第23回 | ナノ
「なまえさんって、結婚してたんですね」

始まりは、エレンのそんな何気ない話からだった。
私とあまり変わらない背丈のエレンは、意外そうに数回瞬きを繰り返し、またじっと私のことを見つめてくる。
私はエレンに背を向けつつ、適当に笑いながらその場を後にしようと歩き出す。
しかし、エレンの話に余計な首を突っ込んで来た人物のせいで、私は逃げられなくなった。

「そうか。エレンはまだ知らなかったんだな」

「えー?あんなに分かりやすいのに?」

振り向きたくはなかったが恐る恐る首だけ動かす。
すると、そこには腕を組んでしみじみと頷くエルヴィンと、驚きつつも何か企んでいる表情を浮かべるハンジがいた。
エレンはエルヴィンとハンジの一言に、余計に興味をそそられてしまったらしく、今度は目をきらきらと輝かせながら私を見る。
私は苦笑いを浮かべつつ、内心ではエルヴィンとハンジの二人に罵詈雑言を浴びせていた。

「俺には分かりませんでした。だって、なまえさんってそんな素振り一度も見せませんでしたし。それに、結婚してるなんて知ったの、ついさっきですから」

「確かになまえは分かりづらい。でも、旦那はすっごく分かりやすいだろう?」

エレンの肩に腕を回しながら楽しそうに笑うハンジに私は思わず睨みつける。
しかし、ハンジは私の反応にさらにおかしそうに笑った。

「実は俺、なまえさんの旦那さんのことは知らないんです。ピクシス司令からはそこまで教えてもらえなかったので」

エレンの瞳に不思議そうな色を浮かぶ。
明らかにその目は、結婚相手を教えて下さい、という意味が込められていた。
いや、それよりも、ピクシス司令は一体何を口走ってくれたのやら。
だいたい、あの人は駐屯兵団のお偉いさんで、しかも何故調査兵団に所属するエレンと暢気に話しているのだろうか。
まさかここまで来たのだろうか、わざわざ私の昔話をするために。

「それで、あの、なまえさん!」

あの変人司令に苛立っていると、エレンが再び私を呼ぶ。
私が返事をするよりも先に、エレンは宝探しをして遊ぶ子供のような表情を浮かべながら口を開いた。

「なまえさんの旦那さん!誰なんですか!?」

私の口元が引きつる。
そんな私の心中を察したのか、エレンは少しだけ表情を暗くさせてしまった。

「そうですよね。俺が名前を聞いても知るわけないですよね。あっ!せめて!どんなプロポーズだったか教えて下さい!」

エレンは少しデリカシーというものを覚えた方がいいと思う。
困り果てる私の背後で、明らかにエルヴィンとハンジがおかしそうに腹を抱えて笑っている。
二人にそろそろ一発殴ってやろうかと思った時に、またわらわらと集まって来た。

「なまえさん!結婚してたんですね!お相手は誰なんすか!?」

「結婚式したんですよね!?ご馳走、何食べたんですか!?」

コニーとサシャが興味津々に私の目の前で騒ぐ。
まぁ、サシャに関しては明らかにずれた興味だけど。

「あの頃は、おまえさん達も若かったのう」

にこにこ、いや、にまにまと酒を飲みながら笑ってやって来るピクシス司令に私は殺意を覚えた。
その前に、何故私の昔話を新兵にペラペラと話しているのだろうか。

「今もピッチピチに若いです!」

ムスッと頬を膨らませる私に対し、アルミンがぼそっと、え?そこ?と言っていたけど、私には聞こえることはなかった。
私達の出会いは、彼が調査兵団に入団してから少し経ったあとのことだった。
私は845年、あの最初に壁を壊された年に訓練兵団を卒業し、調査兵団に入団する。
壁外調査に出る調査兵団は生存率がとても低く、当然、祖父もやめた方がいいと説得してきた。
しかし、私が生半可の気持ちで入団したわけではないことを告げると、祖父はあっさりと了承。
どうやら、祖父は私が本気かどうか知りたかったらしい。
つくづく分かりづらい人だと思う。
そんな新兵になったばかりの私に、当時の彼は初対面でとんでもないことを言って来た。
乳臭いガキ、だなんて失礼にもほどがある。
初めて会ったにも関わらず、私が彼を嫌いになったのは言うまでもない。
それから、調査兵団に入団してからずいぶん経ち、未だに彼が嫌いのまま過ごしていたある日のことだった。

