小説
※原作にはない設定が多々あります。




 不思議なことが沢山あった。ただ、その時はありのままの事象を素直に受け入れていた。というより、受け入れざるを得なかったといった方が正しいだろう。
 おぼろげになっている記憶を辿って一番に思い出す彼の瞳の色さえ、既に本物とは違う色褪せたものを想像しているに違いない。
 あれは夢だったのかもしれない。そう思いながらも、あの時負った手の平の傷はまだうっすらと残っていて、あれは私が見た夢でも幻でもないことを示しているようだった。

 大学生になって初めての夏休みのこと、私は刀の神様と出会ったのだ。


   ◇


「――特別遠征ねぇ」

 蝉がうるさいほどに鳴く夏のある日のこと、獅子王は審神者から指令を受けた。とある時代の、とある場所で、時間遡行群の気配を察知したのでそこへ行ってくれというのだ。
 実は数週間前に一度、他の本丸の刀剣男士が時代を遡っていたらしい。しかしどうにも動きがなく、ついに刀剣男士は本丸に帰城したとか。それにより、獅子王のいる本丸に政府から話があったのだという。

「その本丸は、動きがないからって諦めたのか?」
「まさか。聞けば、そこの審神者がひどい夏風邪にかかったらしくてね。審神者の力が不安定な中での遠征は続行出来ないと上が判断したらしい。それで話がうちにきたという訳だ。今回は特別遠征だからね、危ない橋を渡るわけにはいかないって訳さ」

 どうやらそこの審神者はまだ中学生になったばかりの子どもらしいんだ。
 政府にしては優しい判断だと獅子王は思ったが、子どもの審神者だと聞いて納得をした。
 獅子王を前に審神者は話を続ける。なんでも今回の遠征任務を引き受けると有り難い報酬を受けることが出来るのだとか。

「博多が喜びそうな話だな」
「確かに。だがまぁそれだけで引き受けた訳じゃないんだ」

 口元を微かに緩ませて獅子王を見る審神者に獅子王は片方の眉を上げ、首を傾げる。

「いやなに、政府に聞いた話を思い出してね。気にしないでくれ――」

 相変わらず不思議な人だなと、審神者の話を聞きながら獅子王は思った。獅子王の今の主は、還暦を過ぎた男の審神者である。力仕事は得意ではないしやらせる気はないが、戦略に長けており本丸にいる刀剣男士は皆審神者を慕っている。真面目で、嘘のない人間であり、主として従うには十分な人であった。ただ、時々何を考えているのかわからない――というのが、獅子王の見解である。
 孫を可愛がるじじいみたいなもんだと思ってくれ。獅子王はそんな言葉を審神者から言われたことがある。いつか言われたこの言葉を不意に思い出すのは、審神者を不思議な人間だと思いながらも獅子王が案外その言葉を気に入っているからかもしれない。審神者が長く家族に会えていないことを知っている獅子王が、寂しそうに笑う審神者に向かって仕方ねぇなと笑って返して審神者を笑わせたのはつい最近のことのようで、しかし実のところ随分と前のことである。

「――ということだ。獅子王は目立つ髪色をしているが、まぁ大丈夫だろう」

 いくつかの話をした後、服は時代に合ったものを政府が用意するらしいと説明した審神者はまっすぐと獅子王の目を見やった。

「で、獅子王、この任務引き受けてくれるか」
「ああ。この俺を隊長に選んでくれたんだから期待に応えてみせるさ」

 はっきりとした声で獅子王はそう答えた。薄い唇を閉じ、審神者に頭を下げれば審神者は礼を言う。

「よろしく頼む」
「ああ、任せとけ!!」


 聞けば、今回の遠征先は「平成」という、この本丸の刀剣男士が今まで一度も出陣したことのない、刀が振るわれなくなった時代らしい。


   ◇


 大学生のうちにいろんな所にいっとけ、という言葉と共に親戚から受け取ったのはとある博物館のチケットだった。

「なに、これ」
「日本刀の企画展が見られるらしい。会社で二枚貰ったからやるよ。最近の女子ってそういうの好きなんだろ?」
「確かにそういう話は聞くけど……」
「案外面白いと思うけどなぁ。俺は行かないから、やる」

