第22回 | ナノ

 怖い。見慣れたはずなのにそう思ってしまうのは彼がこの世のものと思えないくらい美しいからだ。
 わたしの眼前の彼は風間千景。西の鬼の里の頭領である。
 金糸の髪は絹のように滑らか。整いすぎている顔立ちは作りもののように綺麗で、はめ込まれた紅玉の瞳は凍てつく氷のように冷たくて、発する言葉はどこまでも冷淡で。それでも惹かれてしまうのは彼の血に――純血の鬼の血に――魅せられているからだろう。
 わたしはみょうじなまえ。みょうじ家に生を受けた女鬼だ。
 みょうじ家は風間家に並ぶ良家である。純血の女鬼が生まれやすい家系で、数は少ないものの貴重な女鬼を排出してきた。そんなわたしも純血だった。
 しかし、純血とは名ばかりのもの。わたしは鬼の中では下の下。何もかもが劣っていた。力は弱く非力、他の鬼よりも脆弱で貧相。
 けれども女鬼は貴重なためずいぶんと大事にされてきた。
 彼の許嫁になったのはわたし以外に里の頭領に相応しい女鬼がいなかったから。
 仕方のないことだった。
 女鬼は純血を産む道具。純血の女鬼なら尚更だ。
 これは里の存続のため。ただ一族の血を絶やさないために必要なことだった。


* * *


 あれは一年前くらいだろうか。わたしは千姫の立っての申し出で京へ上った。
 わたしの体が弱いとはいっても人間より遥かに丈夫で健康だ。
 京までの道のりが険しくないといったら嘘になるだろう。しかし、それでも京に行きたかった。友でもあり理解者でもある千姫に会いたかったのだ。
 千姫はいろんなことを教えてくれる。一族という牢獄に繋がれているわたしに一時の安らぎをくれる。息をつかせてくれる。そのことに感謝していた。
 そんな京での滞在時、休憩で立ち寄った茶屋で匂い袋を落としてしまい、それを親切にも届けてくれた者がいた。見目も何もかもが平凡で凡庸な男だった。
 わたしは人間を快く思っていなかった。幼い頃から鬼と人間の諍いや争いを聞かされていたからだ。偏見を持つのは仕方のないことだった。
 届けてくれたことは有り難かったが、それ以上の感情はなく、下降するばかりのそれを押し留めるのが精一杯で、男には素っ気ない謝辞しか述べなかった。
 だが、その日を境に男と会うことが多くなった。それが偶然なのか必然なのかは分からない。しかし、会わないようにしていても会ってしまうのだから成り行きに任せるしかなかった。そうしていくうちに自然と男の人となりを知るようになっていった。
 男はやさしかった。あたたかくてぬくもりに溢れていた。
 人間は汚いと教えられてきたのに。その考えは健在だけど、彼だけは違う。そう思ってしまうくらいに男は魅力的だった。惹かれていることに躊躇いつつも想いは募るばかりだった。
 京を離れる日、男が簪をくれた。俺を思って大事にしてくれと、もし京に来るときは知らせてくれと。その言葉を理解できないほど子供ではなかった。わたしは小さく返事をして簪を受け取った。
 その日から簪は宝物になった。寂しいときや悲しいときに一目見るだけで慰めになった。男が支えてくれているような気がして毎日が幸せだった。
 だが、幸せは長くは続かなかった。しばらく里を離れていた許婚の風間千景が戻ってきたからである。
 わたしが少し目を離した隙に彼は簪を弄ぶように優雅な仕草で触れていた。わたしは一気に蒼白になった。
「どうした、なまえ」
「千景、さま」
 彼は小さく笑うと指先で簪を揺らした。
「ああ、これか。お前が大事にしていると小耳に挟んだから見に来たまでだ」
「小耳……」
 簪を人目につくところで出したことはない。おそらく彼はわたしに監視をつけていたのだ。一応わたしも鬼の端くれ。気配には敏感なほうだが、彼の監視役は隠密に長けていたらしい。いつから監視をつけられていたのか。考えるだけで恐ろしい。
「顔色が悪いぞ」
「っ」
「俺がこれを手にしているのが気に入らないか」
「……ちが、そんな、」
 彼は笑んでいた。目は笑っておらず、口元だけが弧を描いている。
「似合わんな」
 彼の腕がわたしに伸びた。手にしていた簪を髪に刺したのだろう、それを見た彼は顔を歪めてみせた。
「違うか?」
「、」
「なまえ」
「わ、わたしは…」
 彼の目にわたしが映っている。今にも泣き出しそうな顔だ。
 震え出しそうな声を呑み込んでそっと息をつく。凍てつくような眼差しに恐怖を覚えるけれど、目を逸らしてはいけないような気がして、ただただ彼の視線を受け止めた。
「お前は誰のものだ」
「千景様のものです」
「ならば、分かっているだろう」
「……」
「お前は俺だけを見ていればいい」
「……」
「他に気をやることは許さん。お前は俺のものだ」
 その瞬間、耳元で乾いた音が鳴った。簪の折れる音だ。簪だったものが音を立てて飛散する。原型を留めないそれは今の彼とわたしの心情を象ったように見えた。
「次はない」
「、」
「次はそうだな。お前が俺しか見ないようにしてやろう」
「ちかげ、さま」
「奥に閉じ込めて逃げぬように繋ぎ留めるのはどうだ? 面白いと思わんか?」
「っ」
「お前も知っているだろう。俺は気が変わりやすい」
 その言葉にわたしの肩がびくりと跳ねる。
「それを忘れるな」
「……、はい」
 どんな言葉を浴びせられても嫌いになれない。大切な簪を折られたのに憎いとも思えない。
 わたしの中に流れている血が彼を求めてやまないのだ。欲しい欲しい欲しい、と奥底から呪いともつかないものが溢れてくる。
 あれだけ慕っていた男への情が薄らいでいく。顔も薄ぼんやりとしか思い出せない。
 わたしの頬にあたたかいものが流れる。
「ちかげさま、ちかげさま」
 心が苦しい。全部涙といっしょに流れてしまえばいいのに。そう思いながら彼の名を呼んだ。
 わたしは彼から逃げられない。それを刻み込むように静かに嗚咽を洩らした。

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