「……おい、クソガキ」

その日、私は夕食を食べ終わり、入浴する前に厩舎にいる愛馬の様子を見に行っていた。
餌もしっかりと食べさせ、毛繕いもちゃんとやってあげると愛馬も喜んでいる。
その様子に私もついつい嬉しくて笑っていると、背後からドスの低い声が聞こえてきた。
私が恐る恐る振り向くと、そこには私の嫌いな彼がいる。
彼は、悪人面をさらに凶悪にさせながら私を睨みつけていた。

「聞いてんのか、クソガキ」

あまりの怖さに、私は首を縦に振る。
彼は私から視線を外したかと思えば、今度は突然顔に向かって何かを投げつけてきた。
容赦のない力のせいで、投げつけられたものが私の顔面目掛けて飛んでくる。
何とか咄嗟に両手で受け止めることができたが、もしも、受け止められなかったら私の顔は腫れあがっていただろう。
この人は何してくれたのやら、そんな怒りをぶつけようと口を開きかけた時、私は投げられたものの正体に気づいて言葉が喉で突っかかった。

「……これ、私の傘」

その傘は、王都に行った際に祖父に買って貰ったものだった。
ずいぶん高価なものだったけど、祖父は私が訓練兵団を卒業したお祝いにと引かなかったのを覚えている。
その傘を、何故彼が持っているのだろうか。

「……あの?どうしてこれを?」

「おまえのジジイから頼まれたんだよ。外は雨が降ってるから」

そこで私はハッとして厩舎の外に耳を澄ませる。
馬に夢中で気がつかなかったが、どうやら突然天気が崩れてしまったらしい。
先程までは夜空に星が輝いていたのに。

「上官にわざわざご足労をかけさせてしまい、申し訳ありませんでした」

何はともあれ、まずは彼に面倒をかけさせてしまったことに変わりはない。
私は右手の拳を左胸に当てて敬礼する。
すると、彼はしばらく私のことを無言で見つめていたが、やがて、再び口を開いた。

「何故、身内と同じ駐屯兵団に入団しなかった?」

突然の質問に、私は目をぱちぱちと瞬かせてしまう。
すると、あまり気が長くなさそうな彼は、早く答えろと言わんばかりに目を細めていく。
その鋭い視線に私は身体を僅かに震わせながら、なんとか口を動かした。

「壁ができる前の歴史を知りたいからです」

「歴史?」

「はい。かつて、人類はそれぞれ種族があり、また、その種族はそれぞれ別々の地域で暮らしていたと伝えられています。私は、人類とは何か、巨人とは何か、その謎を解明する一歩に役立てればと思い、調査兵団に入団しました」

私の言葉は妄想だとよく笑われてしまう。
だから、きっと、彼も私のことを笑うだろうと思っていた。
でも、彼から返ってきた言葉は意外なもの。

「クソメガネ以外にまた変わり者が増えたな。それに、血は争えないというべきか。ジジイも変わっているわけだし」

彼がどういうつもりでそんなことを言ったのか分からない。
でも、雰囲気的に私のことを決して貶しているわけではないことに気づいた。

「早くしないと入浴時間が終わる。さっさと戻れ」

彼が私に背を向けて歩き出す。
でも、私は外から聞こえる鳴り止まない雨の音にハッとして彼に声をかけた。

「あの!傘、一緒に使いませんか?」

鋭く細められた視線が再び私に向けられる。
私は慌てて彼の隣に行き、先程渡された傘を開いた。

「狭いですけど、気休め程度にはなると思いますから」

彼の頭上に傘を傾ける。
すると、彼が驚いた表情を浮かべながら私を見上げていた。
いや、彼が私を見上げるはずはない。
あの威圧的な態度から、彼が誰かを見上げるなんてありえないわけで。

