「風になりたいな」 どうやら、彼女の将来の夢は風らしい。剥いたばかりの果実を思わせるような、初々しいちいさな唇からその単語が出てきても、意外、とは思わなかった自分に自分が驚いた。だけど、風になるのが夢、だなんて。全くもって予想してなかったけどね。色素の薄く腰あたりまで伸びている豊かなウェーブが、ゆうるりと初夏の風のなかに泳いで、透明な刺激にきみが目を細めたのはたったの一瞬、彼女は傍らに座る俺の顔を見て同意を求めるような口振りでことばを紡いだ。俺を見る双眸は、柔順で生粋で、だが充分に抜け目のない、はしこい猫眼であって。自分の欲望や目的のためになら、こわいくらいの意志を湛えるような、そんなように見える彼女の眼……ふたつのソレが、自分だけを映す瞬間が、俺は密やかに好きだった。 「ねっ、いいよね、風」 「そう?」 「そうだよ。だって、総理大臣になるより現実的だもん」 「確かに、そんな気もするねー」 「でしょ?」 そう言って、彼女は得意げに笑ってみせる。まだ風になれると決まったわけでもないのに。いまの季節は夏だけれど、春の日溜まりを仄めかす至極やさしいトーンは、そしてその声と調和している溶けるようにやわらかなほほえみは、自分にとっての甘美な毒でしかない……ちいさなけしの花のようだと言えば大袈裟かもしれないけど、その声を聴くだけで、ほほえみを目にするだけで、渇いた地面が清らかな水で潤いを成してゆくように、からだの節々にまでひたひたと、甘美さで創られたそれは淡い桃色の液体となって隈無く浸透して、俺のこころのすべてを簡単に奪わってゆくのだから。愛を囁かれたわけではないのに、ましてや、きみが俺をどう思ってるかなんて解るわけもないのに、こんなくるわしい現象に陥るのは多分初めてのことだった。自分の想いはほんものなんだなあとひしひし思いながら、彼女の夢について俺は考えてみる。……“風”になる為には、高校にも大学にも行かなくてもいいのかもしれない。そうだとしたら、風になるという進路は、ある意味、かなり魅力的だ。 「ねぇ、はぎのすけくんは風って好き?」 「うーん、好き、かなあ……あ、でも、強い風は嫌いかも」 「何で?」 「だって、髪のセットが崩れるじゃない」 「あーそうかー…」 彼女は、俺の唯一の気に入りであり、自慢とも言える、毎日手入れを施しているカフェオレ色の髪を嘗めるように見ながら納得したのか、こくこく頷いている。あっさりと認めてくれたものだから、そんな彼女の様子がおもしろくてつい、ふふっとほほえみを零せば。“ほよ?”ということばが出てきそうなほどに怪訝の情に染められた眼差しで俺のことを見上げてくる。どきりと胸が高鳴ったのは言うまでもなく、そんな彼女の表情に本気でそそられる。意識的にせよ、無意識にせよ、可愛いと思わずにはいられない。彼女のいじらしさは異様なレベルを持って、自分の胸をくすぐるのだ。そのまま視線が数秒間混じり合って、そろそろ堪え難くなってきた頃、きみは少し何かをあぐねたような顔付きに変化したかと思えば、いきなり声を張り上げた。 「決めたっ!」 その声に共鳴するかのように、風が強くなった。びゅううと音を立てながら風が縦横無尽に吹き廻り、学園の樹木の梢についた瑞瑞しい緑の葉や、その傍らに咲いては蒼穹を仰いでいる黄色いひまわりを容赦無く揺すぶっていた。あまりの吹き上げに、梢から離されてしまった哀れなみどりたちは、俺たちの前で飛びまわるようにダンスをしていて。何処かに貼っていたのであろう校内新聞の紙が破れ、裂けそうに、はたはた鳴るのが、近くで聴こえる。心地好いを通りこして、寧ろ、鬱陶しいほどの強い風。先程俺が『風は嫌い』と言ったから、風の奴が怒ったのかもしれないと思うと、なんだか肩を竦めたくなった。しかし、そんな自分とは相反するように、風に吹かれている最中である彼女の目の奥にはきれいな意志のひかりが明瞭に湛えられている。 「はぎのすけくん、あたし決めたよ!」 「なにを?」 「やさしい風になる」 「やさしい、風?」 「うん。あたしにもよく解んないけど、多分それって、泣いてるひとの涙を乾かすような、そっと花を揺らすような、そんな風」 彼女の透き通ったソプラノ声を耳にしながら目を閉じて深呼吸をしてみた。