小説
 カーディガンを着てくれば良かった。
 体育の授業はもう無いからとジャージを持って帰ってしまった次の日に、こんな――


 朝から日差しは強く、天気予報を見ると予想されている最高気温は二十度を超えていた。それでもまだ夏前だからと長袖のワイシャツを着て家を出た。雨が降る予定も無いようだし、大丈夫だろうと思ったのだ。
 けど、教室の廊下側である私の席は日陰で随分とひんやりとしていた。夏ならば有り難い席だが今日は違う。似たような気温だった昨日は半分以上が移動教室だったから気付かなかった。まだワイシャツ一枚じゃ駄目な時期だったらしい。席に座っていると太陽の光が恋しくなるくらい寒かった。
 確実に、着てくるものを間違えた。

「失敗した、本当に」

 十分休みを利用して急いで自販機に向かう。
 羽織るジャージすら持っていない私は、自販機にある“あったか〜い”と赤く表示してある飲み物を切実に求めていた。
 何でもいいから、と向かった先では隣のクラスの影山くんが自販機を睨むようにして仁王立ちしていた。

 ガコン。

 自販機から紙パックを取り出した影山くんは、後ろに並んでいた私に気付くと「わりぃ」と軽く頭を下げて謝る。

「……えっ?」


 影山くんと私は、同じ中学出身だ。
 彼とは一度も同じクラスになったことはないが、三年間同じクラスで出席番号が隣だった男の子がバレー部に所属していたために、バレー部の内情には少し詳しかった。

 コート上の王様。

 影山くんがそう呼ばれているのを、そのクラスメイトから聞いた。
 褒め言葉ではないらしい。独裁的な言動をする影山くんのプレーに対しての呼び名だと知ったのは、彼がいつも苦々しい顔をして影山くんを「王様」と呼んでいたからだ。
 目つきが悪くて高圧的。セッターとしては優秀かもしれないが、コート上での協調性のない発言の数々はまさに王様だった――彼は卒業式まであと少し、という日にそんなことを言っていた。
 バレーのことはよく知らないくせにバレー部員の情報に詳しかった私は、影山くんをとにかく怖い人だと認識していた。

 歯向かう奴はコートから出ていけ!!

 豪華な王冠を頭に冠り、真っ赤なマントを羽織った影山くんが私を見下ろしてそう言う夢を見た程、私は影山くんを恐ろしい独裁者だと思っていた。
 一度も、話したことがないのに。

 けど、どうだ。今私の目の前にいた影山くんは私に謝ったではないか。流石にコート外では普通の男の子なんだろうか。

「ああ、ううん。有り難う」

 上手く表現できない感情を抱きながら自販機に小銭を入れ、お茶を買うためにボタンを押す。寒いな、と思いながら腕をさすって音を立てて落ちたお茶のペットボトルを取り出せば、手にじんわりとした温かさが広がる。
 幸せだ、と思いながらカイロのように手を温めれば、突然「おい」と声を掛けられる。低いその声にびくりと横を向けば、飲むヨーグルトを飲んでいる影山くんが私を見下ろしていた。

「寒いのか?」
「はっ、はい」

   ○

 影山くんは私と中学が一緒だったこと、そして今はクラスが隣であることを知っていたらしい。知られているとは思わなくて、ちょっとびっくりした。
 自販機から教室まで一緒に戻る間、上に羽織るものを持っていないからあたたかいお茶を買ったのだと説明すれば、彼は私に教室の前で待っているように言った。

 よくわからないまま、ドア近くでお茶を飲む。じんわりと体の中から温まっていくようでほっと息を吐く。もうすぐ授業始まるんだけど大丈夫かな、と思っていると、影山くんが現れて「ほら」と黒い何かを差し出した。