「おい、何さっきから人のことをじろじろ見てんだよ?」

ビクリと私の肩が跳ね上がる。
でも、先程よりも正直怖いとは思えない。

「さっさと歩け。風呂に入らないつもりか?汚ねえ部下はご免だ」

「すみません!」

いつのまにか、彼の表情が驚きからいつもの鋭いものに戻っている。
私は彼の頭上から傘がずれないように気をつけながら雨の中に足を踏み出した。
お互いに無言のまま歩いていると、二人の間には傘に跳ね返る雨音しか聞こえない。
ちらりと盗み見た彼は、やっぱり私より目線が下。
あの威圧的な態度に、人類最強の異名持ち、それなのに彼は私よりも身長が低い。
私は女子の平均よりもわりと背が高い分類に入ると思うけど、それを差し引いても彼の背は低いと思う。
ごちゃごちゃと考えていると、宿舎に着く。
私は彼を送り届けたことにホッとしながら傘を閉じる。
それから自室に戻ろうとした時に彼がまだ私の側にいることに気づいた。

「それでは、私はこれで」

一礼してから彼に背を向ける。
でも、すぐに彼に声をかけられ、私は再び彼に視線を戻した。

「あの、何か?」

「ご苦労だった。今日はゆっくり休め」

彼が私に背を向けてさっさと歩いて行く。
私はぽかんと口を開けていたが、やがて、これが彼なりの感謝の言葉だと理解し、口を閉じる。
それに、彼の肩が濡れていないようで安心した。

「変なの。もう、怖くないや」

誰に言うわけでもなく、一人言葉を溢す。
それから濡れた傘を大事に抱えながら私は自室に戻っていった。
おかしいね。
人類最強の男の旋毛を見る日が来るだなんて思いもしなかったから。
私からはずっと遠くにいる人、その認識が少しだけ弱まってしまったの。


調査兵団に入団してから月日が経ち、いよいよ翌日に壁外調査に出る日まで来た。
これが私にとって最初の壁外調査であり、もしかしたら最後でもあるかもしれない。
日に日にその恐怖が増していくこともあったが、今日は前日だけあって震えが止まらなかった。
あまりにも眠れなくて、身体をベッドの上から起こす。
水でも飲んで来ようとベッドから出た時、コツンと小さな音が聞こえてきた。
辺りを見回すが、静かに寝静まっていることから同室の仲間が何かしているわけではなさそう。
なんだか急に怖くなってベッドに戻ろうとした時、再びコツンと小さな音が聞こえた。

「……たぶん、外、だよね?」

起こさないように静かに窓に近づく。
すると、窓枠から少しだけ頭が見え、私は疑問に思いながらもその頭の正体を確かめるべく窓を開ける。
冷んやりとした外の空気が室内に入り込む。
その冷たさに僅かに目を細めながら下に視線を向けた時、鋭い視線と目が合った。

「ガキがこんな時間に何で起きてんだ?さっさと寝ろ」

「り、リヴァイ兵長!?」

驚きに思わず声をあげてしまうと、同室の仲間の声が聞こえてくる。
でも、すぐに寝言を言いながら寝てしまったので私はホッとした。
いや、それよりも、何故彼がここにいるのだろうか。

