第9回 | ナノ
 トラファルガー・ローはよく「クール」などと表されるわけだが、俺からしてみれば嘘っぱちだ。あんな狭量な人間のどこが冷静でカッコいいと言えるのか。頭からラーメンぶっかけてしまったくらいで首に刀を突き付けてくる男だぞ。

「確かに、棚でぺしゃんこにされかけた記憶を思えば可愛いもんだ……」
「そうでしょうそうでしょう」
「海面航行中、お前のヒップアタックを喰らって海に落ちた出来事に比べりゃ尚更小せェ」
「まちがいない!」

 が――塵も積もれば何とやら。と、地を這う低音が心臓をキリキリと締め付ける。麺をかぶった頭から香しい汁をぽたぽたと滴らせて、死神は据わった目をして壁まで追い詰めてきた。周りのクルー達は火の粉が及ばないよう離れて見守るだけで、助け船など出しやしない。

「よーく覚えておけ。金にしろ、徳にしろ、過失にしろ……積もった分だけそれ相応の報いを受けるように世の仕組みはなってんだ」

 世の仕組みじゃなくあんたのだろう!と申し立てるより前に心臓にメスが入れられた。最後まで話を聞かないキャプテンは、やっぱり心が狭いにちがいない。


 腕立て、腹筋、スクワットを各300回。野郎、完全にインドアなインテリの雰囲気を醸し出しておきながら、課してくる罰は体育会系なのである。いや、最初の頃は軽い反省文で済んでいた気がするのだが、回を重ねる内に「紙とインクの無駄だ」といつからかこのメニューに変更された気がする。コレをこなした次の日は、腕振りはおろか満足な歩行さえ叶わなくなるので、確かに罰としては意味があるのだろう。ただ、夕飯時のああいったハプニングは故意に起こしているつもりはないので、懲りさせたところでどうとなるわけでもない。そこら辺をいいかげん理解してもらいたいもんだと痛切に思う。

「――……98、299、300回!終わりだよー」
「しぬーー!」

 ベポのカウントが目標回数へ達した瞬間、笑う膝に抗わず滑るようにして床へ突っ伏した。全身汗だくのまま大きな呼吸を繰り返してその場でへばる。「ご苦労だったなベポ」「アイアイ。それじゃキャプテン、部屋に戻るね」。そんな会話が聞こえて、しゃべるシロクマは役目を終えるや否や、早々に船長室を出ていってしまった。部屋には二人きりとなる。ベポには労いの言葉を掛けたキャプテンだったが、俺には言葉どころか一瞥すらくれることなく、今もソファで優雅に足を組み、黙々と医学書らしき本に読み耽っていた。

「キャプテン……」
「…………」
「キャプテーン。心臓、返してくださーい……」
「ああ。そうだったな」

 サイドテーブルに置かれてあった脈打つ心臓をぽーんと投げて寄越された。慌てて仰向けになり両手を使ってキャッチする。もっと丁重に扱ってくださいよ!と抗議するも、キャプテンの耳には右から左だ。それ以上の文句は怖くて言うに言えず、大人しく手にある心臓をパズルのように左胸の穴に嵌め込めば、切れ目など嘘のように消えていき見慣れた体に元通り。しっかり収まったのを確認すると、四肢を投げ出してぐでんと寝転がった。

「明日戦闘が起きても、俺参加できませんよー」
「…………」
「雑務すら困難ですよー」
「…………」

 無視か。何度呼びかけても無視である。へとへとに疲れて虫の居所が良くなかったようで、むかっ腹が立ってしまった。

「知りませんから」

 語尾を伸ばさず言えば、キャプテンが僅かにこちらを見る気配がした。「何がだ」。問われても俺の視線は天井を向いたまま。

「キャプテンが危なくなったって、助けてあげませんからね」

 船長の実力なら十分知っている。これはただ、無視された腹いせにちょっと生意気を言いたくなっただけなのだ。フっと小さく笑う空気の震えがして、直接見なくともキャプテンの余裕な顔がありありと目に浮かぶ。
(そんな必要ないって言うんだろ)
 コツ。コツ。ゆったりとした足音がいくつか鳴って、視界にふっと影が差す。頭上からこちらの顔を覗き込むようにしてしゃがんだキャプテンは、ほらやっぱり、いつもの自信満々な笑みを湛えていた。

「平気だ」

 律儀に傍まできて答えなくたって分かってます。そう言おうとして、

「おれがピンチになれば、お前は必ず動く」

 唇が止まった。頭の回路を一時停止する。予想していた内容とかけ離れたものだったから、反芻して理解するまでの間を要した。数拍置いてようやく出てきたのは「……どういうことですか?」というなんだか間抜けな声だった。

