感覚だった。
「名前、神は存在するよ」
俺は特別信心深いわけではないし、教え説こうなんて気持ちはさらさらないが、いることだけは確かだぜ。
言った後、頭の後ろで手を組んだ鶴さんは少し照れくさそうに笑って見せた。
見送ると言って後ろを歩く鶴さんは笑って「名前が言った春の桜、見てみるよ」と言った。帰り道に気を付けろよ、と付け加えて。
石段の最上段から見る夕方の景色があまりにも綺麗で、そういえばこの時間に来たのは初めてだったと気付く。遠くの空がうっすらと紫色をしていて、後ろに立つ鶴さんも「綺麗な景色だな」と静かに言った。その声があまりにも優しくて、綺麗な空と相まってちょっとだけ泣きそうになる。そんなこと初めてだったけれど、きっと悪いことじゃない。
「鶴さん、また今度!」
私のその言葉に鶴さんは「じゃあな」と手を振って笑った。
鳥居を潜り、石段を下りきって振り返るもそこに鶴さんの姿はなく、桜の香りだけがまた微かに鼻腔をくすぐっただけだった。
20210720