「……こんな時間に、何をしているんですか?」

「散歩だ」

即答された言葉に私はあまり納得がいかない。
そんな私に気づいたのか、彼は小さく舌打ちしている。
それから外をぐるりと見回し、もう一度私に向き直った。

「おまえも付き合え」

唐突に言われた言葉に理解できず、私は数回瞬きを繰り返す。
でも、彼は私の返事を聞く気はないようで、すぐに私に向かって両手を伸ばしてきた。

「見つかったら厄介だ。静かにしろ」

伸ばされた両手は私の両脇の下を支え、そのままぐっと力を入れて持ち上げられてしまう。
ふわりと私の身体が浮いたかと思えば、軽々と窓枠を越えて彼のいる外へと着地する。

「な、何するんですか」

「うるせえ。いいから行くぞ」

彼が私に背を向けてスタスタと歩き出す。
私は決して広くないその背中を仕方なく追いかけることにした。
あまり歩くこともなく、宿舎から少し離れた場所に大きな木がそびえ立っている。
彼は迷うことなく木に上り、私もそのあとに続く。
今まで受けてきた厳しい訓練は無駄ではないようで、私も立体機動装置なしで簡単に天辺まで上ることができた。

「なかなかやるじゃねえか」

「お褒めにあずかり光栄です」

上官の隣に座るだなんておこがましいとは思うが、木の上に座るにはここしかない。
おずおずと隣に座ると、彼は私に見向きもせずにただ夜空を見上げていた。
今日は雲一つない星空が広がっている。
きっと、明日は晴れるのだろう。
二人無言のまま、どのくらいの時間が経っただろうか。
そんなに時間は経っていないと思うが、彼の纏う空気がすごく重く感じ、私は息をすることも遠慮してしまう。
それに、明日に備えて眠らなければならないのに、こんな場所で暇を持て余していいものなのだろうか。
最も、宿舎に戻ったところで恐怖で眠れないと思うけど。

「その選択が正しいのか、俺には分からない」

長い長い静寂を唐突に破られ、私はとりあえず彼に視線を向ける。
彼はまだ空を見上げたまま口だけを動かした。

「だが、正しいのかどうかを考えるのは、無事に帰って来てからだ」

彼がようやく私に視線を向ける。
それから、いつもよりほんの少しだけ鋭さを失った瞳と目が合った。

「それから、どう判断すればいいか分からなくなったら、俺を見つけろ」

彼が私に何を伝えたかったのかは分からない。
でも、その言葉は確実に私の心に強く響いた。
その証拠に、恐怖で怯えていた私の身体は、いつのまにか震えが止まっている。
明日が怖くないと言えば嘘になるが、それでも、私はこれから一歩を踏み出す勇気を持つことができた。

「はい」

たった二文字に込められた私の返事はたくさんの思いが詰まっている。
恐怖、安堵、感謝、不安、本当に様々だ。
だけど、彼は私の気持ちが手に取るように分かるのだろう。
なんとなく、そんな気がする。
彼の言葉に張りつめていた緊張が解けたのか、私は思わずふわりと欠伸を溢してしまう。
やがて、再び静寂だけが残ってしまった木の上で、私は重くなった瞼をゆっくり閉じた。
翌朝、何故か私の身体が自室のベッドに寝かされているだなんて思いもせずに。
それから翌日の壁外調査も、その次も、そのまた次も、私は無事に生き残ることができた。
彼に教わった教訓を胸に刻み、その言葉が私を生かす理由にもなっている。
それに、人類最強と謳われている彼のように強くなりたくて私は必死だった。
あれから彼は、壁外調査に行く前日の深夜に必ず私の元へやって来ては、あの木の上に一緒に連れて行く。
あまり会話なんてないけれど、隣に座るだけでも勇気が湧いた。
それに、彼は壁外でも訓練中でも私を見つければ声をかけてくれる、その気遣いが嬉しく思う。
不思議だ。
あんなに苦手で、嫌いだと思っていた相手なのに、今の私にとって彼は憧れの存在になっている。
でも、心の何処かで気づいていることもあった。
彼が私を気にかけてくれるのは私があの人の孫だから、と。
私が幼い頃から知っているエルヴィンとハンジも同じ。
エルヴィンが私と会うたびに、私の身体を持ち上げて高い高いなんて言いながら笑うのも、ハンジが私の頭を撫でて笑うのも、全部、私があの人の孫だから。
だから、きっと、彼も、そう思わずにはいられなかった。


