あれれ、目が悪くなったかな。何度も目を擦る。改めて見ると特に視界がぼやけることもしないし、見づらいこともなかった。やっぱりただの気のせいか。でもほんの一瞬だけ、とある一部分の景色だけがまるでそこだけ切り取られて色を失ってしまったかのようにモノクロで見えた気がしたのだ。あ、今度は耳まで悪くなったかも。友達の声はちゃんと聞こえていた。さっき先生が授業中に喋ってた小言だって確かに聞こえていたはずなのに。おかしいなあ。 目線の先には二人の男女が喋っている。なんてことのない日常の光景だけど、それらの症状は全部、それを見てしまったからである。 ちょっとした用事のため隣のクラスに行く途中で教室の入口の所に女の子が立っているのが見えた。すると女の子が大きな声である人を呼び出したではないか。そう、その呼び出した人の名前が私にとっては大きな問題だったのだ。思わず足を止めて遠くからその光景を見つめる。「黄瀬くん!」そうすると出てくるのはもちろん黄瀬くんと呼ばれた本人なわけで。ああ、途端に目の前が切り取られたモノクロの世界になってしまった。「黄瀬くん、あのね、」っ、ぷちん。そこから先は私の耳が決して聞こうとしない。この場所から早く逃げだしたいのに足が動かない。黄瀬くんと女の子が仲良くお喋りしているその光景を私は暫く黙って見ていた。何も気にしていないフリをして。ああ、まただ。胸がきゅうっと締め付けられるような感覚が襲う。苦しい。鼻の奥がつんとして痛い。女の子が去っていったと同時に弾かれたようゆ私はまだ重い足を無理矢理動かして躍を返したのだった。 「どうして昼来てくれなかったんスか?俺待ってたのに」 「あー…先生に呼ばれてたんだ。ごめんね」 「ん、じゃあ明日はちゃんと来るっスよ」 「うん。わかった」 嘘、本当は黄瀬くんの教室に行った。楽しみでしょうがなくて、嫌いな数学の授業も頑張ったのに。当たり前のように嘘を吐くこの口が本当に嫌になる。二人きりでいるこの時間だけは色も聴覚も正常に戻るらしい。実に都合のいいことだ。とにかくモテる黄瀬くんに私はいつも不安だらけだった。束縛をしたいわけじゃない。だけど黄瀬くんが私以外の女の子と一緒にいるところを見たくない。私は黄瀬くんの彼女だから、少しぐらい我儘を言ってもいいんだよね?いろんな葛藤があってどうしたらいいかわからずに内心はボロボロで正直限界だった。黄瀬くんは優しいから女の子を追い返すことはしない。それがまた私にとって辛かった。 「そういえば今日告白されたんスよ」 「…え」 「もちろん断ったんスけどね。俺にはなまえだけっスから!」 眩しいぐらいの笑顔を向けられて、つられて私も笑顔になった。苦しかったはずの胸が今はドキドキと心地よい鼓動を刻む。黄瀬くんの言葉は魔法みたいに私の中でじんわりと溶けていった。大丈夫。私はちゃんと黄瀬くんに愛されている。これだからどんなに限界でも嫌いになれない。別れるという選択肢は生まれないのだ。 「黄瀬くん」 「? なんスか」 「んと…あ、明日は、明日は必ず行くからっ!」 「はは、いきなりどうしたんスか?俺はちゃんと待ってるから大丈夫っスよ」 この時私は多分酷く情けない顔で笑っていただろう。黄瀬くんは人気者だからこうなるのは仕方がないというのはわかる。彼女だからって独り占めはできないんだ。ああ、だから今日も色を失った視界で世界を映して、私じゃない他の誰かとの会話なんて聞きたくないから私の耳が聞くことを止めるのか。胸が締め付けられるように痛い。しかし黄瀬くんに依存してしまった私は彼を信じて泣くことすらできなかった。 それでも嫌いになれないの。 |