「ん?」
「ジャージが無いって言ってたろ。貸す」
「えっ!?」

 大きな黒いジャージを差し出した影山くんは「早く受け取れ」と私を睨んだ。ぎろりと私を睨む彼の目はやっぱり怖い。今にも舌打ちをされそうだ。

「ああ、う、うん。有り難う」
「部活の時までに返してくれたら、別に」

 口を尖らせた彼は、そう言ってすぐに教室へ戻った。
 もし、本当に上着が必要だったら、女の子の友達に借りても良かったんだよなぁと思いながらジャージの袖を通す。柔軟剤の匂いだろうか、ほんのりと優しい香りがしてちょっとどきっとしてしまった。
 それにこのジャージ、やっぱりぶかぶかだ。


 ちょっと、恥ずかしい。
 明らかに体に合っていないジャージ。しかもバレー部のもの。
 部活のジャージは、その部活に所属していると証明するものである。大切なものに違いない。人によっては憧れの象徴だろう。なのに、どうして彼は簡単にこのジャージを貸してくれたんだろう。ダメな気がする。だって私と影山くんは、同じ中学出身ってだけの、他人じゃないか。

 影山くんは、想像していたよりもずっといい人なのかもしれない。けど、どうしてジャージを貸してくれたんだろう。
 私が聞いていた影山くんという人は、そんな優しさを与える人ではなかった。自己中心的で周りの意見は聞かない。自分が優れていると信じている。それが影山飛雄という王様ではなかったのだろうか……?


 授業中、王冠を冠り、マントを纏った彼がたった一人しかいないコートの中でトスを上げているのを想像してしまった。中学の時の、彼の最後の試合の話を思い出したからだ。

 影山くんからジャージを貸してもらったため寒さを感じることなくいられたが、それによって授業どころではなくなってしまった。
 私の体をすっぽりと包む大きすぎる黒いジャージとか、普段は香らない知らない匂いとか、そういったものが重なって、私はずっと影山くんのことを考えてしまっていた。
 これはいけない。そう思った私は次の休み時間、友達にジャージを借りて影山くんのジャージは丁重に返すことに決めた。

 黒くて大きなジャージを丁寧に畳んでから隣のクラスへ向かうと、席に座っておにぎりを食べている影山くんを見つけた。次の授業が終わればお昼なのに、お腹すいたのかなぁなんて考えながら彼が座っている席まで向かうと、私に気が付いた影山くんは驚いたように目を見開く。

「ジャージ有り難う、ございました。助かりました。その、友達にジャージ貸してもらえたから返すね。今日使うんだよね? それなのに、ごめんね」

 本人を目の前にすると中学の時の王様像が浮かんでしまうのか、普通に話せない。

「……別に、気にしてねぇ」

 私が差し出したジャージを、彼は大きな手でゆっくりと受け取った。
 彼の爪は綺麗に切りそろえられていた。バレーボール選手が表紙を飾る雑誌が机の上に置かれていて、鞄の上にはサポーターが無造作に乗っけられている。それを見て、胸の辺りがきゅっと苦しくなった。


 王様は、勝つためなら何を言ってもいいと思ってる。
 速く飛べ。気を抜くな。何で言う通りに出来ないんだ。真面目にやれ。それじゃあ勝てないだろ。
 わかってる。俺だって、俺たちだって勝ちたいさ。でも全員が全員、あいつみたいに天才じゃない。
 俺たちは、王様の臣下じゃない。

 中学最後の試合の後、青葉城西に進学することが決まっているクラスメイトは私にそう言った。自分たちが正しかったと、自分に言い聞かせるような顔で。
 彼には彼の思いがあったのだと思う。三年間同じクラスで過ごした彼は、バレーに対して真面目だった。
 そして今、ほんの少しだけ影山くんのバレーに対する気持ちも垣間見た気がして、私は胸の辺りがきゅっと苦しくなったのだった。

   ○

「あれ、名字?」
「わ、久しぶり」

 部活帰り、地元の商店街の近くで偶然会ったのは中学のクラスメイトだった。青葉城西に進学した彼は、変わらずにバレー部で頑張っているらしい。

「この間、うちと烏野のバレー部が試合したんだけどさ、王様がチームメイトに謝ったのを見た時、我が目を疑ったよ。たった数ヶ月で何があったんだって。じゃあ俺たちとの……あのイザコザは、何だったんだろうって」