「そのままの意味だ」
「……動けないって言ったばかりじゃないですか」
「なら――黙って見過ごすのか?」

 口を閉じて、視線をあさってへ泳がせる。むすっとする。黙り込む。すると両頬を片手でつかまれて強い力で締め付けられた。

「ぐぶぶぶ…!」
「おい。無視とはいい度胸じゃねェか」

 あんたが先に無視したんだろ。と減らず口をきけるような状態でもなく、潰そうとしてくる手を必死に払いのけて「かけ、駆けつけるに決まっているじゃあないですか!」とこれまた必死になって訴えた。タイミングがタイミングなだけに胡散臭げに見下ろされたが、少しすればキャプテンはにやりと笑みを浮かべて、満足そうに鼻を鳴らす。くそ、命の為とはいえこんな言葉を引き出されることになろうとは――。






 キャプテンが洞察力に優れていることは、この船に乗っている者なら誰だって知っている。脳みそが空っぽの俺には到底追いつけない頭の回転であの人の世界は回るのだ。けれど、そんなキャプテンにだってきっと気付かれていないであろう秘密を俺は持っている。

「――――馬鹿がッ!!」

 すごい極悪面だ。それに大声。酷く罵られたのに、何だと!と反撃する気すら起きやしない。体はすごく疲れているし、瞼は重い。指一本動かすのだって億劫だ。「ここまで馬鹿だったとはなっ」。断続的に鳴る心電計の音、その合間に、キャプテンの低い怒声が薄い鼓膜を震わせる。そうですねぇ。キャプテンの実力は知っている筈なのに、でしゃばって庇ったつもりになってすみませんねぇ。おどけたくても、喉から出るのは呼気だけだ。
 そういえばキャプテンご存知でした?実はクルーに一人、あんたのことを特別慕ってる奴が居たんです。もちろん唇にキスしたいって意味ですよ。そいつ、ある時はキャプテンの襟足の寝癖が気になりすぎて、ラーメンを載せた盆を持つ腕からついつい力が抜けてしまったり。またある時は、他クルーたちの組み手を観戦中、海を眺める誰かさんに釘付けとなったばっかりに、飛ばされてきたクルーにモロに当たって船長の背中まで尻から突っ込んでしまったり。またある時は、敵味方入り乱れた大混戦の中、キャプテンの向こうにいる狙撃主たちに気付いて体が勝手に動いてしまったり……。

 心配だったんだ。出過ぎた真似だとしても。体が先に動いた。相手は物陰に隠れていたし、背後からの銃撃だったし、キャプテンは前方の敵達相手に楽しそうにしていたし。本当は気付いていたのかもしれませんけど、万が一が起こったら嫌じゃないですか。嫌だなあって、思ったんですよ。

「“参加できねえ”とか言ってやがったのは何処のどいつだ!まともに動けねェ奴が出しゃばるな!」

 それは無理な相談ってもんです。知ってるでしょう、喧騒を聞けば何だかんだ血が騒いでしまうタチなんだから。俺だけでなくみんなそう。そういう輩がこの海賊船に乗ったんだ。他の奴らだけ楽しむとかズルいじゃないですか。でもま、筋肉痛さえ酷くなければ、今回の海軍相手だろうと銃弾を捌き切れないなんてヘマはしなかったのかもしれませんね。べつにキャプテンを責めてるわけじゃあないですよ。そりゃキャプテンに鼻フックきめてやりたいと思ったことは今までに数え切れない程ありますけども、今回の件に関しては自分の腑甲斐なさに呆れただけです。面目ない。

「……おい」

 頬の皮膚が揺らされている気はしても、まるで自分の体ではないみたいに鈍く感じる。本格的にやばいかも。目を閉じてしまっているので、正確には何をされているのか分からない。

「おい」

 そういえば昨夜こんな台詞を言いましたっけ。キャプテンのピンチには必ず駆けつけるって。キャプテンも言いましたね、あんたがピンチになったら俺の体は必ず動く――。盾になれ、という意味では無かったかもしれませんけど。確かにこの両脚は、強靭なバネのように、あんたの元まで跳んでった。

「……頼む。死ぬな」

 ――はて。いまの声は――誰のだろう――?
 知っているあの人にしてはあまりに切羽詰まって頼りない。けれどもし思っている通りの人なら、心臓が止まってしまいそうなくらいに嬉しいなぁ。今の状況じゃシャレになりませんけど。あれ、雨も降りだしたみたいだ。おかしいな、潜水艦の中のはずなのに。もっと言うなら、ここはキャプテン以外立ち入り禁止のオペ室のはずなのに。おかしいな。不思議だな。
 ……参ったな。もう一度瞼を開くことができれば、すべて、ちゃんと、わかるのに……――。



 トラファルガー・ローはよく「クール」などと表されるわけだが、俺からしてみれば嘘っぱちだ。だって、感覚も遠のいたはずの皮膚に触れたなみだは、こんなにも熱い。
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