小説
※原作ゲームにない設定があります。



 ブーツのヒールがコツコツと鳴る。跳んで塀を走ればスカートがひらひらと舞う。暗闇の中でも、入り組んだ細い道の中でも己は平気だという自信が溢れていて、風が靡く度に乱の髪がさらさらと流れる。
 粟田口の兄弟刀が購入した大型テレビで見ていた世界にやってきた乱の胸は今、フィクションの世界に入りこんだような気持ちで高鳴っていた。遠くに見えるビルには未だ明かりがついていて、街灯のてっぺんに登れば本丸では見たこともなかった人工的な明かりに乱は青い目を輝かせる。
 本丸の周りには自然しかなかったのだから当然だが、夜にも関わらずこの土地は随分と明るいのだと乱は驚いた。

 ひょいと跳べば、風に乗って香ってきた美味しそうな夕飯の匂いに乱は鼻をぴくぴくと動かす。
 ここのお家は焼き魚で、あっちの家はカレー。
 楽しくなってきた乱は思わず笑う。けれどもふと、もう戻らなければいけない時間だと気付く。

「見張り組に怒られちゃうかな」

 ぽつりと零れた独り言は、風に乗ってどこかへいってしまう。
 夏が終わり、実りある秋へと季節が移りかわったこの国は、新しい元号を迎えて間もない。そんな時代に、とある本丸の六振りの刀剣男士が送り込まれた。特別遠征と呼ばれたその任務は、刀の振るわれなくなった新しい時代への出陣であった。



「特別遠征に行ってほしいんだ」

 本丸の大広間に集められた六振りを前に、審神者が言った言葉に乱は首を傾げた。
 厳かなその空間とは相反するジャージ姿で胡坐をかくく男は乱の今の主である。高校を卒業して数年の青年で、本丸では大抵ジャージで過ごしている。高校のジャージや部活のジャージ、時々クラスTシャツを着回す審神者曰く「女子の目がないと皆こんなもんでしょ」である。この言葉に燭台切光忠は信じられないという目で審神者を見ていたが、審神者は全く気にしていなかった。
 今も審神者の後ろに控えている歌仙兼定は何か言いたげな表情である。大方、こういう場でジャージはないだろう、と思っているのだろう。

 恰好の話は置いておいても、乱から見ても今の主はまだまだ子どもだ。
 酒が飲める年齢になったとはいえ、審神者になる前は戦とは無縁の世界にいたのだから仕方がない。危機感が薄く、思考が幼く危うい時もあるが、何があっても弱音を吐かないよう強くあろうとする姿に刀剣男士は最期まで共にあろうと思うのであった。乱も、そんな審神者を支えたいし、子どものように笑う己の主の未来が良いものになるのであれば、どんなことでも出来ると思っている。

「夏にさ、『平成』に特別遠征した刀剣男士がいたって噂を聞いたことはある?」
「いや、初耳だな」

 審神者の言葉に太鼓鐘貞宗が答える。それに審神者は小さく頷き、実は俺も知らなかったと笑った。

「改号されたばかりの令和元年に時代遡行軍の気配を察知したらしいんだ。一度だけ、しかもかなり微弱なね。だから、ちょっくら行ってこいって伝令がついさっきあった」

 だから、お願い出来るだろうか。
 そう口にした審神者の言葉にすぐに承諾したのは山伏国広であった。山伏の笑い声が大広間に響けば、審神者は安心したように息を吐いて任務の詳細を説明し始める。
 今回隊長に任命されたのは、山姥切国広であった。

「話を聞くに、特別遠征とは言えども通常の任務と変わりないようだが」

 汚れた布を被った山姥切は審神者を前に顔に掛かる布を更に引く。山姥切は比較的早い段階でこの本丸にやってきた刀剣男士だが、特別と名の付く遠征の隊長に選ばれたことに少し戸惑っているようだった。

「ああ、名は大層なものだがいつも通り真面目にやれば問題ないみたいだ。政府もちょっと試したいことがあるらしくて――ああ、この匂い袋を身に着けると一般人が刀剣男士を見ても認識しないように出来るんだって」

 政府の人間が行ったテストでは成功したみたいだけど、本実装される前に今回の遠征で試したいらしい。
 そう言った審神者から乱は匂い袋を受け取る。小さな匂い袋は皆それぞれ色が異なっていて、乱が受け取ったものは淡い桃色の布地に桜の花びらが舞っているもので、袋の口は空色の紐で結ばれている。可愛らしいそれに興味がわき、乱は静かに鼻を近付ける。

「桜の匂いと……」

 少しだけ、あるじさんの匂いがする。
 刀剣男士とは切っても切れない香りのするその匂い袋は、お守りとは別の加護を与えてくれそうな気さえする。乱は自分だけの匂い袋を、さっそく腰のベルトに括り付けた。