 仕事の用事で近くまでやってきたからと遊びにきた親戚はソファで寝っ転がりながらテレビを見てお菓子を食べている。いいのかそれで、と思いながら受け取ったチケットを見ると、中央に行書体で「刀剣」と書かれていた。

 ここ最近、日本刀を見に各地へ足を運ぶ女性が多いらしい。爆発的に増えた来場者に博物館は嬉しい悲鳴を上げ、寺社仏閣での展示企画も例年以上に増えているとか。いつの間にか日本刀にまつわる書籍が本屋の特集コーナーを設けられており、テレビでも特集を組まれていた。それによって日本刀の情報に触れ、興味を持った層が日本刀を見に行くという連鎖も起きているらしい。よく知らないけれど人気なようだから、といった日本人らしい気質もあってか、とにもかくにも世間では日本刀ブームであった。

 チケットを譲ってくれた親戚は、世間で噂されているようだし女子大生である私に渡しとけば喜ぶかもしれないと考えたのだろうか。いや、もしかしたらお正月に私が楽しみにしていたケーキを勝手に食べたことへの償いかもしれない。



 眩しいくらいの太陽の光は、これでもかというほどギラギラと眩しく輝きながらアスファルトを照らしている。駅前にあった気温計によると既に三十度を超えているらしい。八月の半ばであるから当然だが、今日も今日とて嫌になるほど暑い。
 昨夜目的地へのアクセスを確認したためなんとか辿り着けそうだ。駅を出ると、もわりとした熱気に辟易したが、案内表示に従って道を曲がり大きな建物が現れたのを確認すれば少し心が躍った。背の高い門とその奥にどっしりと構えた建物はさすがという感じで、門の前に設置されている大きな企画展ポスターには受け取ったチケットと同じように「刀剣」と大きく書かれている。

 親戚に二枚のチケットを貰いながらも、今日は一人で博物館に来ていた。残念なことに、都合が合う友人が見つからないまま展示の終了時期が迫っていたのだ。大学の夏休みは長い。そのためバイトに精を出す子や実家に帰省する子、免許を取りに行く子や海外旅行に行く子等々、とにかくみんなアグレッシブに長期休みを活用しているようだ。貰ったのに行かないのは勿体ない。それに世間で噂の日本刀を見てみたいという気持ちも確かにあったため、私は一人で博物館へ行くことにした。

 電車を乗り継いでやってきた博物館には開館前にも関わらず多くの人が列をなしている。列に並ぶ人をよく見ると、女性が大半を占めていた。
 門の前に作られた列にあっけに取られながら鞄をあさる。列に並ぶ前にチケットを用意しておいた方が良いかもしれない。腕時計を確認すれば、あと十分もしないうちに開館である。
 日差しは強く、蝉が鳴いている。夏休み時期とはいえ、今日は平日である。それにも関わらずこんなにも列をなすなんてと驚くも、でないとあんなにもテレビで特集しないかと納得をした。
 首元に汗がにじみ、鞄の中からタオルを取り出して一度汗を拭いて額に張り付いた髪を整える。大学入学時より少し伸びた髪が暑苦しくて、今になって髪ゴムでも持ってくるんだったと後悔をする。

「日本刀を見に来たのか?」

 歩きながら鞄の中から財布を取り出し、チケットを取り出して列へと近づくと突然後ろから声を掛けられた。

「えっ?」

 突然のことに驚いて後ろを振り向けば、金髪の男の子がすぐ後ろに立っていた。「ほら、チケット落としたぜ」と一枚のチケットを差し出され、戸惑いながらお礼を言えば白い歯を見せて嬉しそうな笑顔を作った彼が「どういたしまして」と言う。
 財布からチケットを取りだした時に一枚チケットが落ちてしまったのだろうか。歩きながらだったせいか気が付かなかった。目の前の彼は「驚かせて悪かったな」と謝る。

