第22回 | ナノ

ある日のことだった。
談話室に置いてあった一枚の絵に俺は言葉を失い、しばらくその絵に魅入っていたのを覚えている。
絵の中の彼女は頬杖をつき、長い睫毛を僅かに震わせて何処か遠くをぼんやりと見つめている、そんな感じ。
憂いというか、焦がれるというか、何とも言えないその横顔がとても綺麗だった。
後に知ったのだが、その絵はペトラさんが描き、絵のモデルはなまえさんなのだとか。
最も、何故オルオさんがその絵を誇らしげに語るのかは気にしないことにしよう。
しかも、語りながらまた舌を噛んでいたし。


「よし!できた!」

またある日のこと、今日は天気がよく、いい訓練日和だ。
そんな青空が広がる空の下で、絵の具やら画材やらに囲まれながらペトラさんが満足そうな表情を浮かべて声をあげる。
今度は何を描いているのか気になって、俺はペトラさんの後ろから絵を覗き込んだ。
頬杖をついて、あの何とも言えない表情で何処か遠くを見つめる彼女の姿に、俺は脳裏にすぐある人物を浮かべる。

「もしかして……なまえさん?」

「え!?分かる!?ちゃんと似てる!?」

「うん、そっくりですから」

ペトラさんが嬉しそうに笑っている。
でも、すぐに周りを警戒してから俺に耳打ちしてきた。

「なまえには内緒にしてね。勝手にモデルにすると、なまえに怒られちゃうから」

描きかけの絵を談話室によく放置してあるから、正直、彼女にバレている気がするのだが。
なんて言いたかったが、ペトラさんがあまりにも真剣な表情を浮かべるので黙っておいた。
ちなみに、何故彼女をモデルにするのか聞くと、ペトラさん曰く綺麗な顔をしているから、らしい。
それに、大好きな友達の絵を描きたいから描くの、なんてことも言っていた。
ふと、絵越しに見える彼女の姿に視線が行く。
未だにぼんやりと遠くを見つめる彼女に疑問が生まれた。
一体、彼女はいつも何を見ているのだろうか。


あれから、暇さえあれば彼女の絵を描くペトラさんの行動に慣れつつあった。
また、その完成された絵を見ることが当たり前になっていたし。
それにしても、いつ見ても絵の中の彼女は笑っていなく、あの表情を浮かべている。
たまには満面の笑みでも描いてほしいものだが、モデルが笑っていなければ当然絵の彼女も笑わない。
別に、普段から彼女が笑わないというわけではないけど。

「あー…焦れったいなぁ…」

今日もコソコソと絵を描いていたペトラさんが、ふと、そんなことを呟いた。
描きかけの彼女は、今日はティーカップをじっと見つめているもの。

「焦れったいって、何が?」

「えー、エレンは気付いてないの?」

呆れたように苦笑いを浮かべるペトラさんにますます意味が分からなくなった。
また質問しようと思ったら、ペトラさんが席を立つ。
どうやら、今日の作業はここまでらしい。


それからというもの、俺は彼女を観察するようになった。
訓練だっていつも真剣に取り組んでいるし、俺に声をかけてくれる時だって絵にはない笑顔を見せてくれる。
それでも、彼女は一人になると決まって絵の中の彼女と同じ表情を浮かべるのだ。

「なまえさん、コーヒー飲みますか?」

訓練が終わったあと、一人外で芝生の上に座る彼女に声をかける。
しかし、返事は何もない。
不思議に思ってもう一度声をかけようと顔を覗き込んだ時だった。
彼女の横顔は耳まで真っ赤に染まっていて、恥ずかしそうな、嬉しそうな、今迄見たことがない表情で自らの唇に指を当てている。
そんな彼女の姿を見た瞬間、ドクン、と俺の心臓が大きく脈打ち、そのままドクドクと忙しない音を身体中に響かせていた。

「あ、……エレン、どうしたの?」

ふと、長い睫毛に縁取られた大きな瞳が俺に向けられる。
先程まであった赤く染まった表情はなかったが、代わりにいつも俺に向けてくれる絵にはない笑顔がそこにあった。
俺は未だに煩い心臓の音に聞こえないふりをしながら当初の用事を思い出す。
それから彼女を芝生の上から立たせようと腕を引っ張った。