私が調査兵団に入団してから、今日が四回目の壁外調査になる。
広い壁外は相変わらず緑で溢れていて、動物達も元気よく野原をかけていた。
そう、それは巨人を除いて。
今回の私は、右翼側の最前列に配置されていた。
だからこそ、私達の班は誰よりも先に巨人と遭遇することになってしまう。
一体なら集団でかかれば倒せただろう。
しかし、現れた巨人は多数、しかも全て十メートルを超えていた。

「なまえ!逃げるんだ!」

「嫌です!お言葉ですが、先輩を残して行くだなんて!私にはできません!」

煙弾を撃って巨人の遭遇を仲間達に知らせた。
だから、仲間達はきっと危機を回避しようと作戦を練って行動するから大丈夫だろう。
しかし、すぐ目の前に巨人がいる私達の班に残された選択肢は戦うことしかない。それだけに、逃げるなんて不可能だということは私も班員もみんな知っていた。

「逃げるんだ!頼む!おまえだけは!」

私と一緒に立体機動装置を駆使して戦っている先輩が必死に訴えてくる。
それでも、生憎私は素直に言うことを聞けるほどおとなしい性分ではない。

「絶対に嫌です!」

私が睨みつけると、先輩が絶句する。
それから先輩は溜息を吐いてから苦笑いを浮かべた。

「まさかこんな頑固なお孫さんとは思わなかったよ。おまえが死んだら、私の命はないだろうに」

私と先輩の前方から巨人が走ってくる。
その巨人の口には私達の班員の一人が噛み千切られてしまっていた。
私と先輩の後ろからも複数の巨人が追ってくる。
私と先輩はそれぞれ頷いてから両脇に散った。
二人同時に飛び、前方の巨人の項を狙う。
相手が奇行種ではなかったのでここはなんとか突破。
問題は、私と先輩の後方から追って来る巨人達。
なかには足が異常に早い奇行種も数体いる。

「もう逃げろとは言わない!全力で行くぞ!」

「はい!」

私と先輩はトップスピードを維持したまま後方に身体の向きを変える。
そのまま巨人の大群に向かって突っ込んだ。
目標は多数、こっちは二人、絶望的な状況であることに変わりない。
だからこそ、このまま死ぬのは嫌だった。
再び両脇に散り、それぞれ項を削いでいく。
いつのまにか、私と先輩以外の班員はみんな殺されてしまった。
それでも、仲間の死を振り切り、一歩、また一歩と巨人を倒していく。
残り僅か、希望が見えたと思ったその時だった。
先輩の悲鳴が私の耳に届く。
私が巨人を倒し、先輩に視線を向けると、そこには身体の半分を巨人の口の中に挟まれている先輩がいた。

「や、やめ、…っ」

私が制止を叫ぶ前に、目の前で先輩の身体が噛み切られる。
長閑な緑の風景には似合わない、真っ赤な雨。
周りを見れば巨人しかいない。
私の班員は、この場所にいる人類は、私一人だけ。

「……う、そ、…みん、な…死ん、だ、の?」

集中が切れてしまったせいで、私の身体が地面に向かって叩きつけられる、でも、痛みは感じない。
巨人の群れが私に視線を向けてからこちらに向かって歩き出しても、恐怖は感じない。
ドスン、ドスン、と巨人が歩く大きな足音が耳に届く。
逃げなきゃ、戦わなきゃ、そう思うのに、身体が動かない。
そうしているうちに、私に向かって大きな手が伸ばされる。
そのまま私の身体は軽々と持ち上げられ、巨人の大きな目と目が合った。
先輩は私のせいで死んだのだろうか。
あの時、私が逃げれば先輩と一緒に逃げられたのだろうか、考えても分からない。
頭の中に残るのは班員のみんなが死ぬ姿、緑の世界に降る真っ赤な雨、そして、壁ができる前の歴史の本を楽しそうに読んでいる幼い自分。