「これも何かの縁だ。良かったら一緒に回らないか。なんなら説明するぜ、俺は日本刀には詳しいんだ」

 楽しそうに笑う金髪の男の子の言葉に私は思わずどういう縁なの、と心の中で呟いた。ナンパ、だろうか。いやいや、そんなまさか。
 目の前で笑う男の子の髪は太陽の光に反射してきらきらと眩しく光っていて、白いゴムで髪を一つにまとめている。黒地のTシャツに黒いスキニーという恰好は暑そうに見えるけれど本人はそんなことないような顔をしている。右足の裾だけ折り曲げたスキニーから伸びた足首は細く、活発な印象を受けるわりに肌の色は白かった。荷物の類は無く、妙に身軽だ。外見から推察するに、大学生くらいだろうか。
 少しの間、私は何も答えることが出来なかった。整った顔に好感のもてる笑顔、落としていたチケットを拾ってくれた男の子。でもだからといって突然声を掛けてきた男の子と一緒に博物館を巡るのって……。
 何と答えるべきなんだろう。どうすればいいんだろう。
 
「……って悪い。正直言うと実はここ初めてでよくわかってねぇんだ。調べたいことがあって中に入ろうと思ったんだが、開館前らしくて」

 あんたはなんだか話しかけやすそうだったから、と続けて呟く彼がなんだか無性に可愛く思えて、悪い人じゃないんだろうなと思いながら「じゃあチケット一枚あげます。私は日本刀について無知なので、良かったら教えてください」と一度受け取っていたチケットを差し出してみた。自分でも驚くほど、すんなりと口が回った。私の言葉に彼は勢いよく顔を上げ、いいのかと驚く。貰ったものだと説明すると、あんたいいやつだなと嬉しそうに笑う。

「俺の名は獅子王、あんたの名はなんだ?」

 細められた瞳はまっすぐとこちらを見ている。じっとこちらを見つめる彼の瞳は、擦ったばかりの墨のような色だと思った。綺麗だと、そう思った。

「えーっと、名前です」

 恥ずかしくて視線を外しながらそう答えれば「名前かぁ。良い名だな」と随分と優しい声色で言われ、どきりと心臓が鳴った。
 

「獅子王くんは、日本刀が好きなんですか?」
「……ああ、まぁそうだな。嫌いじゃない」
「へぇ。私はこういうの初めてで……」

 開館まであと少し。既に長く形成されている列に並びながら獅子王くんに尋ねると、少し考える仕草をしながら彼はそう返してきた。
 目の前に並んで楽しそうに会話をする女性を見ながら獅子王くんは「本当に若いねーちゃんたちに人気なんだな」と驚いたように呟く。「テレビでも最近日本刀の特集されてますよね」と言えば、ふぅんと頷いた後「すげぇな」と小さく笑っていた。
 年齢を聞いても良いのだろうかと気になって質問してみれば「俺の方が年上だぜ」と苦笑いをされた。私の年齢を知らないのにどうして言い切ることが出来るんだろう。純粋な疑問は知らずと顔に出ていたのだろうか、獅子王くんは「そういうところがまだまだって感じだ」とからからと笑う。
 よく笑う人だ。そしてちっとも嫌味に感じないのはどうしてだろう。まだ出会って一時間もしないのに、なんて思っていると列が進んでいった。どうやら開館時間になったようだ。



「これは――」

 ガラス越しの日本刀に、私は思わず息を飲んだ。テレビで日本刀の鑑定をしているのを見たことがあった。それこそ最近は日本刀ブームだといって日本各地の有名な日本刀を紹介する特集を見たことがある。けれど、ガラス越しといえど実際に見る日本刀は――

「綺麗」
「そうか」

 普段手にする包丁とは、こんなにも違うものなのか。
 包丁とは違うんだね、なんてことを口にしたら日本刀に詳しい獅子王くんに怒られそうだと思いながら刀を見る。
 刀の知識は、全くといっていいほどない。だから私には「綺麗」「美しい」というありきたりな言葉を使わずに表現する方法を持ち合わせていない。

「何百年も、物によっては千年以上前に打たれたものがこんなにも美しい状態で残っているなんて……」

 指紋一つないガラス越しに刀を見ていると、隔たりなんてないのではないか、手を伸ばせば触れてしまうのではないかと思う瞬間もあった。集中しすぎて顔がガラスに近づき獅子王くんに声を掛けらるという失態まで犯してしまった。