 烏野の制服を着た私を見て、彼は少しだけ困ったような表情をして影山くんの話をしだした。

「俺たち、ガキだったんだな」

 今もガキだけど、なんて言った彼は何か吹っ切れたような顔をしている。
 彼が今言った「俺たち」という言葉には、影山くんのことも入っているのかもしれない。そうと思うと、なんだか少し嬉しくなってきた。彼は中学の頃、影山くんとその他のバレー部とを分けるような話し方をしていたからだ。影山くんのことを「王様」と呼び、影山くん以外のバレー部を「俺たち」と呼んでいた彼の姿を思い起こした。


 彼と別れ、一人帰宅する道を歩く中、ふと空を見上げる。
 烏野高校の学ランのように、影山くんが貸してくれたジャージのような深い色の空にはいくつもの星が輝いていた。地上から見た星の大きさは、随分と小さい。きらりと主張するその輝きは、夜の暗闇だからこそはっきりと肉眼で確認できるのだ。

 目を閉じると、コートに立つ影山くんの姿が思い浮かんだ。


「名字」
「えっ?」

 突然声を掛けられ、驚いて振り返ると、制服姿の影山くんが立っていた。
 今まさに、影山くんのことを考えていたためにびくりと体が震え、思わず一歩彼から距離を取ってしまい、影山くんは不思議そうに首を傾げる。

「名前、知ってたの驚いた」
「そうか? 普通だろ」

 商店街を抜けて家へと向かうように歩くと、影山くんは何も言わずに隣についてきた。いつの間にか彼の隣を歩いて帰宅しているのが不思議なのだけど、そういえば、ジャージを貸してくれた時も自然と一緒に教室に戻ってたなと思い出す。

「改めて、ジャージ有り難う。洗濯とか、本当はするべきだったのかもしれないけど――」
「別に」

 会話は簡単に途切れてしまう。
 隣を見上げると、影山くんは何でもないような顔をして前を見ていた。
 まっすぐと前を見据える彼の目が、私の視線に気付いたのか、顔はそのままにこちらを見る。「見るんじゃねぇ」とか言うのかと思ったが、彼は何も言わずに口角を微かに上げるだけだった。


 結局、影山くんが家の近くまで送ってくれる形となったのだけれど、会ってから別れるまで、彼は一度も怖い顔をすることも、怒気が含んだ声を出すことも無かった。私がするくだらない質問にも答えてくれたし、彼もいくつか質問をしてきた。
 私たちは同じ中学出身で、そして偶然なことに進学先である高校も一緒だった。けど、私は彼のことを何も知らなかったのだと気付く。

 彼はバレーに対してとても真面目だ。だからこそ、周りの人と歪が出来てしまったのだろう。
 同じバレー部の部員に王様と呼ばれていた影山くん。その名は北川第一の部員だけでなく、他校にも知れ渡っていた。彼がセッターとしての高い能力を持ち、純粋にチームの勝利を求めた結果がそれだった。
 私は、王様と呼ばれた同級生を恐れていた。けど、彼は私となんら変わりの無い、普通の高校生だった。

「今度、名字も応援しに来いよ。そしたらバレー、わかるようになるだろ」

 バレーのルールがよくわからなくて……。帰り道の途中で言った私のその言葉に対するものなのだろうか。一度背中を見せた彼は、ゆっくりと振り返り、口を尖らせてそんなことを言って去っていった。

「影山くん、有り難う」

 近所迷惑にならないような声量で彼に声を掛ける。そうすると、彼はバッと勢いよく振り返り「じゃあな」とだけ言って走っていってしまった。

 私も体の向きを変えて家へと走る。口元がにやけてしまうのが自分でも簡単に分かった。
 なんであんなにも優しくて、可愛いとすら思う人のことを怖い人だと思っていたのだろう。知らなかった。何にも。
 彼の一部分だけを知って、知った気になっていた。馬鹿みたい。それだけじゃないのに。

「影山飛雄くん」

 思わず零れた彼の名前は、中学の時とは比べようもないくらい優しいもののように思えた。

20170520
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