小説
 オイカワトオル、及川徹……。及川徹先輩……。
 心の中で何度も呟く。入学して数日、未だ校舎のどこに何があるのかがわからないため、記憶を頼りに歩き続ける。そしてようやく、三年生の教室がある階まで辿り着いた。
 三年生ともなると制服の着こなし方が違うな、なんて考えている中、廊下で談笑している数人の先輩方を見つける。皆一様に背が高い男の人だ。
 バスケ部の人だろうか、それともバレー部か。
 そんなことを考えていると、桃色の紙パックにストローを差したものを片手に持ちながら笑っている男の人と目が合う。わあ、イケメンだ――と思っていると、彼は首を傾げて「どうしたの?」と声を掛けてきた。

「えっ、あの」
「見たことないから……新入生、だよね? どうしたの?」

 イケメンは廊下でピーチティーを飲んでも様になるのか、とか、本当は女の人だったら気軽に聞けたんだけどな、とか思うことはあったけれど、先輩に声を掛けられて無視するわけにもいかない。

「あっ、あの……及川徹先輩という方が三年生にいると思うのですが、どのクラスにいらっしゃるのか知っていますか?」
「及川、徹?」

 私の言葉に反応したのは目の前にいるイケメンではなく、彼がさっきまで談笑していた男の人たちだった。
 目の前にいるイケメンの先輩は一瞬驚いた顔をし、自らの顔を指差して「俺が及川徹なんだけど……何か用かな?」とにこやかに笑った。


 イケメンが私が探していた及川徹先輩だという驚きの事実に最初どう反応すればいいのかがわからなかったが、無事任務を遂行することが出来た。
 昼休みに一人で三年生のいる階に行くだけで正直ものすごく緊張して、先輩に自分がなんと言ったのかを全く覚えていない。なんか変なことを言っていなければいいけど、と思いながら胸にしっかりと抱きしめていた物をもう一度確認する。

「うん、これで良し!!」

   ○

 隣の家には、バレーに励んでいる男の子がいる。

「すごいセッターがいるんだ!!」

 彼がまだ小学校の低学年の頃、彼は友達に誘われてバレーを見に行った。初めてバレーの試合を生で見た彼は、私に会うと興奮した様子でその試合の展開を伝えようとした。

「ブロックした時のすごい音、名前は聞いたことあるか!? 点を入れた時の歓声、知ってるか!?」

 頬を赤く染め、身振り手振りで選手たちの動きを私に伝える彼は、私の相槌なんて聞いていない。

「賞を取ったオイカワトオルってセッターがやばかったんだ!! 俺、オイカワみたいなセッターになりたい!!」

 赤ちゃんの頃から知っている彼が週に二回、クラブに入ってバレーをするようになり、どんどんバレーを好きになっていった。
 彼は時々オイカワさんが出場する試合を見に行き、その度にオイカワさんの話をした。オイカワさんは女の子に人気らしく、今までに何度か会話をしようと試みたがなかなかチャンスが無かったようだ。
 そうであったから、私が青葉城西に入学すると知った彼は驚いた。そして言ったのである。「オイカワのサイン貰ってきて!!」と。

   ○

 隣人の彼に色紙を渡すといたく喜んだ。彼の母親が夜中にうるさいと怒る程に。

 翌日、イケメン――及川さんが教室にやってきた。同じクラスのバレー部に用があったらしいが、その用が終わった後、ちらりと私の方を見て少し驚いたような顔をした。そして辺りを確認してちょいちょいと私へ手招きをする。
 周りにいた友人は「えっ、何?」と慌てる。もちろん、私も動揺した。けど、確実に目が合っている。自分を呼んでいるのか確認するように自らの顔を指差せば、及川さんは何度も頷いて笑った。
 友人たちはまたキャアと声を上げ、先輩の一挙一動に反応するように頬を染めている。昨日と打って変わって私は緊張もすることなく及川さんがいる教室のドアへと向かった。

「ねっ、昨日のサイン、どうだった?」
「サイン、ですか?」
「うん。君の、弟だっけ? 喜んでくれた?」
「弟じゃなくて、隣に住む男の子です。ええ、かなりはしゃいでいました。えっと、言いましたっけ、及川先輩に憧れてて、先輩を見てバレーやろうってなって……」
「うん。それが嬉しくてね。俺にいろいろ聞いてきた後輩はいたけど、俺見てバレーやりだしたってのは聞いたこと無かったし」

 照れたように及川さんは笑う。

「で、あのサイン、どう思う? テンパって普通に漢字で名前書いちゃったけど、やっぱり今後のこと考えたらもうちょっと何か考えた方がいいかな?」
「さあ。……でも、シンプルにただ漢字で『及川徹』って書くのだと、書きなれてない感じがしますよね」
「わかる〜でもそれもギャップじゃない? でも、かっこいい及川さん的なもの考えたらちゃんとしたのがいいのかな……いや、でもかっこつけてる感じがしてひかれるかな?」

