第23回 | ナノ
縁下くんと喧嘩をした。

初めてした喧嘩だというのにきっかけはなんだったかすっかり忘れてしまっていた。忘れてしまっているほどのちっぽけでくだらない喧嘩だった。そんなだというのにわたしは、かれこれ一週間は学校でも、それ以外でも、彼とは話せていないままだ。







普段穏やかな縁下くんはその一方、怒るととてつもなく怖い。わたしに気を遣って自分はいろいろな嘘をつくくせに、わたしの嘘なんてすぐ見破ってしまうほどの器用さを持った彼は怒ったときほど冷静だ。そのときはきっとわたしも、意地になっていた。怒っていてもいつものように落ち着いた口調で話す縁下くんに余計に腹が立った。喧嘩の内容で唯一覚えていることといえば彼が放った「みょうじは自分のことしか考えてないだろ」という言葉だけ。それは胸に突き刺さったというよりも、胸に力なく放られた鉛玉と形容するほうがそれに近い。鼓膜から入り込んだ言葉を完全に否定することができなかったとき、間違いなくそこで謝るべきだったのだ。なのにわたしは捲くし立てるように彼に酷いことを言った。酷いことを言って、縁下くんに背を向けた。


こうして一週間、音を奏でることのない塊はもう意味をなくしたかのように部屋の隅でうずくまっている。「ごはんできたよ、」お母さんの声に返事をして階段を降りるとき、晩御飯を食べ終わったら今日もわたしはすぐさまあれの画面を確認するのだろうな、とぼんやりと考えた。



「なぁ、それ取ってくれ」

「はいよ」



「あのことだけど」

「あぁ、そのことはもう安心していいよ」



「…なんで"あれ"とか"それ"で通じるんだろ、」ぽつりと自分でこぼした独り言ににはっとする。目の前で話すお父さんとお母さんはいつもと変わらない様子なのに、わたしはなぜだか新鮮な気持ちになった。いままで気付かなかったことに気付くだけでぐわんと景色を取り替えられたような感覚が心臓を侵食した。それは目の前で会話するふたりを見て、途方も時の流れを感じたことからきていて。本人たちには何気ない会話でも長く一緒に過ごしていなければそこに存在できない関係性をその会話だけでわかってしまったから。


「ねぇ、」

「んー?」

お父さんの間のびした返事とお母さんの優しい眼差しがわたしに向けられた。

「お母さんとお父さんは、喧嘩したことある?」

保育園児のようなわたしの質問に2人は迷うことなく「もちろん」と言った。最近した喧嘩はお父さんがね、お母さんは頑固で、2人はわたしがした質問に淀みなく回答というのか喋り続けた。何度も何度も喧嘩をしたらしい両親がそれでもこうして長い間一緒にいて、ふとした会話にそれをにじませる。出会ったこと。想いを伝えたこと。喧嘩をしたこと。それでも一緒にいたいと手を取り直して、その銀色にきらめく輪っかに一緒にいる約束をしたこと。


仮にわたしが将来、この関係性を手にするとして。言葉にしてしまえばこれほどにも呆気ない、言葉にするにはあまりにも足りないその時間を、一緒に過ごしたいと思うのは他の誰でもない縁下くんだ。高校生の身分でこんなことを考えるのはおかしいのかもしれない。馬鹿馬鹿しい、と笑われてもいい。それでも、縁下くんとそんな時間を過ごせるのなら、わたしはどれだけ幸せものなんだろう。







暗い部屋に放られたの塊を拾い上げるのはいつものこと、その画面が照らされることは今日もない。いつまでも意地を張るのはやめだ。喧嘩をしたということは気を遣いあってばかりの関係を卒業したということ、縁下くんのほんとうのところに近づいているということ。酷い言葉で傷られたところで傷つけたところでわたしは縁下くんのことをずっと好きなままだ。このまま離れてしまうなんてことは、すごく悲しい。


ふー、と息をついて表示された画面のコールボタンを押そうとしたとき、突然パッと画面が切り替わる。あらたに表示された文字にわたしは躊躇いもなくその電話に出た。


「縁下くんあのね、」
「みょうじあのさ、」


わたしの声と聞きたくてたまらなかった声とが重なった。それはどちらも焦ったような、緊張しているような声色で重なる。縁下くんの声を聞いただけで震える心臓はとっくにその存在だけで拍動を生んでいる。ふたりが次に口にするのはきっと同じ言葉。わたしにとってのしあわせが、縁下くんの隣にあるというならわたしがすることは縁下くんに背中を向けることでも、下手くそな嘘をつくことでも、酷いことを言うことでもない。そんなの、たったひとつだけだ。

わたしのごめんねと縁下くんのごめんねがまたも重なればわたしの肺がその言葉に満たされる。「苦しくなるほどに縁下くんが好きだ」と、直接言ってやるのはもうすこし先にしておくことにした。



あなたはやさしいうそつきさん

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