 そんな経緯があり、皆いつもの戦闘服で令和元年へと遠征へ向かうことになった。
 出陣の際、乱の隣に立ったにっかり青江は「気付かれないといいねぇ、僕たちのことだよ?」と笑う。洒落にならないよ、と乱が言えばこれまた楽しそうに笑ったにっかりが「そうだよねぇ」と目を細めた。

   ◇

「あれ、君昨日もいたねぇ。文化祭の練習とか? でも、こんな時間に止めといたほうがいいよぉ。変質者とか、そういうヤツはどこにでもいるからねぇ」

 へらへらとした赤い顔で話しかけてきたその人間を見た時、乱は驚いた。
 酒の匂いをぷんぷんさせ、重そうに鞄を肩に掛け直してこちらを見る女は確かに昨日も夜に見かけたからだ。

 短刀の遡行軍を猫と見間違えて近寄ったらしい女を庇い、一撃で仕留めた所で言われた先の言葉に乱は眉を顰めながら振り返った。
 信じられない言葉の真意を知るために一歩近付けば、へらへらと笑う女は「あ、君素敵な香水つけてるね。いい匂い」と言ってきた。
 乱が、女が何者か判断するために「あなたはお酒臭いね」と言えば、女は一瞬目を見開くもすぐに「あはは、そうだろうねぇ」とお腹を抱えて笑い出した。

 ここ数日、昼夜問わず令和の時代を歩き回った。だが、乱を含め明らかに装飾が異質な刀剣男士を認識する者はいなかった。見てはいけないものを見てしまったとか、そういった気持ちで目を逸らしているわけでもなさそうだ。その場に何かいるのは認識しているように、すれ違う際は器用に避けられる。まるで、別の何かが見えているような様子だった。

 匂い袋の効果は確からしい。そう思っていた、だが、乱の前にいる女は確かにこちらを見て話しかけている。
 酒を飲んでいるせいで匂いがわからないとか?
 いや、それじゃあ桜の匂いに気付かないはず。
 じゃあ、人間のふりをした、時間遡行軍?
 乱は息を止め、思案しながら射貫くような視線で女を見る。

「君、可愛いねぇ」

 へらへらと、こちらの殺気にも気付かないほど酔っている女の真っ赤な顔を見て乱は大きなため息を吐いた。いろいろ考えても現時点で正解には辿り着かないとわかったからだ。それに、乱には目の前の女がただの酔っぱらいにしか見えなかった。
 どうして女が乱の姿を認識して話しかけられるのか、乱にはよくわからない。とにもかくにもこの人をどうにかしないと駄目そうだと、乱は肩を落とした。


 秋の夜は、少し肌寒い。
 薄いコートを羽織った女の名を乱が尋ねれば、女は楽しそうに「名字名前です」と口にした。
 聞いた身でありながら乱が名前に「もうちょっと危機感とか持ったほうがいいと思うよ」と言えば「そうだねぇ」と名前は頷く。本当にわかってんのかなぁと思いながら乱は名前の後に続いた。

 夜空の下で、乱は得体の知れない女の後に続く。
 先ほど時間遡行軍を倒したので無事任務完了となったものの、姿を見られた名前をそのままにあの場を去るわけにもいかなかった。ここ数日の滞在でこの土地の治安が悪いわけではないのは乱もわかっているが、酔っぱらいをそのままにして何かあっては気分が悪い。へらへらと笑う姿は本丸の酒好きを思わせ、何かの拍子に眠りこけてしまうのではないかと乱は心配してしまう。
 とりあえず名前がちゃんと家に辿り着くまで見守ろうと乱は決めた。

 名前と会話をしながら歩いていると、名前がぼそりと「失恋してお酒飲んで、そうしたらあなたみたいな子に出会っちゃった。悪いことの後には良いことが待ってるんだね」と言った。

「良いこと? どの辺が?」
「あなたは神様みたいに綺麗だから、悪いこと、忘れられそう」

 前を歩く名前の顔を、乱は見ることが出来ない。けれどもこの人は泣きたいのかなと声を聞いて思った。お酒を沢山飲んで泣こうとしたのに泣けなかったのかな、とも。あんなにへらへら笑って、でも、本当は泣きたかったのかな。そう思うと乱は目の前の女が愛おしく感じた。
 可哀想に。けれどもだからこそ、愛しいなと乱は思う。人間のそういう不器用なところが乱は好きだ。

「名前さん、こっちを向いて」

 そう言いながら、乱は名前の前に回り込む。
 驚いたような顔をして乱を見る名前の手を取り、ぎゅっと手を握りしめた。名前は少し困ったように眉を下げ、なあにと囁くような声で乱に問いかける。