 ちょっと休憩するかと声を掛けられ、設置してある大きなソファに腰を下ろす。今までにも何度か博物館や美術館に足を運んだことがあるけれど、こんなに時間をかけて展示を見るのは初めてかもしれない。隣に座った獅子王くんは「楽しいか?」と尋ねてきた。

「うん。息をするのも忘れるくらい、すごいなって」
「そうか」

 集中して見ていたせいで疲れを自覚しつつ、自分が興奮しているのもわかった。獅子王くんが時々説明をしてくれるから尚更楽しめているのかもしれない。それにしても詳しいですねと言えば、まぁなと自慢げに彼は胸を張った。
 獅子王くんを最初見た時、ちゃらい人なのかなと思っていた。それは外見から判断したものだったが、実際話をしてみると彼の印象がどんどん変わっていった。日本刀の説明を聞くに、獅子王くんはかなり頭が良いとみえる。説明はわかりやすくて声も不快に思わない耳なじみの良いもので、こちらの表情を見てわからなかったのだろうと判断すればかみ砕いて話してくれるのだから有り難いことこの上ない。
 あの刀が好きかもしれない、あの刀が印象に残った、そう獅子王くんに伝えれば彼は静かに私の話を聞いてくれる。

「名前の言ったこと、あそこにいた刀に聞かせてやりたいぜ。きっと喜ぶから」

 目を細めて獅子王くんは笑う。あまりにも嬉しそうに笑うので、恥ずかしくなってしまった。変なことを言っただろうかと自分の発言を思い出していると、獅子王くんはぼそりと呟いた。
 ――を見たら、何て言うんだろうな。
 小さな言葉はよくわからなくて、私は思わず彼の顔を見る。優しい表情をして私を見ていた獅子王くんは「有り難うな」と何故か私にお礼を言った。

 休憩を挟んで再び展示を見ていく。
 広い館内を一周すればいつの間にかお昼を過ぎていた。
 集中して頭を使ったせいかお腹もすいてしまい、お腹の音を獅子王くんに聞かれ「そろそろ飯にするか」と言われ随分恥ずかしい思いをした。

「名前、あっちに喫茶室があるみたいだぜ。そこ行くか」
「あっ、はい」

 案内図を見ながら喫茶店のある場所を指し示す獅子王くんの言葉に頷く。
 ふと数時間前に会ったばかりの人とご飯を一緒するのだと気付くも、嫌という気持ちは少しもなかった。そういうの、苦手だったんだけどなぁ。

「獅子王くんは好きな刀とかあるんですか?」
「俺か? 俺は――」

 喫茶店へ続く通路を歩きながら彼に質問をしていると、突然ゴロゴロと雷が鳴っていることに気付く。
 喫茶室がある別館とをつなぐ廊下はガラス張りで造られており、黒い雲が空を覆っているのがよく見えた。雲の隙間からは稲光が見える。雨の予報がなかったのにと驚きながら「雨降るかな」と獅子王くんに声を掛けると、彼は突然立ち止まった。

「……? 獅子王、くん?」

 獅子王くんは辺りをキョロキョロと見渡し、舌打ちをした。前髪に隠れた瞳は見ることが出来ないが、ぴくりと動いた頬とちらりと覗いた犬歯を見て思わず背筋が凍る。今までの獅子王くんとは真逆の印象を受けた私は、彼を怖いと思ってしまった。
 それでも彼はすぐに表情を戻し、こちらに顔を向けて笑顔を作る。

「ちょっと行かなくちゃなんねぇみたいだ。本当に悪い。多分、こっちの方が安全だと思うけど、何かあったら俺の名を呼んでくれ――」



 突然駆けていってしまった獅子王くんに驚いて一人廊下に立ち尽くす。

「ちょっ、獅子王くん」

 私の言葉に謝りながら駆けていった獅子王くんは、申し訳そうな声を出しながらも一度も振り返りはしなかった。……ご飯、食べちゃった方がいいんだろうか。それとも待っていた方がいいんだろうか。多くの人で溢れていた展示室と違い、館の端に移動していた私たちの他に人の姿はない。静かな通路でお腹の音が盛大に鳴り、一人むなしくなりながらため息をつく。
 それにしても、獅子王くんが最後に言った言葉ってどういう意味だろう。
 これからどうしようと考えている間も稲光は依然続き、一つ雷が落ちた。雷鳴の大きさからかなり近いところに落ちたことがわかった。

