第21回 | ナノ
 壁にかかった時計を見上げて安室はそっと息を零した。そろそろなまえが帰ってくる頃だ。
 依頼を受けた調査資料をデスクに伏せると、パソコンで作成していた文章を保存した。スリープ状態にし、画面から目を離して天井を仰ぐ。
 見慣れたそれは染みひとつないもので、けれども視界がぼやけているのは長時間画面と睨み合っていたからだろう。思っていた以上に目が疲れているようだ。
 眉間を指で押さえて軽く息をつく。適度に休憩を挟んでいたつもりだが、あまり意味をなさなかったらしい。自嘲しながら苦笑した。
 しばらく(とはいっても数分程度だが)目を閉じて疲れた目を休ませた。
 だいぶ楽になり、閉じていた目を開けてもう一度時計を見る。夕飯の準備をしなくてはと小さく零して腰を上げた。もちろん、向かう先はキッチンだ。
 ここは自宅。米花駅から徒歩十分、スーパーから徒歩五分の距離にある高層マンションだ。セキュリティーは万全で内装もしっかりしており、最新の設備がフル完備されているため、便利で快適な暮らしを送れている。
 元々は安室ひとりで暮らしていたのだが、半年前に小学一年生の少女を引き取り、それからはふたりで生活している。
 少女はみょうじなまえ。安室の恩師の娘だ。その恩師が不慮の事故で亡くなった。天涯孤独ということもありなまえの引き取り手が見つからなかったのだ。そのため、施設に送られることになったのだが、それを知った安室がなまえを引き取りたいと申し出たのである。
 こうしてふたりで暮らす前からなまえと安室は顔見知りだった。恩師に世話を頼まれていたというのもあるが、なまえが安室になついていたのだ。だから、引き取ってからも関係は良好で、むしろ本当の兄妹のように仲が良かった。特に問題という問題は起きていない。
 だが、強いて不満を上げるとするなら、なまえが我が儘を言わないことくらいだろう。
 なまえはよく笑い、よく遊ぶ子供だ。好奇心旺盛で、読書好きで。友達もたくさんいるようで、休日になると遊びに出かけていく。少々男勝りなところもあるが、手のかかることはないため安室自身は正直助かっていた。
 しかし、安室が驚くくらいなまえは聞き分けがよかった。いや、よすぎるくらいだ。
 安室の手を煩わせまいと我が儘は言わないし、欲しいものがあっても遠慮したり諦めたり、笑って誤魔化したり。そういうところは可愛くないと思ってしまう。もっと甘えろと言ってもその場しのぎで頷くだけで、甘えてくることはほとんどなかった。
 それでも唯一我が儘らしい我が儘を言うのがごはんのことだ。とはいっても、オムライスが食べたいとかハンバーグが食べたいとか、そんな細やかなものだ。我が儘の中に入らない我が儘だが、それを叶えたいと思ってしまうのだからずいぶんとあの子供に気を許しているなと思う。それだけなまえを気に入っているのだろう。
 安室は探偵だ。なまえも安室が探偵だということは知っているし、どういった仕事なのかも幼いながらに理解しているだろう。
 しかし、それは表向きの顔。探偵は隠れ蓑に過ぎず、裏の顔はある組織に所属する構成員のひとりで、コードネームはバーボン。主任務は組織が注意している人物等の調査だ。そのため探偵というそれは大いに役立っている。
 当然だが、安室が組織に所属していることをなまえは知らない。目につくところに関連のものは置いていないし、痕跡を残すようなヘマはしないため小学生にバレることはまずないだろう。
 万が一にでもバレるようなことがあれば、口封じのために殺すしかないのだが、なまえは恩師の娘だ。憎からず想っているし、手にかけるのは忍びない。だからこそ、隠し通さなければいけない。彼女に裏の顔を知られるわけにはいかないのだ。
 そんなことを思考しながら安室はエプロンを身に付け、夕飯の材料を用意する。そして手早く丁寧に野菜や肉を切り分けていく。
 室内にはエアコンの稼働音のみだ。それに合わさって、とんとんとんという包丁の音が響き、時折水道水が流れる音が辺りを静かに震わせた。
 すべての材料を切り終えると、必要な調味料を合わせて、それから材料を炒め、適量の水を加えて煮込み、調味料と合わせて弱火で十分煮込んでいく。その間に付け合わせの野菜サラダと特製のドレッシング、みそ汁を作り、十分経った頃にはメインの肉じゃがの完成だ。
 辺りに肉じゃがのにおいがほんのりと漂う。においからしてなかなかの出来だろうと思いつつ味見をしようかなというタイミングで、玄関のロックを外す音が聞こえてきた。おそらく、なまえが帰ってきたのだろう。と同時にリビングの扉が開いた。
