小説
 はじまりは、大切な小物入れを直してくれた――誤って落として蓋がきちんと閉まらなくなってしまった小物入れを食満が直してくれた――あの日だ。私は、あの日から食満に恋をしている。

 大切な小物入れだった。同室の友人がくれた大切なもの。
 用具委員はよく補修だなんだと学園を歩き回っているから、もしかして用具委員長の食満ならとすがるような気持ちで会いにいったのだ。
 食満に声を掛けた時も、彼は運動場近くの壁を修復していた。後輩に指示を出しながらも一番に働いていたのが彼で、申し訳なさを感じながら声を掛ければ少し驚いたような顔をして応えてくれた。
 こんなの朝飯前だ。だからそんな泣きそうな顔をするんじゃねぇ。
 そう言って笑った彼の顔がとても優しかったのを今も鮮明に覚えている。

 正直、それまで食満と話したことは無いに等しかった。こんな時だけ頼るなんてと言われてもおかしくなかったのに、彼は問題ないというように用具倉庫から持ってきてくれた工具で小物入れを直してくれた。

 ほら、直った。
 そう言って慰めるように小物入れを差し出した彼の笑顔と優しさに、私は惹かれたのだった。

   ○

 くの一教室が委員会に所属することはないけれど、私はここ最近ずっと用具委員会の手伝いをしている。
 小物入れを直してくれたお礼だと言っているけれど、勿論それだけではない。今まで忍たまとはあまり関わりのある方ではなかったから、私は食満のことをちっとも知らなかったのだ。手伝いをすれば彼を知ることが出来ると思ったのがはじまりで、会う機会を増やせば日々彼への気持ちは募っていくばかりだった。


 放課後、今日も食満と一緒に学園の壁の補修を行っていた。
 最近壁の修理が多いねと言えば、食満は恥ずかしそうに今日の補修は俺と文次郎が壊したものだと言った。
 最初、食満は私の手伝いを断ったが、私が強引に押し切れば困ったように笑って肩をすくめた。「文次郎にやらせるつもりだったんだが」なんて言うが、それでまた喧嘩なんてしたら永遠に終わらないでしょ、と言えば眉を八の字にして「確かにな」と彼は呟いた。

 食満は崩れていた壁をあっという間に直してしまう。私が手伝ったのなんて、ほんの少しの作業であった。
 食満が真剣に作業をする横顔が、とても好きだった。そういえば、小物入れを直す時の表情にときめいたのだと思い出して急に顔があつくなる。
 キリっとした眉と目、スッと通った鼻筋と、薄い唇。そういうのを見ると、胸の奥があつくなる。食満の顔を見て彼を好きになったわけではないが、好きという気持ちのいくつかに、その整った顔立ちを好む気持ちも含まれているような気がする。
 

「そういえば、この間くの一教室で誕生日会があったんだってな」

 道具を片している最中、突然そんな話を食満から振られ驚いて持ち上げていた踏み台を地面に落としそうになった。
 あぶねぇなと、両手を差し出して踏み台を掴もうとした食満と目が合って顔に熱が集まる。恥ずかしいところを見られたのと、誕生日会の話題で頭が混乱している。ほんの少し前まで、食満の顔が好きだなんて考えていた私には内容の差が激しすぎる。

「誕生日会――そ、そうなの。忍たまがやってるの聞いて、やるようになって」
「名字も祝われたんだってな。おめでとう」
「あ、有り難う……」

 食満という男は、こういう男だ。
 さらりと、笑顔で嬉しいことを言ってくるヤツなのだ。そういうことを、最近知った。髪型を変えれば気付いてくれるし怪我を隠せばすぐに気付かれる。用具委員の後輩に対してもそうだから、きっと根がそうなのだろう。
 面倒見が良くて気が利く。潮江に対しては対抗心の方が勝るようだが、本来の食満留三郎という男はとても良い男だと思うのだ。
 惚れた弱みで、そう思うのだろうか。いやいや、どう考えても揺るぎない事実である。

 最近、元気だねと友人に言われる。好きな人が出来ると女のひとは変わると言うから、それだろうか。
 そんなことを考えながら道具の入った木箱を持つ食満の隣を歩く。隣を歩いて話をすると、やはり彼の横顔が見える。下から覗くように彼の顔を見上げると、先ほどとは違う優しい顔をした食満を見ることが出来た。
 はじめは真剣な顔に惹かれたけれど、こういう優しい表情も好きだな。


 雑談を交えながら歩いていると、食満はこれから町に出る用事があると言い出した。
 それならもうお別れだと手を振ると、食満は片方の眉をくいっと上げ、人差し指で頬を掻きながら視線を外して「名字、あのさ」と呟く。

「名字は、最近よく手伝いをしてくれるが、その、お礼なんて本当に気にしなくていいんだぞ? あんなの俺じゃなくたってちゃちゃっと直せるもんだ。俺は、別に普通のことをしたまでなんだんだから」

 いつもと違うたどたどしく話す食満の喋り方に戸惑うが、それ以上に困った表情をした食満の顔は初めてだった。
 もしかしたら私の手伝いは強引で、彼にとっては迷惑だったのだろうか?