「……リヴァイ兵長、…私、もう、何がなんだか分からない、…分からない、です、」

目の前で大きな口が開けられる。
絶望、恐怖、それ以上に、私の心の中を満たしたのは虚無感だった。
ぼんやりと目の前の化物を見つめていると、私の頬に生温かい何かが伝う。
その何かを確かめる気にもなれないまま、私は目を閉じた。

「バカ野郎。答えが出なくなったら俺を探せと言っただろうが」

聞き覚えのある声が私の頭の中に響く。
決して怒鳴ったわけではない、でも、その声はしっかりと私の耳に届いた。

「……リヴァイ、兵長、?」

目を開けて名前を呼ぶのと同時に、私の身体が自由になる。
身体が地面に叩きつけられるのと同時に、複数の巨人もみんな倒れていった。
周りに視線を向けても、もう、巨人はいない。

「おい、クソガキ」

私の前に彼が立ち、私を見下ろす。
背の低い彼は、私が今座り込んでいるせいでとても大きく見える。

「さっさと行くぞ。エルヴィンとクソメガネに顔を見せに行ってやれ」

彼の視線がまっすぐに私を射抜く。
私の身体がなかなか動かないことに痺れを切らしたのか、彼が両手を私に向かって伸ばしてきた。

「……もう、いいんです」

彼の手がぴたりと止まる。
私は彼の目が見られなくて俯いたまま続けた。

「苦しいんですよ。あなたも、エルヴィンも、ハンジも、みんな、私のことを気にかけてくれるのは、…私が、あの人の、…ドット・ピクシスの孫だから、そう、分かっているんです。…だから、…もう、」

「言いたいことはそれだけか?」

私の言葉を遮り、彼はいつもの威圧的な態度で私に問う。
私が再び彼を見上げるのと同時に、彼は止まっていた手を動かして私の身体を持ち上げた。

「厄介だな。立体機動装置が壊れてやがる。とりあえず、エルヴィンのところへ行って直せるか確認するしかないな」

軽々と持ち上げられた私の身体は彼の乗ってきた馬に乗せられる。
彼は何事もなかったかのように私の前に乗り、馬を走らせてしまった。

「リヴァイ兵長、どうして、」

「うるせえ。いいから俺に掴まってろ」

「でも!」

「いいから言うことを聞け」

これ以上何を言っても聞き入れてもらえるとは思えず、私はおとなしく彼の腰に腕を回す。
私より背が低いのに、彼の身体は私と違って何処となく硬く思う。
きっと、男性と女性では筋肉のつき方がずいぶん違うのかもしれない。

「エルヴィンがよく言っていた。おまえは泣き虫で、臆病で、怖がりで、世間知らずで、兵士には向いてない、と」

馬を走らせながら静かに話し出す彼に、私は耳を傾ける。
彼は私の反応など気にせずにさらに続けた。

「だが、クソメガネは、おまえは誰よりも兵士としての才能がある、と言っていた。その証拠に、おまえは今日まで壁外調査から必ず帰還している。それに、巨人の討伐数もその辺の男共に比べれば引けを取らない」

彼は何を伝えようとしているのだろうか。
目の前の彼の背中を見つめても答えは出てこない。
周りには誰もいない。
まるで、この広い世界に二人きりになってしまったみたいに思う。