「コーヒー、飲みませんか?先輩達がお茶の時間にするからなまえさんも呼んで来いって」

「そっか。わざわざ呼びに来てくれてありがとう、エレン」

まるで小さな弟に礼を言うように彼女は穏やかに笑う。
そのまま俺に引っ張られるまま彼女は談話室まで歩いていった。

「なまえってば、何処に行ってたの?早くしないと冷めちゃうよ」

「ごめん。少し外の風に当たっていたの」

談話室に着くと、彼女はスルリと俺の手からすり抜けてペトラさんの元へ行ってしまう。
俺はとりあえずあいている席に座ろうとしたら、ちょうど彼女の前の席があいていたのでそこに座る。
ペトラさんが淹れてくれたコーヒーに口をつけようとカップを持ち上げた時、彼女の手の中にあるカップに視線がいく。
彼女のカップの中から漂う香りはコーヒー豆独特の香りではなく、フルーティーのような爽やかで上品な香り、それは俺達から少し離れた席でカップに口をつけているリヴァイ兵長と同じ香りだった。
それと同時に、彼女が絵の中と同じ表情で何処を見つめていることに気付く。
彼女の視線の先にいるのはいつもリヴァイ兵長だったことに。

「おーい?エレン?話聞いてる?」

気がつけば、ひらひらと俺の顔の前に手を振りながらペトラさんが声をかけていた。
俺は慌ててペトラさんに向き合うが、ペトラさんは彼女とリヴァイ兵長を交互に見てから溜息をついている。

「ちゃんと話を聞いてないと駄目だよ」

「はい…すみません…」

苦笑いを浮かべるペトラさんに謝れば、優しいペトラさんはすぐに許してくれる。
それからペトラさんが何か言いたそうな表情を浮かべたが、何も言われることはなかった。
ちなみに、彼女の紅茶はペトラさんが淹れたものではなく、リヴァイ兵長が淹れたものらしい。
その日から、彼女を見ていると心臓が苦しくてたまらなくなった。
訓練で傷だらけになったり、実験で巨人になったり、彼女は俺の身体に異常がないかいつも心配してくれる。
俺の名前を呼んで、ふわりと笑みを浮かべて、そのたびに俺はドキドキして。
でも、脳裏に焼きついて離れないのは、あの耳まで真っ赤に染まった彼女の横顔。
初めて感じるこの心臓の痛みに、俺はどうすればいいのか分からなかった。


「ペトラさん、オルオさんが呼んでますよ。……ペトラさん?」

オルオさんにペトラさんを呼んでくるように頼まれ、ペトラさんの部屋の扉をノックするが、全く返事が聞こえてこない。
もう一度声をかけ、返事がないことを確認してから扉を開けた。
扉の向こうには部屋の主はいなく、俺は諦めて別の場所を探そうと踵を返す。
しかし、ふと、机の上に置いてある絵が気になって、悪いとは思いながらも部屋の中に足を踏み入れた。
机の上に置いてあったのは、以前、ペトラさんが描きかけのまま終わらせた彼女の絵。
でも、その絵に描かれていたのは彼女だけではなく、紅茶を飲みながら、遠くから彼女に視線だけを向けているリヴァイ兵長の姿もあった。
その絵が何を意味するかなんて、愚問だ。

「……あれ、俺、なんで、」

泣きたくなんかないのに、泣く意味もないのに、自分の頬を伝って涙が流れていく。
一粒、二粒、涙はどんどん増えては重力に従って落ちていった。
それと同時に感じる心臓の激しい痛みに、胸が張り裂けそうで、今迄に体験したことがない感情に頭がおかしくなりそう。

「エレン?何してるの?」

突然扉を開けて入ってくるペトラさんの姿に、俺は服の袖で慌てて涙を拭う。
それから急いで絵を机の上に戻し、ペトラさんに向き直った。

「オルオさんがペトラさんのことを呼んでたので、その、ここにいると思ったから、あの…」

自分でも何を言っているか分からないぐらい、言葉がめちゃくちゃだ。
でも、ペトラさんはすぐに理解してくれたようだ。
それと同時に、俺が何を見て、何を思ったのか、ということも。