「名前さんの未来が、幸多からんことを」

 乱は人間が好きだ。審神者のことは勿論、これまでの乱の主のことも。そして本音を零した名前の声を聞いて、一気に好きになった。
 失恋して泣きたいと思う気持ちを乱は知らない。もしかしたら、一生知ることのない感情かもしれない。だが、いやだからこそ、乱は名前が愛おしいと思った。同情する気持ちはない。ただただ、乱は人間でない存在として、名前の未来へ祝福を願った。
 乱の方が少し背が低いのに、名前はまるで神に乞うような目をして乱を見た。瞳は徐々に潤んできて、力が抜けたように膝をつき、とうとう名前は乱を見上げた。
 すぐ傍の街灯の光が名前の瞳に映って、ああ綺麗だなぁと乱は目を細める。一筋の涙が頬を伝って名前は漸く泣くことが出来た。



「お待たせ〜」

 ヒールの音を鳴らして現れた乱に山姥切国広はため息を吐いた。

「遅いぞ」
「うん、ごめんごめん。実はボクのこと見えちゃう人間と出会っちゃってさ〜」
「はぁ? どういうことだ」
「それを知るために遅くなったんだから怒らないでよぉ」
「怒ってない」

 古くからの仲である山姥切との会話はテンポがいい。
 口を尖らせる山姥切に乱がもう一度可愛く謝罪の言葉を口にすれば「それで」と山姥切は眉を寄せて顎をあげる。説明しろということらしいが、乱は肩をすくめて「ボクにも正直わからないんだけどねぇ」と前置きをした。他の面々も気になるのか、乱の言葉を待つような顔をしている。
 集合場所として指定された古い神社の鳥居の下、乱は空を見上げる。本丸で見る星空と違って、星はあまり見えなかった。

「……その人の名前と住所は確認したから、帰ったら政府に問い合わせてみるよ。けど、時間遡行軍とは関係はないと思うよ。ただの酔っぱらいだったから」
「酔っぱらい……」

 なんだそれ、といった顔をした和泉守兼定に乱も苦笑いである。
 匂い袋が完璧でなかったのかもしれないし、彼女が審神者たる能力を持っているのかもしれない。理由はわからないけれど、それはこれから政府が調べることである。
 時間遡行軍を倒してから名前を家まで送り届けた話をすれば皆頷く。名前と別れた後に時間遡行軍が現れた場所をもう一度調べたものの、何もなかったことも付け加えれば山姥切も「わかった」と納得の表情である。とにかくこの問題は政府に投げなければ何もわからないだろうという認識になったらしい。

 とはいえ、あれはただの匂い袋のバグなんじゃないかと乱は考えている。
 本来ならば繋がらなかったはずの縁が偶然結びついて生まれた出来事だったんじゃないか、と。

「疲れたぁ」

 だからこそきっと忘れられない人間の一人になるだろう名前のあの綺麗な瞳を思い出して自然と乱の口角が上がる。
 綺麗に涙を流したあの名前を見たのは紛れもなく乱だけである。他の誰も知らない乱だけの思い出の存在に胸が弾んだ。

 神様みたいと言った名前の声を思い出す。
 多分、もう出会わない名前の心を少しでも救えたような気がして、自分勝手な自己満足で心が満たされていた。

   ◇

「そういえばさ、乱って現代遠征でお姉さんと出会ったんでしょー。いいなぁー俺も出会いほしいわー」
「出会ったっていっても、酔っぱらいだったし、それにもう一生出会わないんだから、羨ましいことなんてないでしょ」

 帰城して数日、休憩中の審神者に声を掛けられた。箒で庭の落ち葉を掃いている最中のことだった。
 縁側で寝っ転がって「そんなこと言ったって、俺は女の子と出会いたいんだよー」と声を上げる審神者は今日も今日とてジャージ姿である。

「けど、多分忘れてるんじゃないかなぁ。酔っ払ってたから」

 掃除をしながら乱が審神者に言えば、審神者はそうかなぁと呟いた。
 名前が乱を見ることが出来た原因は、匂い袋のバグの可能性が高いという話を、乱は昨晩審神者から聞いた。政府からの連絡では、暫くの間は政府が名前の様子を見るらしい。名前が酔っ払いであったことは報告しているので、このまま何事もなく終わるだろうと審神者は言った。

「ねえねえ、話は変わるけど、あるじさんはさ、失恋とかしたことある?」
「何その質問〜あるに決まってんだろ」
「じゃあさ、その時どんな気持ちになった?」

 何急に、と審神者は顔を上げて乱を見るも、審神者はちょっと考えたような表情をしてから「まあ、ちょっと泣きたくなったかな」と笑った。

title by サンタナインの街角で
20210326
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