情緒 何もかもがしんと静まり一つとなる真夜中。 部屋の窓から微かに漏れる淡い月の光が、私を欲情させた。 啄むような口付け。 (啄む…、これではまるで、お互いの唇を食しているかのようだ) 互いの唇が軽く触れる音や、その唇から洩れる吐息を堪能した後、ゆっくりと唇を離す。 心なしか、彼の氷のように冷え切った水色の瞳が赤らんでいて、欲がちらついているのが分かった。 そして引き合うように、今度は深く口吸う。 生々しい音と共に、鼻から抜けるような彼の低い声。 (…いや、上擦っている?) 私は様々な角度から歯列をなぞり、舌を絡め、唾液を吸い上げる。段々と気持ちも高ぶり出し、先程より激しく舌を絡め合う。 しかし、ふと頭を過ぎった思考に、私の気持ちは酷くさめざめとしてしまった。 (所詮遊び事の様なこの行為の先に、一体何の意味が在るのか) 私は、待ち望んでいた接吻に酷く興奮している己と、このような行為が彼を取り巻く世界の軸から明らかに外れていることに薄々気付いている己を垣間見た。 胸の内は酷く熱い。 されど頭の内は酷く冷たい。どうせ過失な行為だとわかっているのならば、 (戻れぬ所まで落ちようか) 「…、んっ」 彼の苦しそうな声に思考を巡らせぼんやりとしていた頭が一気に冴え、私は慌てて唇を離した。 ふらりと頭の座らぬ赤子のように前のめりに倒れる曹丕殿を優しく抱き留める。 辛そうに何度もむせる彼の絹のような艶やかな髪を優しく撫で、彼が呼吸を整えるのを待つ。 (考えに耽ってしまうのは、私の悪い癖だな) 目を伏せて微かに眉間に皺を寄せる。 曹丕殿はゆっくりと私に寄り掛かっていた体を起こし、己の口を手の甲で拭った。 目尻に溜められた涙を指でそっと拭ってやれば、彼は先程よりも頬を桜色に染めて恥ずかしげに目線を逸らした。 「っ…」 (駄目だ…そのような事……) そのあまりにも恐ろしく妖艶な姿に、私は本能的に彼の白く細い手首を強めに握った。 「―――ッ!」 瞬間、彼の瞳が揺らぐ。 私は、はっとして我に返り、慌てて手を離した。 (嗚呼、私は何という事をしようとしたのか) 己と彼の立場を一度思い出しては、愚かな自分を嘲笑し、掌をぼんやり見つめた。 意味深な笑みを浮かべる私を、曹丕殿は不安になったのか微かに眉間に皺を寄せてじっと見つめた。 その視線に気付き、私は力なく笑って彼を優しく抱きしめる。 途端にふわりと香る、彼の匂い。そう、 まるで私を責めるように香る、私の媚薬。 魏の皇子と、蜀の武将。 天地の差故に、曹丕殿と会えるのは、今のように、ほんの一時のみというのに。 (今、こうやって抱きしめているだけでも、それが一生の奇跡の様に思えてしまう) 「曹丕殿、」 「子桓でいい」 直ぐさま返された言葉に、私は目を丸くするも嬉しさから顔を綻ばせ、改めて名前を呼んだ。 「…子桓」 薄暗い部屋にぽつりと私の様々な想いが込められた言の葉が喉を伝わり口から放たれ、一直線に曹丕殿―――子桓の耳に届けられ、そして一時的に子桓の記憶と共に埋められる。 一生でなくとも、『今』子桓の記憶の部屋にあると思うだけで何だか嬉しくて。 もう一度小さく字を呟いて、彼を強めに抱きしめ直した。 暫くして体を離せば、子桓は微かに口の端を上げて嬉しそうに私を見つめていた。 しかし、彼のその瞳の奥は、心なしか冷めきっているようにも見えた。 (わかっている) (これ以上、踏み込んではいけない) 魏の皇子故、子桓の傍らには常にあの名軍師が居る。幼き頃からずっと共にいるという歴然の『差』は、今の私には何をしても埋めることなど出来ぬ大きな穴であった。 やはり私は、あの軍師には敵わぬのか。 「子龍」 不意に字を呼ばれ、はっとして彼を見る。 私の心の中を察したのか、私を呼ぶ声色は、どこと無く優しかった。 そんな彼を見て私は酷く悲しい気持ちになり、表情を曇らせた。 子桓は私をじっと見つめたかと思うと、彼直々に私の額に優しく口づけをしてくれた。 ありがとう、と掠れ声で呟けば、彼は今度は悲しげな表情をして、優しく私を抱きしめてくれた。 たまらず私も抱きしめ返す。 (戻れぬ所まで落ちようか…だと?) 誰よりも愛しているからこそ、彼を傷を付けたくない、悲しませたくない。 しかしそれ故に、誰よりも愛しているからこそ、自分だけの子桓にしたい。自分だけを見て欲しい。 (……嗚呼…私はなんて罪深く欲に溺れる人なんだろう) 彼の見えぬ所で、私はひっそり自分を嘲笑った。 ※ピ様大好きだから傷付けたくない、だけど自分だけの物にしたいという欲張り趙雲 最後の嘲笑いは、結局自分の欲に負けてしまったからか、はたまた本当に自分を戒めただけか それはご想像にお任せしましょう |