大きくなったら結婚してくれと、私は何度も言いました。彼はいつだってその言葉に笑顔で頷いてくれました。「約束しましょう」と、私の小指に彼の温かな小指を絡め、私たちは未来の愛を誓いました。彼は私より随分と歳が上でしたけれど、そんなものは私たちには関係ないと、ただ互いの愛さえあればいいのだと私は思っておりました。ええ、ええ、私はずっとその考えを疑いもしなかったのです。 彼が故郷を捨てたのは、もう七つも前の冬になります。「彼らと共に行くことにしました」そう言った彼の後ろには煙管を持った隻眼の男性と、三味線を背負った背の高い男性がおりました。私はそのお二人が持つ雰囲気がとても怖ろしく、彼がその方達と共に何処かへ行ってしまうことが、とても酷いことのように思えました。 「どこへお行きになるのですか」 袖を引く私を困ったように見下ろす彼を、いまでも覚えております。 「国を壊しにいくのですよ」 「わたくしも、ご一緒させてはいただけないでしょうか」 国を壊すことがどういうことなのか、幼かった私には理解ができませんでした。けれど、そんなことは関係なかったのです。それが良いことであろうと悪いことであろうと、彼がいるのならそれで良いのだと私は思いました。 そんな私に、彼は随分手を焼いたことでしょう。泣き喚きこそしなかったものの、駄々をこねて袖を握りしめる私を、彼は必死で宥めて下さいました。 「いいですか、私は大人なのです。大人の男なのです。貴女はまだ子供ですから、私には貴女を連れて行くことができないのです」 「十五はこどもでしょうか」 「私から見れば、十五など七つの子供と変わりませんよ」 この時ほど、彼より遅く生まれたことを悔いたことはありません。起伏のない薄い身体も、彼が可愛らしいと言ってくれた化粧を知らぬ顔も、何もかも憎くてなりませんでした。 「どうしても、どうしても駄目でしょうか?」 「ええ、いまはまだ」 そう言って、彼は私の額に口づけをくださいました。 「貴女が大人になったら迎えにきましょう。それまでいい子で待っていてください」 彼に時折文を送るよう約束を取り付けて、私は渋々彼の袖を放しました。しゃんと背筋を伸ばし、きっと前を見据える彼は、なるほど、たしかに大人でした。同じものを志す方と共に歩きだす彼は大変立派で、その片袖だけが惨めにくしゃくしゃなままでした。 約束通り、彼は月にひとつは必ず文をくださいました。何処にいるのかはわかりませんが、時折季節の花や、土産物も送ってくださいました。 私も二十二になり、立派に成人した身でございます。見合い話なども舞い込むようになりましたが、私の心はいまだ彼にありました。どんなに素敵な殿方であろうと、私の心を彼から引き離すことは出来なかったのです。 私は彼に、何度も成人したことを告げようとしました。けれど彼は住所不定の身ですから、告げることなどできないのです。大人になったら迎えにくると、そう言った彼の言葉だけを頼りに私はいつまでも待つつもりでおりました。けれども私も人間です。約束のことなど一つも書かれていない彼の文に、幾度も涙を流しました。 ついに我慢ができなくなった時、私は故郷を捨てました。家を捨て、家族を捨て、彼を探しにいきました。世間知らずの箱入り娘が飛び出すなど、両親は思いもしなかったでしょう。母様が泣き崩れたことだけが、心残りでなりません。 京の都に着いたとき、偶然にも私は隻眼の男性を見つけました。彼が故郷を捨てた時、一緒にいたあの男性です。七年も昔、一度きりしか会わなかった方をよく覚えていたものだと思いますが、その方の独特の雰囲気が私の記憶を呼び起こしたのでしょう。 私はその方を捉まえ、どうか彼に会わせてくれと必死になって頼みました。その方は黙って私を見つめ、「七年前のガキか」と呟きました。 「憶えていらしたのですか」 「ああ」 その方は煙管を口に含み、意地悪く口の端を持ち上げました。 「俺にびびっていたガキだろう」 その方は私を船まで連れていってくださいました。大層大きな船で、驚いて辺りを見回す私を、また意地悪く笑います。 「ここで待て」 小さな座敷に私一人を残して、その方はゆらりと去っていきました。言われたとおり、私は待ちます。此処まできたら、百年でも千年でも待ってやろうと思いました。 けれどもそれほど待つことなく、足音が一つやってきました。それは襖の前で止まり、暫し躊躇う気配を見せた後、そっと襖を引きました。 