「……何が、仰りたいんですか?」

「おまえは、今日まで生きてきた自分を否定するつもりか?」

言っている意味が分からない。
でも、私が聞き返しても、彼は答えてくれない。
その代わり、彼はまだ語り続けている。

「俺がおまえのジジイのためにおまえを守ると思うか?俺が兵団に媚びを売ると思うか?有り得ねえな。俺は兵団の偉ぶっている奴等のご機嫌取りのために命を捨てるつもりはねえよ」

ようやく、右翼側の一部が見えてくる。
私達の班が一番外側だったから、きっと、この班は外側から二番目の位置なのだろう。

「……じゃあ、どうして、」

「簡単だ。俺の判断だからだ」

列を遮り、段々と中央に近づいてくる。
そして、調査兵団の幹部達が集まっている列にいるエルヴィンとハンジが私と彼に気づいた。

「なまえ!よかった!無事だったんだね!」

ハンジが今にも突進してきそうな勢いで彼の隣に馬を走らせる。
それから、精一杯手を伸ばして私の頭を撫でた。

「よかった。無事で。リヴァイ、ありがとう」

「……いや、こいつは無事だが、あとは全滅だった」

「そうか。じゃあ、先程の煙弾の嵐はやっぱり右翼側の危険を知らせるものだったのか」

エルヴィンがホッとした様子を見せるも、彼からの報告を聞いて再び表情を引き締める。
平常心ではいるけど、内心は違うと思う。

「他はどうか知らねえが、少なくともこの二人は違う。だから、くだらねえことを考えるのはやめろ」

彼は少しだけエルヴィンとハンジから距離を取る。
それから、私にだけ聞こえるように言葉を紡いだ。

「もう、死のうとするな。置いてかれる方の身にもなれ」

ぽろぽろと涙が溢れてくる。
私は彼の背中に縋りつき、ただ泣くことしかできなかった。

「それから、おまえの班が命をかけて巨人を倒したおかげで、他の兵士達に危害が及ばなかった。礼を言う。おまえも、おまえの班員も、よくやった」

こんな時に優しい言葉なんてかけてほしくなかった。
だって、今の私には、私の班員の落とした命が無駄ではなかったと分かっても、涙が止まることはなかったのだから。


壁外調査から帰還したあと、ハンジからあることを聞かされた。
それは、私達の班員に向かって巨人が襲って来た時のこと。
私達が巨人を見つけて煙弾を撃った時、彼は顔色を変えて右翼側に向かって全速力で走って行ったらしい。
酷く取り乱し、息を切らせ、冷静な判断ができる状態ではない、それくらい彼は動揺していたようだ。

「……リヴァイ兵長、やっぱりこちらにいましたか」

いつもの大きな木の上に上り、彼はぼんやりと空を眺めていた。
私もいつも通り木を上り、彼の隣に座る。
しばらくの静寂を先に破ったのは、今日は私だった。

「その選択が正しいのか、私には分かりませんでした。誤った選択をしなければ、私の班員は助かったのでしょうか。私には、悔いしか残りません」

彼が無言のまま空を見上げている。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。

「俺は、仲間を失った。ここに来る前から一緒だった、仲間を」

私は彼に視線を向ける。
だけど、彼は私に視線を向けずまだ空を見上げている。
いや、彼は空を見ることによって、失った仲間を探しているのかもしれない。

「生きる理由を失った。だが、エルヴィンは俺に戦うことで生きる理由をくれた。……それだけじゃない。俺は、ようやく戦う以外の生きる理由を見つけることができた」

彼の視線が空から私に向けられる。
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬を撫でた。
驚く私に、彼はフッと表情を緩める。
それから手を離し、彼はさっさと木を降りてしまった。