   ○

 あれから、私は食満に会いにいかなくなった。正直あの言葉以降の記憶がほとんどなく、気付いたら翌日になっていた。同室の友人に尋ねれば、部屋に戻ってからの私は話し掛けても上の空だったらしい。とりあえず、突然倒れたわけではないらしく、食満に迷惑を掛けたわけではないのが救いであった。
 彼への気持ちが無くなったわけでも、あの言葉に怒ったわけでもない。ただ、彼に会いにいけば迷惑を掛けてしまうのではないかという不安でいっぱいなのだ。
 食満の真面目な顔も、笑った顔も好きだ。けれども、困った顔は胸が苦しくなるほど、苦手だと知った。


 人を好きになるのは案外大変なのだと知る。相手の一挙一動に心が大げさすぎるほどに反応してしまうのだから。
 少し前に元気だねと言っていた友人たちが、最近何かあったのかと心配しているような言葉を掛けてくれる。心配を掛けているのが申し訳なくて、でも心配してくれているのが嬉しくて、有り難い。けど、やっぱり申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 女の子は、好きな人が出来ると綺麗になるらしい。けれども私は、綺麗になるどころか強引で我が儘な女の子になってしまったのかもしれない。


 授業のない休日のとある日、私は外出届を出して町へ出た。誕生日会で後輩から貰った町で有名な甘味処の割引券を手にして。
 一人、割引券を利用して好きなだけ甘味を食べて気持ちを切り替えようと思っていた私は、きらきらと光るお天道様に見下ろされながら町へと向かった。

「おばちゃん、とりあえず団子五本お願いします!!」

 店の中にある小さな机に割引券を置き、お茶を持ってきてくれたおばちゃんにそう言えば、はいはいと明るい声が返ってきた。
 店は多くの客で賑わっている。客と客の間をすり抜けるようにして移動する店の人たちは、忙しそうだがそれを顔には出さず笑顔で対応している。
 すぐ顔に出てシナ先生に注意される身としては、すごいなぁなんて思うわけで。机に突っ伏すしていろんなことを頭に思い浮かべていると、ひんやりとした机に額が触れた。ああ、甘味処でこんな体制駄目じゃないかと気付いて頭を上げると、何故か向かいの席に食満が座っている。

「よぉ」

 私服の食満が、私が注文していた団子が乗った皿を私に差し出している。

「え……?」

 向いの空いていた席に座る食満の動作に驚いて「な、なんで!?」と聞くも、食満は爽やかな顔をして「本当に気付かなかったんだな。俺、あっちで休憩してたんだよ」と笑った。
 あの日以来の食満である。とりあえず、私の好きな笑顔を向けてくれたことで少し安心をする。向こうから話しかけてくれたというのもあり、私は一度唾を飲み込んで口を開けた。

「気付かなかった……なんか、ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。むしろ久しぶりに名字に会えて嬉しかったんだぜ?」
「えぇ?」

 いやいや、そんなはずは……。そう言おうとした自分の口をどうにか閉じて下を向く。
 こと、と皿が机に置かれた音を聞き、視線をそちらへ向ける。美味しそうな団子がそこに乗っている。

「名字はずっと委員会の手伝いしてくれてたから、気にしなくていいって伝えたかった。委員会の仕事なんて、本来やる必要のないことだろう。だから、言った次の日から全く会えなくなるとは思わなかった」

 そう口にする食満の言葉には、少し後悔をするような色が窺えた。

「俺の言い方が悪かったんじゃないかって思ったんだ。俺はさ、名字ともっと普通の話しがしたかったんだよ。委員会の手伝いは確かに有り難いが、それだと話す内容も限られてくるだろ」
「う、うん」
「俺を頼ってくれた名字といろんな話をしてみたかった。泣きそうな顔をして『食満なら直せるんじゃないかと思って』って言ってくれたあの時から、興味があったんだ」
「そ、そうなの……?」
「なんで嘘をつく必要があるんだよ」

 名字はおかしいなぁ。そう言って食満は自分で持ってきたのであろう湯呑に口をつける。

「……くのたまとは、会えない時は本当に会えないんだな。知らなかった。くの一教室の時間割なんて知らないし、わざわざ誰かを訪ねて会いに行ったこともない。だから、今日は名字と会えて驚いた」
「私も、いろいろと驚いてる」

 食満は、満足そうに笑っている。
 彼はすっきりしたような顔をしてくれているが、私は恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が真っ赤に違いない。

 一般的な恋をする女の子はどうかしらないけれど、恋をした私は案外単純になってしまったらしい。
 食満に笑顔を向けられるとさっきまでモヤモヤ悩んでいた気持ちがどっかにいってしまったし、胸がぽかぽかとあたたかくなっていく。頬は自然と上がって笑ってしまう。
 わかりやすい気持ちを隠すよう、目の前にあったお団子を一つ取って食満に差し出せば、彼は少し目を見開いて「いいのか?」と首を傾げる。割引券を貰ったから、と言えば、有り難うなと目を細めて食満は私からお団子を受け取った。その時、指が少しだけ触れた。

「誕生日会でね、後輩に割引券を貰ったの。だから気にしないで。食満にもお裾分けだよ」
「そうか、じゃあこの店を出た後に俺に付き合ってくれないか? 俺も名字に何か贈ろう。誕生日祝いだ」
「そんな、いいよ。そういうつもりじゃないし」
「こういう時、嬉しそうに笑って素直に有り難うって言うのがくの一教室だろ」

 楽しそうに笑う食満を見て、やはり食満の笑った顔が好きだと思った。なんでいつも優しくしてくれるのかはやっぱりわからないけれど、今日ここに来て良かったということだけは私にもよくわかる。割引券を贈ってくれた後輩たち有り難うという気持ちでいっぱいだ。
 喧嘩したわけではないけれど、仲直り出来たような安心感に思わず笑ってしまった。

「食満と、またこうして話せるのが何よりも嬉しい」

 思わず、そんな言葉を呟いてしまった。恥ずかしいけれど、でも本心だ。
 食満がお団子を食べたことを見計らって同じように皿から一本取って口にする。賑わっているだけあって美味しいなと思いながら顔を上げて食満を見れば、食満は頬杖をついて嬉しそうな表情をして口を開いた。

「ああ、その顔が見たかったんだ」

20181007
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