小説
 普通科の私が初めてヒーロー科の寮にお邪魔したのは、雄英が入寮制度になって二週間程経った日だった。
 平日のとある日、空席の少ない食堂でヒーロー科の轟焦凍くんの隣の席に座ったことがきっかけだ。彼がクラスメイトに「轟くん、本当にお蕎麦好きだよね」と言われているのを聞いて、私は勢いのままに「じゃあうちのお蕎麦食べませんか?」と声を掛けてしまったのだ。
 突然見知らぬ女子生徒に話しかけられて驚いただろうに、彼を含めその場にいたA組の面々は嫌な顔はしなかった。事情を説明すればむしろ喜んで、同じ席にいた女の子に早速今日の放課後来ないかと誘われたほど。
 今考えると、私は何をやっているんだと思うし、なんで彼らも承諾しちゃったんだろうという気持ちになる。けれども私はかなり焦っていたし、轟くんも轟くんでお蕎麦に興味があったのかもしれない。

 私の実家は、お蕎麦屋さんである。
 家族が営むお店は有り難いことに街の人から愛されていた。
 私はお店のお蕎麦が大好きで手伝いをしながら賄いでよくお蕎麦を食べていたが、入寮後「滅多なことがない限り、当分家に帰らせることは出来ないだろう」と困った顔をした先生に言われ、とんでもないことになってしまったと衝撃を受けた。そして、好物を食べたい時に食べられないというのは結構ストレスになるとこの時初めて知ったのだ。
 帰ってみんなの顔が見たい。常連さんと他愛のない話をして、お蕎麦を食べたい。けどそれが出来ないから寂しい――入寮して一週間を過ぎた日、そんなメッセージを家族に送れば、数日後に家族から「良かったらクラスの子たちと食べて」とお蕎麦が送られてきたのだけれど、クラスメイトに蕎麦アレルギーの子がいたので寮でお蕎麦を茹でることは出来なかった。

 私はお蕎麦が食べたかった。雄英の食堂で出されるお蕎麦も美味しいけれど、実家のお蕎麦が食べたかった。
 悶々とした日を過ごす中、食堂で偶然A組の轟くんが蕎麦好きと知って声を掛けたのが始まりで、その日以降私は定期的にA組の寮を訪ねるようになっていた。

   〇

 A組の寮を訪れるのは、これで五回目になる。
 それでも、段ボール箱を抱えてA組の寮の前に立つ時の緊張は一回目の時と変わらない。入った時に困った顔をする人がいたら、なんでいるんだって顔をする人がいたらどうしようと毎回思う。けれども、毎度そう思うとわかっているのに私は実家から荷物が届く度にヒーロー科の寮の前に立つ。
 冷たい風の吹く中でいつ扉を開けようかと考えながら、寮に入った後に初めて見るA組の人が誰なのかを想像して女の子だったらいいなぁと思いながらドアに手を伸ばした。

「こ、こんにちは」
「あら名前ちゃん、こんにちは」

 入って一番、梅雨ちゃんに笑顔で迎え入れてもらえてホッと息を吐く。
 入って一番に見る人が笑顔だと嬉しくて、ああ良かったって思える。寮の前に立った時の緊張が解れていって、ここに遊びに来ても良いんだって実感しながら「お蕎麦茹でに来ました」なんて言えば、梅雨ちゃんは「もう轟ちゃん用意してるわよ」とケロケロ笑う。
 梅雨ちゃんの言葉通り、中を見れば轟くんがキッチンでお鍋やらお皿やらを準備していた。転ばないように気をつけながらも急いで彼のところへと向かえば「名字か」と轟くんは顔を上げる。「今日もありがとな」と先にお礼を言われてしまって、私は慌てて「全然!! こっちがお礼言う方だよ」と首を振った。

「一緒に食べてくれるだけで嬉しいから、こちらこそありがとう」

 本当に、お礼を言いたいのはこちらなのだ。
 初めてお蕎麦をA組の子たちと食べた日の夜、友達と一緒に食べたよと家族にメッセージを送ってから定期的にお蕎麦が送られてくるようになったのだが、お蕎麦は最初の時と変わらず友達と食べる量を想定されて段ボールの中に詰め込まれていた。一人では決して食べ切れない量が入った段ボールを抱えてA組の寮に向かうも、毎日授業に勤しむA組の面々は夕飯前でもお蕎麦をぺろりと平らげてくれるので自分の寮へ帰る時は手ぶらだ。成長期の高校生、特に男子高校生の食欲は半端ないらしく、轟くん一人でも私の倍以上のお蕎麦をあっという間に食べてしまうのだ。
 私が茹でたお蕎麦を美味いと平らげる轟くんを見るのも、私は最近楽しみになっていた。私がこの世界で一番好きなお蕎麦を、お蕎麦が好きな轟くんが美味しいと思ってくれているとわかる瞬間を見ると幸せな気持ちになる。

