第22回 | ナノ

窓からもれる暖かな色の明かりを、イルミは冷たい風の吹きすさぶ庭からじっと眺めていた。
部屋の中にいるのは男と女。先程まで深刻そうな表情で話し合っていたが、今はソファーに座り、互いにもたれかかっている。その手はしっかりと握られ、二人で何かを祈っているようにも見えた。

基本的にイルミは仕事に私情を挟まない。ターゲットが知り合いであっても知り合いでなくても、そこに特別な感情は抱かずただ冷徹に仕事をこなす。
けれども今回ターゲットを聞いたとき、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。依頼が来なくても殺してしまうことは簡単だったが、自分に依頼が回ってきたことでもはや天啓のようにすら感じたのだ。

ターゲットの男は、イルミが密かに想いを寄せている女、なまえの夫そのひとだった。

「……ねぇ、本当にどうしようもなくなっても、」

イルミは気配を消して窓に近づき、中の会話に耳を澄ませる。なまえが男の方に顔を向け、こちら側からは横顔だけが見えた。前にパーティー会場で見た時と同じで男に向ける表情は優しく、イルミは胸のうちがドロドロとした感情で満たされていくのを感じる。

「私、貴方とどこまでも行くつもりよ」

そんな彼女の言葉に、男は首を振った。どうやら自分の命が狙われているということはわかっているらしく、その表情は憔悴しきっていてお世辞にも魅力的だとは言えない。そうでなくても、イルミにはなぜ彼女がこの男と結婚したのか理解できなかった。彼女くらい素晴らしい人ならもっと上を望めただろう。

そもそもイルミは彼女が人妻だからという理由で諦めていたわけではなかった。実際、幾度か身分を隠して近づいたこともある。しかしどんなに頑張っても彼女の心はあの男のもので、男を殺して彼女を手に入れるのはなんだか負けであるような気がした。

しかしそんな折、男をターゲットとした暗殺依頼が舞い込んで、やはり彼女と自分は運命で結ばれているのだとイルミは確信する。男が死んで悲しみに暮れる彼女に少しずつ取り入っていくのも、それはそれで楽しいだろう。男が死ねばいつか彼女だって自分に振り向いてくれるはずだ。

「……どこまでもって、どこに逃げたって助からないさ。相手はプロだぞ」
「そういう意味じゃないわ」

だが、そのためには彼女の知らないところで男を殺す必要がある。イルミはここ数日、ひたすらにチャンスを伺っていた。もうすぐ彼女が自分の物になると思うと嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

それなのに。

「一緒に死にましょう。殺されるくらいなら二人で心中しましょう」
「……」
「私、貴方とならどこへだって行くわ、もちろんそれが地獄でもよ」

彼女の決心を聞いた瞬間、イルミは身体に電気が走ったような感覚に襲われた。
どこまでもその男を選ぶのか。どうしても自分の物にはならないのか。イルミは今まで生きてきて、こんなに欲しいと思った相手はなかった。それなのにそんな相手に限ってどうしても手に入らない。

しばしの沈黙のあと、男は脱力したようにこうべを垂れた。

「……そうだな、それもいいかもしれない……愛しているよ、なまえ」
「ええ、私もよ」

握りしめた針は外気に晒され、すっかり冷えきっている。イルミは黙って背を向けると、その場を静かに後にした。





「ねぇ、こうやってると出会った頃を思い出すわね」

酒のせいで寒さを感じにくくなっているのか、バルコニーに繋がる扉を開け放した彼女は、空を見上げながら言う。イルミが黙って彼女を後ろから抱きしめると、抱きしめられた彼女はくすぐったそうに身をよじった。

「貴方と結婚して良かった」

くるり、と腰を抱いて半回転させ、正面から彼女と向かい合う。今のイルミは針であの男の顔と声になっていて、まさかそんなことになっているとは知らない彼女はいつもどおりの優しい表情をこちらに向けた。

「……私を先に殺してくれる?」
「いいよ」

残念ながら、男の方はとっくに一人で死んでいる。イルミは男の顔のまま頷くと、しゅるりとネクタイを解いて彼女の目を覆うように結んだ。「どうするの?」少しだけ不安そうな声になった彼女に大丈夫、と囁く。

「見られてると決心が鈍るからさ」
「……私は最後まで貴方のこと見ていたいのに」
「心配しなくてもすぐに会えるよ」

イルミはあやす様に鼻梁に口付けると、自分の変装を解いていく。さらりとした長い黒髪が背に垂れたが、目隠しをされた彼女は目の前にいるのが夫ではないと気がつかないままだった。

「なまえ、好きだよ」

ようやく自分の顔に戻ったイルミは、今度こそ彼女の唇に自分のそれを重ねた。焦がれ続けたその感触に、思わず理性がぐらつく。「……ん、っ」苦しげな彼女の声はますますイルミを煽るだけだった。

「なまえ、やっと手に入った」
「……っ、だ、誰なの?どうなってるの?」

だが、深い口付けをしたことで、ようやく彼女も異変に気がついたようだ。針を取ったせいで、あの男より声も少し高いだろう。彼女は怯えたようにこちらの胸を押して逃れようとしたが、もちろんイルミがそれを許すはずなかった。

「心中しようって約束は守らないとね」
「放して、彼は?彼はどうなったの?」

「死んだよ」

わざと真実を突きつけてやれば、暴れていた彼女はぴたりと動きを止めた。「う、そ……」目隠ししているネクタイが、じわりじわりと濡れていく。

「大丈夫、怖くないよ」

イルミは針を取り出すと、涙を流す彼女のこめかみに深く埋め込んだ。「愛しい相手にはすぐに会えるから」力の抜けた彼女の身体を抱きとめ、優しく頭を撫でる。

「悔しいけどなまえはあの男と死なせてあげる。そういう一途なとこも好きだったしね。だからさ、」

言いながらイルミは彼女の目隠しを取り払い、その顔を覗き込んだ。

「新しい名前は何がいい?」

ゆっくりと瞬きをした彼女はまるでたった今夢から醒めたような表情をしていた。しかし、その瞳の焦点がイルミに合うなり、いつもの優しい笑顔を向ける。

「……なんでもいいわ、貴方がくれる名前ならなんでも嬉しいもの」

好きよ、と呟いた彼女は今度は自分からキスをねだる。もちろんイルミはそれに応え、熱い吐息が互いの口からもれた。

そうして二人で抱き合っていると、外の寒さなんてもうわからなくなっていた。

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