「さて、戻るぞ。今日はゆっくり休め」

私も慌てて木を降り、彼の背中を追う。
すると、彼は足を止めてから、私に向かって振り向いた。

「こんなじゃじゃ馬な女で、泣き虫で、ガキで、俺の趣味じゃねえと思っていたのにな」

彼の手が伸ばされ、再び私の頬に触れられる。
私が慌てて彼から距離を取ろうとすると、彼はもう片方の手でも私の頬を押さえ、そのまま踵を地面から離した。

「……あ、の、」

「うるせえ。黙って目を閉じろ」

言われるがままぎゅっと目を閉じる。
身長差のせいで少しだけ屈んでしまった私に、彼は精一杯背伸びをしながら唇を重ねた。
少しだけ不恰好だけど、初めてのキスはとても恥ずかしかったことに変わりはない。
やがて、彼は唇を離してから私に言った。

「おまえは、何も知らないガキのままでいてくれればよかった。そうすれば、俺のように絶望を味わうことなく済んだだろう。……だが、過ぎたことを言っても仕方がない。おまえは俺と一緒にいろ。そうすれば、俺がいるかぎりおまえの生きる理由になるからな」

今度こそ彼は私に背を向けて歩き出す。
私は彼に触れられた唇に指で触れながら、ただ彼の背中を見送ることしかできなかった。
今はただ、恥ずかしさでいっぱいいっぱいだったから。

「……何するんですか、もう」

その日、私は彼の強さの秘密を知った。
彼は孤高であり、孤独であり、その背中には重い十字架を背負って生きている。
私には、その十字架を背負うことはできないかもしれない。
でも、彼の孤独を埋めることはできるはすだ、そう思った。
そして、翌年、私は彼と婚約関係を結ぶことになる。

「……と、いうわけだ」

お酒をグビグビと飲み、にんまりと語るピクシス司令の話をエレン達が興味深そうに聞いている。
私は慌ててピクシス司令とエレン達の間に割って入った。

「何勝手に昔話をしているんですか!?それに、ピクシス司令は駐屯兵団の上官です。そんな方が、調査兵団の元へ私的な理由で足を運ぶのはあまりよろしいとは思えません!」

「ピクシス司令、か。昔みたいに、おじいちゃん、と呼んでくれんのか?」

「い、いつの話をしているんですか!?」

「いくつになっても、なまえのおじいちゃんには変わりはないわい」

もうこれ以上は恥ずかしくてこの場にいたくない。
ちょうどその時、前方から見慣れた背の低いシルエットが見えてきた。

「揃いも揃って、何の騒ぎだ?」

「り、リヴァイ兵長!ちょっといいですか!」

私は慌てて彼の元にかけよる。
意味が分からないと眉間に皺を寄せる彼に、私は苦笑いを浮かべて誤魔化す。
何とか彼と一緒にこの場を離れようと歩き出した時に、ピクシス司令のとんでもない発言が耳に入ってくる。

「おまえさん達、いつ、ワシに曾孫の顔を見せてくれんのかのう?」

彼の歩みがピタリと止まる。
私は顔を真っ赤に染めながらピクシス司令のことを睨みつけることしかできない。

「お、おじいちゃん!バカ!大っ嫌い!」

「どうだね、諸君?ワシの孫はかわいいだろう?」

私の話を聞かないピクシス司令は変な同意を新兵達に求めている。
そこ、新兵のくせに、上官をかわいいと頷くのはやめなさい。
それに、ハンジとエルヴィンは笑い過ぎだ。

「なまえ、」

ふと、彼に呼ばれて振り向く。
少し背の低い彼は、私のことを見上げながらにやりと笑った。

「そろそろおまえも腹を決めろ。今日にも、頑張ってみることにしよう」

私の顔がさらに赤く染まっていく。
そんな私を無視し、彼はみんなに見せつけるように私の腰を抱き寄せる。
突然近くなった距離に、ピクシス司令が真剣な表情で彼と私を引き剥がしに来たのはまた別の話。



あの日、彼の精一杯のかっこわるい背伸びで私達は世界一しあわせなキスをした。
私の生きる理由が彼であり、彼の生きる理由が私になったその日から、私達はしあわせの道を歩き出したんだ。



精一杯のかっこわるい背伸びで、世界一しあわせなキスをした

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