「じゃあ、作りますか!」
「おお」

   〇

「今日も美味かった」
「本当!? なら、良かった」

 お蕎麦を食べて満足した私がそろそろ食器を片付けようと席を立つと、轟くんが隣に立ってそう言った。
 轟くんはお蕎麦を食べるのが上手い。ずずっと蕎麦を啜る音は勢いがあって聞いていて気持ちがいい。
 お蕎麦が好きで、お蕎麦を食べるのがこんなにも上手な人と出会えたことに神様に感謝したいくらいだ。雄英に入って良かったなぁとすら思う。夏に入寮云々で雄英に入ったことを後悔した日も正直あったけれど、轟くんやA組のみんなが定期的にお蕎麦を食べてくれるようになってから後悔する気持ちはどこかへいった。いつの間にか、A組の寮を訪ねることは緊張を感じつつも楽しいものになっていたのだ。
 自分の単純さに笑えてくるが、やっぱり楽しいことがないと毎日はやってられない。ただでさえ入寮後は簡単に外出が出来ないのだから放課後のこれくらいの楽しみは許されるだろう。

 洗われたお皿を拭いて重ねていく。
 大きな音を出さないよう気をつけていると、棚にお皿を戻す轟くんは「そういえば、店はどこら辺にあるんだ?」と尋ねてきた。
 お蕎麦を食べてもらうにあたって自分の家が蕎麦屋であることは最初に伝えていたが、それがどこにあるのかは説明したことがなかったことに今更気付いて少し反応が遅れる。
 轟くんがその質問をした理由を少し考える。純粋に疑問に思ったのかもしれないし、そもそも意味はないのかもしれない。それでも、彼がそういった質問をしてきたことが私は純粋に嬉しかった。
 お店の場所を説明すれば、最寄り駅は轟くんも降りたことがある駅だったようで「なんとなく場所わかるかもしれねぇ」と頷きながら手を動かしていく。

「うちは天ぷら蕎麦が名物なんだよ」
「天ぷらかぁ」
「うん。ここでは出せないのが残念」

 本当は天ぷら蕎麦も一度は食べてもらいたいけれど、私は家族のように美味しい天ぷらを作ることは出来ない。
 蕎麦好きの轟くんにうちの天ぷら蕎麦を食べてもらいたいと思いつつも運送で時間が経った天ぷらを食べさせたくはないし、私が揚げた天ぷらを食べてもらう気にもならなかった。食べてもらうのなら、美味しいものを美味しい状態で食べてもらいたい。

「じゃあ、いつか食いに行く」

 隣からそんな言葉が聞こえて驚いて顔を上げる。轟くんの方へと視線を向ければ彼は微かに笑っていた。

「天ぷら蕎麦も美味そうだしな」

 普段店で食べる時はざるそばが多いから天ぷら蕎麦を食いたい。
 そんな風に言う轟くんの顔はいたって真面目だから、ちょっとおかしくて思わず笑ってしまった。彼は私が笑う理由がわからないようで「名字、どうしたんだ?」と首を傾げる。

「ううん、なんでもない――そうだね、いつかうちに食べに来てね。たっぷりサービスするから」
「おっ」

 いいのか、と嬉しそうに表情を綻ばせる轟くんに勿論と頷く。
 いつか、それが本当に叶ったらいいのになぁと思いながら未来を想像する。自分の未来にヒーロー科の男の子が関わってくることなんて、雄英に入る前はないと思っていた。雄英に入学したって、普通科とヒーロー科に関わりは生まれないと思っていたからだ。
 夏のある日、勢いのままに声を掛けたけれどあれはきっと間違いではなかったはずで。出会うはずのなかった縁かもしれないけれど、これがいつかの未来まで繋がるものであったらいいのにと心の中でこっそりと願った。

20210720
- ナノ -