 及川さんがが言うサインにおける「かっこいい及川さん」とは何だ――と思わなくもないけれど、まあイケメンだし、かっこいいのも事実だ。
 実際、女の子にここまでキャーキャー言われている人を身近で見たことがない。クラスメイトの女の子たちの目にはハートマークが浮かんでいるようにうっとりとしている。
 そんな様子を見ていると、私はなんでこの人とサインについての話をしているのだろうと思えてきた。

「それは、私には何とも……」
「そう? 昨日『サイン書いてください』って言われて、最初びっくりしたけど、嬉しかったからちょっと興奮しちゃってね。ごめんね」

 有り難うと笑いながら及川さんは去っていった。
 一体、なんだったんだ……。別にお礼を言われるようなことはしてないんだけどな。


 今まで隣人から聞いてきた「オイカワトオル」についての印象とは結構違う気がする。なんかちゃらいなーなんて思うものの、自分のホームである教室での会話ということもあって緊張もなくスラスラと会話をすることが出来た。
 私の中で想像していた及川さんは、もう少し大人っぽい人だった。コート上を最も理解していて、余裕があるような、そんな人。でも、まだ小学生の隣人からしたら、部活をやっている男の人は皆大人っぽく見えるのかもしれない。

「名前ちゃん!! ど、どうしたの? あれって、バレー部の及川先輩でしょ!?」
「ああ、うん。そう。知り合いがファンで、ちょっとね」
「へえ、そうなんだ〜でも名前ちゃん、先輩とお喋りなんてラッキーだね!!」
「うん」

 及川さんって、実際はどんな人なんだろう。
 隣人がバレーに興味を持つほどの人で、イケメン。でも直接話すとなんかちょっとびっくりする。軽いなって印象を受けたからだ。
 今までに隣人による話だけで作り上げてきたオイカワトオル像との違いに正直びっくりして、友達が言ったようなラッキーだとか、そういう思考にはならなかった。ただただ、驚いた。

   ○

 教室にやってきた及川さんの存在により、数日は及川さんの噂で持ちきりだった。イケメン恐るべし、である。
 そしてそれから少しして、バレー部が他校と練習試合をしているらしいからと友達に引っ張られて様子を見に行くことになった。

 友達は及川さん目当てだったが、及川さんは体育館のどこにもおらず、どうしてだろうねーなんて友達と言いながらも試合を見ていると、途中で及川さんが現れた。
 近くにいた人が及川さんは怪我がどうとか話していて、試合に出て大丈夫なのだろうかと思っているうちに及川さんは普通にアップを始める。その間も周りの女子生徒は及川さんに釘付けだ。


 結局、及川さんは試合の最後の方にちょっとサーブを打っただけだった。だが、少し見ただけで及川さんがすごいということを肌で感じた。
 セッターの及川さんが見れなかったのは残念だが、あのサーブだけでもすごい人だってわかるんだから、セッターとしての及川さんはもっとすごいのかもしれない。いや、そうだろう。だって隣人がバレーを初めてしまうくらいなんだから!!

 練習相手の烏野高校の漫画のような動きにも驚いた。動揺して思わず声を上げてしまうくらいには、私はバレーの試合に夢中になっていた。
 授業でバレーをやったことがあるけれど、その時はこんなこと思わなかった。
 テレビで試合がやっているのを見ても、最初から最後まで、真面目に見たことが無かった。でも、今日初めてバレーの試合を見て、私は確かにバレーに惹かれていた。

 隣人が及川さんを目指してバレーを始めたというのも十分理解出来る。彼があの日、興奮した様子で私にずっと語りかけていたのも納得した。
 サーブを打っている時の及川さんは、コートの中のことなんて全て理解しているといっているような自信が溢れているようだったし、楽しんでいるようにも見えた。

 公式の試合だったら、どんな顔をするのだろう。今日とはまた違った顔をするのだろうか。
 サインの話をした時とは違って、悔しい顔をしたり、焦ったりするのだろうか。

 隣人が、初めて及川さんの話をした時のことを思い出す。
 ああ、確かにそうだ。確かにきっと、今の私も同じだ。そして、セッターとしての役割を果たす及川さんを見たら、きっと私はもっとのめり込んでしまうだろう。

 今度、隣人と一緒に試合を見に行こう。「オイカワのすごさ、わかったようだな」と胸を張る隣人の姿が簡単に想像出来る。
 うん。私は確かに及川さんのファンになってしまったみたいだ。今、セッターとしての及川さんを見てみたいという気持ちでいっぱいだ。

「及川先輩、すごかったね」
「うん、すごかった」

 興奮冷めやらぬ友人と同じような声の調子で返事をする。まだ胸の高鳴りは当分おさまりそうもない。
 
20170429
20170519 修正
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