恋は人を馬鹿者にする。あの人に出会って、それが、少なくとも俺にとっては事実なのだと知った。 あなたが怪我や病気をしませんように。たくさんの人に埋もれるように、突出せず、なるべく長く生きていけますように。格好良い人がみんな、あなたに気が付きませんように。俺よりも強い人が、あなたの前に現れませんように。 願いは積もる一方で、そのほとんどに汚さが滲んだ。 消毒液の匂いが充満する、リノリウムの床の廊下を進んだ。 もう通い慣れた経路の先に、同じ苗字でも親戚の苗字でもない、赤の他人の苗字が書かれた病室がある。 コンコン、と二つノックをして「失礼します」と扉を開ける。内側からの返事は待たなかった。 「こんにちは、京介くん」 ベッドの傍らに腰掛けた細い女性が、ゆっくりと微笑む。 一年前、防衛任務中に助けた人で、俺の好きな女性。 「こんにちは、なまえさん」 ベッドに横たわる男性の、奥さん。 一年前、防衛任務中に出現したネイバーはとても素早く、移動能力に特化したトリオン兵だった。すぐに跡を追ったものの、あっという間に市街地まで逃げられてしまい、結果、この二人を巻き込んでしまった。 それから一度も目を覚まさないなまえさんの旦那さん。俺は、この人が目を開けたところを見た事がない。 一度記憶を書き換えたなまえさんを個人的に訪ね、彼女の気持ちも考えずに全てを話したのは、俺が罪悪感に耐えられなかったからだ。あと一歩早ければ。難しい敵ではなかった。後ろめたさを背負い込む事が出来ず、一番吐いてはならない人に向かって、全てを吐いた。 未熟だった。 「…そう。でも、この人も私も、命があるわ。 だから、守ってくれてありがとう」 弱い笑みは、おそろしいほど美しかった。 「天気が良いわ。この人の容態も安定してる」 血管の浮かんだ、白い、骨と皮の手の平が布団の上を撫でるように動く。 痩せてしまったなまえさんの指には銀の指輪が引っかかっていて、これと同じ物が、ベッドに横たわる男性の指にも嵌っているのだろう。 「命があって、本当に良かった。全部、京介くんのおかげだわ」 「いえ、結局庇いきれずに、旦那さんに一生物の怪我を負わせてしまいました。旦那さんの分も、俺がなまえさんを守ります」 旦那さんが生きていてくれて良かったと思うのは、もしあの時に亡くなってしまっていたら、俺は一生勝てなくなっていただろうから。もしも彼より先に俺が死んだら、俺はこの人の心に住めるんじゃないだろうかと何度も思った。永遠の存在となり、そして、その瞬間、ほんの少しだけでも彼女の中で一番になれるのではないか。それがどんな感情であっても構わない。求めたものは強さだった。 「ありがとう、京介くん。もう十分たくさん良くして貰ったわ。だから、そんなに背負わないで。私の事も、守らなくていいのよ」 「いえ、俺が守りたいんです。だから、お願いします」 そう言えば、あなたは困ったように口をつぐむ。俺の意志を尊重してくれる優しい部分に付け込んだ。 あなたを知らなかった過去の俺にも未練はないし、必ず別れがやって来る未来も欲しくない。中途半端でも曖昧でも構わない。 今がずっと永遠に続いてゆけば、俺はどんなに幸せだろう。 どうして僕は君でないとだめなのか |