七年ぶりに見る彼は、昔とはいくらか違って見えました。目元に小さな皺が見えます。頬は以前より窪んでいます。手も昔に比べ、いくらか骨張っていました。けれども確かに彼でした。私が愛してやまないお人がそこにおりました。 彼は静かに襖を閉じると、私の前に座りました。なまえと彼が私を呼びます。声は少し嗄れていました。 彼の声が耳に届いた瞬間、私のなかの細胞すべてが歓喜に打ち震えました。彼の声をどれだけ望んだことでしょう。彼を一目見たいと、どれだけ泣いたことでしょう。涙が溢れました。彼が私を見つめます。 「貴女はいくつになりましたか」 「もう二十二になりました」 私は喜んで答えました。そうでしょう、彼は大人になったら結婚してくれるとずっと約束していたのですから。 けれど彼は微笑みました。 「私から見れば、二十二など十五の子供と変わりませんよ」 なんということでしょう。私は絶望しました。比喩でなく、本当に目の前が真っ暗になったのです。あの時と違い、身体に凹凸ができました。化粧の仕方を覚えました。二十二が子供など、私には到底思えません。 「なぜですか、なぜ、わたくしはもう子供ではありませんのに」 歳が下すぎるのかと思いました。確かに、私と彼は十五も離れております。そんなもの、愛さえあれば何も問題はないと思っておりました。けれど彼は違ったのでしょうか。 訊けば、彼は渋るように眉を寄せました。答えたくないようなことを二三呟きました。けれども私があんまり切羽詰まる様子だったからでしょうか、それは違うと彼は言いました。 「許してください、私は怖いのです。貴女が私と生きるのが怖い」 「なぜですか、わたくしは何をしてしまったのでしょうか」 「いいえ、貴女は悪くなどない。私が悪いのです。私は貴女が死ぬのが怖い。私のせいで死んでしまうのが、怖くて仕方がないのです」 彼は言いました。自分は攘夷志士であるから、いつ何時死んでしまうかわからないと。自分のせいで私が死んでしまうのが嫌なのだと。 「許してくださいなまえ。貴女はまだ若い。貴女は私のような年寄りではなく、立派な男と仕合せにならなければならない」 彼は困ったように笑いました。昔、連れていってくれと私が駄々をこねた時と同じように。以前なら、その笑みに負けてしまったことでしょう。私がまだ子供だったなら、彼に言いくるめられ、故郷に帰ってしまったかもしれません。 彼にとっては残念なことに、そして私にとっては幸運なことに、私はもう子供ではありません。彼の笑みに、かつてない程腹が立ちました。 「変平太さま、わたくしは情けのうございます。貴方はわたくしが、一人でさっさと死ぬと思っていらっしゃる。わたくしは貴方と共に、千の時を過ごす覚悟をとうに決めたといいますものを」 彼は驚いたように目を見開きました。元が大きなものですから、ますます丸く、まるで幼子のようでございました。 「もし貴方が望んでくださるのなら、わたくしはいくらでも貴方と共に生きましょう。わたくしの命が先に絶えてしまうなら、わたくしが貴方の命を頂きます。貴方の命が先に絶えてしまうなら、わたくしは自ら喉笛に剃刀を立ててみせましょう。歳がなんです、そんなもの、互いが八十と六十になってしまえば関係ございません! 変平太さま、わたくしは本気なのです。本気で貴方を愛しているのです」 ああ、いますぐ彼に私の愛を証明できたら! それができるのなら、私は何だって投げ捨てたことでしょう。たとえ手足が無くなろうとも、二度と彼の声を聞けなくなろうと構いません。彼と共に生きることさえできたら、私はもう何も望むものなどありはしないのです。 彼は暫く黙っていました。悩んでいる様子でした。 「おどろきました」 やがて、彼は小さく言いました。俯いているので、顔は見えません。彼はそのまま続けます。 「私はてっきり、愛しているのは私だけだと。貴女はもう、他に男がいるものだと」 彼は両の手で顔を覆いました。 「愛している、なまえ。私はおまえを愛している」 私は涙を流したまま微笑みました。私の願いがかなった瞬間でした。 「変平太さま、なまえは貴方を愛しております。どうぞお側に置いてください」 「ええ、ええ」 彼が泣くのを初めて見ました。彼の骨張った手から溢れる涙は、光を反射して美しく輝きます。それは確かに愛でした。そして私の頬をつたう雫もまた、彼へのとびきりの愛なのです。 素敵な企画をありがとうございました。 2012/12/16 企画提出:懶惰 |