彼女の意志を耳にした風もまた、その声を受け入れ、宥められるようにして、ほんの少しだけやわらいで、俺の首すじやほおを撫でている。真っ暗な視界の中、息を吸って、吐いて、空気が風となって、俺の全身を駆け巡る。なんだか、風に抱かれているようなおかしな錯覚を引き起こし、すうっとした気分を貰う。ミント味のガムを噛んでるみたいに。気持ちのよい安心感に視界を開いて再び彼女を目に宿せば、風に弄ばれている毛先を気にすることもなく、きみは風と同化するように空を仰いでいた。そして、 「いいねー、それ」 俺は素直にことばを返してみる。風になりたいと言った彼女に向けて。さすれば。「ほんとう?」と、ふと顔をこちらに向けた彼女の唇……否、顔全体が、茎のさきを水に浸された花のように、生き生きとした生気をつけていた。まさに、夢は叶える為にあると、強い想いを持った人間(ひと)の顔、だ。彼女はこれから先に『風になりたい』と、自分以外の誰かにありのままの“夢”を伝え、きっと多くの人間が、そんなものにはなれやしない、現実を見ろ、と、夢のない羅列を並べてはきみの夢を否定することだろう。勿論それは妥当である、けれど俺はその“妥当”をやわらかくこわしてあげて、彼女にとっての唯一の“味方”になりたいと思った。きみを愛おしいと思う紛いも無い気持ちが、俺のこころをそうやって動かすんだ。 「うん。すっきりするね、なんとなく」 「それは良かった」 笑った彼女の唇から覗いた、白くひかる八重歯を好きだと思った。整っている歯よりも、ずっとずっと可愛くて、なんだかきみに似合うから。でも、風になったら、八重歯はなくなってしまうのだろう。そう思うと、少しだけ勿体無い気もした。行ったり来たりのちいさな風が吹く中で、視線がやんわりと絡み合う。マスカラがついていない、けれど、くるんと上を向いているとびきり長い睫毛に取り囲まれた、色素の薄いおおきな猫の眼は、俺を見つめ、何処か愉楽に染められているようにも思えて。その中には、どうしようもない愛おしさと、ほんの少しの切なさに塗れた男の姿が、鮮明に映っている。彼女が自分を映しながら何を見出だしているのだろう?と疑問に思えば、俺のこころの声が聴こえた、とでも言うように、疑問符つきでことばが紡がれる。 「はぎのすけくんは何になるの?」 「解んないな、けど……多分、風ではないね」 やさしい風になるのもいいけど、大好きなきみとおんなじなのはやっぱり少しばかり物足りなくも思うから、何か他のものを見付けたい。もっとやさしくてやわらかくて、きれいな何か。あ、色があった方がいいな。カラフルなせかいの中で息を紡ぎたい。……そして、もし見付けられたのなら、ひとつの答えに辿り着けたのなら、真っ先にきみに伝えたい。きみが風になってしまう前に。 「じゃあ、これから探すんだね」 彼女の、まだ少しあどけなさの残るソプラノ。それが耳の裏側で鮮明に届いて。耳元に膜を張り巡るように、ふわりと膨らんで。そのあとで、ぱちっと、ちいさな音がしたような気がした。きみのひとことになんだか掬われたような気持ちをおぼえたのは確かで、ずっと見付からなかったパズルのピースをひとつ、拾ったような感覚が脳裏に閃く。……そうだ、これからだ。俺たちには、未来がある。希望だってある。まだまだ、焦らなくたっていい。現在(いま)をたいせつに生きてゆけばいい。 「うん、そうするよ……あっ、」 「ん?」 「ひとが息するときに吸い込む風も、やさしい風の気がする」 彼女は少し驚いたように俺を見つめたまま瞠目して、そのあとゆっくり頷いた。雲みたいに白い肌が透き通るように輝き、猫の目は溶けるように柔和なものに変わり、全身でしあわせを表しているような、そんなふうに思えるほど、彼女もまた、いましがた俺の紡いだひとことに掬われているような気がした……たとえ都合のいい自惚れだとしても。きみの唇が、これから俺へと乗せる羅列だけは、それだけはきっと真実だから。 「そうだね。さすがはぎのすけくんだ。すごく素敵な考え……ありがとう」 「……どーいたしまして」 そして多分、これは予想だけれど。俺ときみの未来は、ふたりを照らすこの太陽みたいに明るいような気がする。 ありがとうの言葉がこんなにこそばゆい、あたたかな午後 (深呼吸をすると、風のやさしさを分けてもらえると思う) ≫懶惰様に提出 ≫花にたとえられるより |