「なまえとリヴァイ兵長はお互いに惚れていたんだよ。周りが焦れったく思うぐらいね。ずっと前から」

ペトラさんの言葉にまた心臓が悲鳴をあげる。
本当は分かっていた。
でも、分からないふりをした。
絵の中の彼女の表情は、リヴァイ兵長に恋焦がれていたが故のもの。
そして、あの日、彼女の真っ赤に染まった横顔は、リヴァイ兵長と何かあったのだろう。
だって、あの日から彼女は絵の中の彼女と同じ表情をする日がなくなったのだから。

「俺、いつのまにか、なまえさんのことを好きになってた…」

ずきずきと痛む心臓を握り潰すように胸を強く押さえる。
きっと、これが失恋というものだろう。
恋というものを一度も経験したことがないから分からないが、たぶん、この気持ちは一生分に相当する気がした。

「知ってたよ。エレンがなまえのことを好きになっていたことを。それに、きっかけは私が作っちゃったことも」

ふと、窓の外から声が聞こえてくる。
見なくてもリヴァイ兵長の声だということは分かるが、俺はなんとなく外に視線を向けた。
リヴァイ兵長が一緒にいた彼女の髪にそっと手を伸ばして触れている。
彼女はあの日のように顔を真っ赤に染めながらも、リヴァイ兵長に幸せそうな笑顔を向けていた。

「もしも。もしもの話です。俺が、リヴァイ兵長よりもずっと早く、なまえさんと出会っていたら、何かが変わっていたと思いますか?」

ペトラさんにこんな質問をしたところで、ペトラさんを困らせるだけだ。
頭の中では分かっているけど、聞かずにはいられなかった。

「……分からない…分からないよ」

しばらく沈黙したあと、ペトラさんは苦しそうに答えを返してくれた。
確かに、それが普通の答えだと思う。
俺は窓から離れ、部屋の扉に向かって足を向ける。
扉を開けようと手を伸ばした時、ペトラさんがもう一度口を開いた。

「でも、たぶん、変わらなかったと思う」

ペトラさんに振り向けば、ペトラさんがしっかりと俺を見据えている。
その真剣な瞳に、俺は何も言えなくなった。

「なまえはね、どんなにかっこいい男の子に言い寄られても、リヴァイ兵長しか見てなかったから。だから、エレンには悪いけど、きっと…」

言葉を選んでくれたみたいだけど、実際には俺の心には刃のようにグサッと突き刺さる。
悔しいけど、悲しいけど、これで分かった気がした。
俺は、リヴァイ兵長に恋焦がれていた彼女が好きだったから、俺に簡単に振り向いてしまう彼女は俺の好きな彼女ではない。
なんだか矛盾している気がするが、たぶん、これが正解なのだろう。

「それなら、よかった」

ぽつりと溢れた言葉に、ペトラさんが表情を歪ませた。
俺は部屋を出ようともう一度扉に向き直る。
部屋を出る直前、ペトラさんが遠慮がちに質問をしてきた。

「なまえに気持ち、伝えるの?」

その質問に、俺は首を横に緩く振る。
それから今度こそ部屋を後にした。
扉が閉まる直前に聞こえた、ペトラさんの、ごめんね、という言葉を聞こえないふりをしながら。


初めて彼女のことを意識したのは一枚の絵だった。
絵の中の彼女は頬杖をつき、長い睫毛を僅かに震わせて何処か遠くをぼんやりと見つめている、そんな感じ。
憂いというか、焦がれるというか、何とも言えないその横顔がとても綺麗だった。
その視線の先にはいつもリヴァイ兵長がいて、俺に視線が向けられることは一度もない。
きっと、俺が彼女に向けていた表情は、絵の中の彼女と同じものだったと思う。
好きです、大好きです、俺だってなまえさんのことを誰よりも想ってます。
伝えたかった言葉は胸の中にしまって、二度と溢れないように心に鍵をかける。
我儘を言えば、俺は今すぐにでもリヴァイ兵長から彼女を奪い去ってしまいたい。
欲しくてたまらない。
でも、初恋は叶わない、よくある話。
だって、あの二人の間に俺が入る隙間なんてないから、これからもずっと。



純白の傷口

初めて感じたこの気持ち。
あなたがくれた初恋は、苦しくて、苦くて、切なくて、どんな深傷よりも痛い、悲しみの刃のようでした。

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