 ひょっこりとキッチンに顔を出したなまえが「ただいま、安室さん」と声をかけてくる。安室は「おかえり」と返して微笑んで見せた。
「肉じゃが、作ってくれたんだね」
「食べたいって言ってただろ」
「う、うん」
「もうすぐ出来るから荷物を置いて手を洗っておいで」
「はぁい」
 ぱたぱたと自室に走っていくなまえを横目に安室は目を細めた。
 最近のなまえは表情が豊かになったように思う。注意深く見ないと分からないところもあるが、それでも以前と比べれば雲泥の差だ。
 その変化に気付いたのはひと月前。それまではよそよそしいというか、ぎこちないというか。無理やり笑顔を作っている、笑いたくないのに笑っている、そういった表情が多かったように思う。
 だが、今はそんなことはなく、見せる笑顔は心からのものだ。笑っているときも本当に楽しそうで、年相応の笑顔を返してくれる。
 だからだろうか。彼女が本当の意味で自分に心を許してくれたことを素直に嬉しいとかんじてしまうのは。
 安室はお玉を持ったままぼうっとしていた。思考を巡らせながら鍋の中の肉じゃがを見るともなしに凝視していると、なまえに名前を呼ばれていることにようやく気づく。そこで更けていた思考が中断した。
 とはいえ、中断しても脳裏には映像が浮かんだままだ。それに意識が移りそうになるが、なまえに服の裾を引っ張られたことで我に返ることが出来た。
「ねえ……安室さん? 大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。……考え事をしていたからかな、ぼんやりしていたみたいだ。ええと……お皿を用意してくれるかい?」
「うん」
 なまえは頷くと食器棚から皿を取り出してくれた。それに盛り付けて一緒にテーブルに運ぶ。ふたりで席に着いたところで、いただきますと手を合わせた。なまえはさっそく肉じゃがに箸をつけると、一口サイズのじゃがいもをぱくりと頬張った。
「どうだい?」
「おいしいよ。すっごくおいしいっ」
「それはよかった」
 なまえに倣って安室も肉じゃがに箸をつける。それを口に運び、味わいながら咀嚼した。絶妙な味付けに我ながらなかなかだと内心で自画自賛する。
 夕食の合間に話を交えながらなまえが学校のことや友人のことを語り、安室が相槌を打ちつつ、時折言葉を挟む。そんな和やかな夕食を続けた。
「安室さんのごはんって全部おいしいけど、肉じゃがが一番好き」
「へえ」
「……お父さんの味と似てるからかな。やさしい味がする」
「それは光栄だな」
「?」
「実はね、この肉じゃがは先生のレシピなんだよ。僕なりのアレンジを加えているけど、味付けはそのままだから……似てるのはそのせいだろうね」
「お父さんのレシピ?」
「そう。僕も先生の肉じゃがが好きだったんだよ。初めて食べたときは衝撃を受けてね。だから自分でも作ってみたくなったんだ。でも、何度練習してもなかなか先生の味にならなくて……。あれは苦労したなぁ」
「ふぅん。安室さんならなんでも出来そうなのに」
「君は僕を買いかぶりすぎだよ」
 安室は大袈裟に肩をすくませて見せた。
「僕にも出来ないことはあるさ」
「そうかなあ……。そんなことなさそうなのに」
 その言葉に安室は苦笑する。
「こうして君に先生の味に似てるって言ってもらえて嬉しいよ」
「え……」
「君はおいしそうに食べてくれるしね」
「え、と……。わ、わたしも……お父さんの味の肉じゃがが食べれて嬉しいよ。ありがとう、安室さん」
「どういたしまして」
 やわらかい雰囲気に安室は笑みを浮かべた。なまえは頬を赤くしている。その様子からして照れているのだろう。俯きながら食事を再開したのは照れを隠すためかもしれない。それがとても可愛く映った。
 緩みそうになる口元を必死に堪える。こんなにも穏やかな気持ちになれるのはきっとなまえの前だけだ。
 安室は内心で深い溜め息をつきながらなまえを盗み見る。
 恩師の忘れ形見を引き取ったのは義理立てに過ぎない。恩を返したかっただけだ。
 なのに、情が沸いてしまった。一緒に暮らしているうちに愛しさが芽生え、自分の中でなまえは守るべき存在になっていた。その隣が自分の居場所で帰る場所になっていた。
(……本当に参ったな、)
 これはいよいよ裏の顔は絶対に見せられない。なまえを守るためには隠し通さなければいけない。
 厄介なことだと思うけれど、別段不快にはかんじない。むしろ幸せな心地だった。
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