「さむっ」

 電灯がいきなりチカチカと点滅しだし、体がぶるりと震える。
 先ほどまで丁度よく制御されていた心地の良い室温が、獅子王くんが駆けていってしまってからというものの鳥肌が立つほど冷たいものに変わっていることに気付いて思わず自分を抱きしめるよう腕をさする。
 何か起こっているのだろうか。そんなことを考えてしまう程度には、少し異様な雰囲気が漂ってきた。異常な空気に辺りを見渡せば視界の端に何か黒い靄が動いた。

「ひぃ」

 クラシックな造りをしている本館と異なり、喫茶室へと続くこの場所はガラス張りになっていて外の景色が見渡せるようになっている。そんな中、ガラスの向こう側に何か明らかに人ではない大きなモノが立っているのを見てしまった。靄がかかったように体の輪郭がぼやけているが、その中で鈍く光るものを見つける。
 私にはソレが、日本刀に見えた。
 最初、異質な姿に撮影かなんかだろうかと思った。いや、そう思いたかった。しかしソレは、あきらかにそういった作り物の類ではなかった。ソレは刀を振り上げ、近くにあった看板を破壊し、雄たけびを上げる。
 ガラスの隔たりがあるにも関わらず、ソレが出した大きな音に体は震え、漏れそうになった悲鳴を抑えるために口を自分の手でふさぐ。
 あれは興味本位で近付いてはいけないものだ。逃げなくてはいけないような、そういったものに違いない。

 ソレが赤い目を光らせ、こちらを見ている。右手には大きな刀を持っている。あれは、午前中、獅子王くんに教えてもらった大太刀というものではないのだろうか。
 ガタガタと体が震える。歯が鳴り、息が荒くなる。
 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。何だあれは、何が起こっているの?
 どろりとした液体を垂らしながら少しずつこちらへ近付いてくるソレから逃げるためにどうにか逃げる。なんで、なんで。なんでこっちにくるの!!

 遠吠えに近い、異様な声が背後から聞こえる。
 獅子王くんは、どうしていなくなってしまったのだろう。どうして、突然いなくなってしまったのだろう。怖くてたまらない私は、さきほどまで近くにいた優しい存在に縋りたくて仕方がなかった。手を引いて一緒に逃げてほしかった。大丈夫だと安心させてほしかった。ひどい、とすら思った。どうしていなくなってしまったのかとやり場のない恐怖心を心の中で彼へとぶつけた。

 アイツヲコロセバミライガカワルニチガイナイ。

 何度も振り返って追ってくるソレとの距離を測って走っていると、そんな言葉が聞こえた気がした。意味がわからなくて、怖くて、涙が溢れてくる。
 怖い、怖い、怖い。
 サンダルのヒールの音がカツカツと響く。
 正面ロビーまでやってくるも、そこには誰一人いなかった。アレの姿が見えない恐怖とここから出ても安全なのかという不安を抱きながらも扉の前に立つ。外に出れば、警備員さんがいたはずだ。だから、だからどうか早く開いて。
 反応しない自動ドアに恐怖心が大きくなる。自分の荒い呼吸音と嗚咽とは別の音に気付けば涙が溢れて視界もままならなくなっていた。

「た、助けて獅子王くん」

 ようやく開いた自動ドアから勢いよく外へ出れば、風の音が耳元でした。
 嗚咽の音。ヒールの音。雷の音。様々な音が聞こえる。絶えず溢れる涙により、視界は最悪。どうにか逃げようと走ったが何かが体にぶつかってきて転んでしまった。痛い。怖い。痛い。

「獅子王、くん、お願い」

 助けて。
 どうしてこんな目に合わなくてはいけなんだろう。
 音をさせながら突撃してくるモノに気付いてどうにか体を動かす。何かあたったようで左手の手のひらに痛みを感じた。じりじりと熱を持ったように痛い左手を持ち上げれば、手の平には赤い線。


「――名前!!」

 求めていた人の声と、鼻をかすめる優しくて泣きそうになる桜の匂いに再び涙が溢れた。

20190309
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