第21回 | ナノ
 ヒールが折れた。朝、出勤している途中の事だった。会社まであと少しの所で、細い路地をもうスピードで走ってくる車を避けようとしてのことだ。驚いていた私は後ろを確認する余裕なんてものはないから、見事に右足のかかとの部分が側溝にはまってしまったのだ。長いことお世話になっていたパンプスだったために、それなりにショックは大きかったものの、私は今日すこぶる機嫌が良かった。


 中学時代の同級生であった寿嶺二とは、三年前ひょんなことから再開し、今となっては同棲するまでの仲となった。しかし、彼は再会した当時から、一般のサラリーマンでも学生でもなくアイドルとして名前を売っていた。寿嶺二という名前を画面で見ない日は無いと言う程の売れっ子具合だ。そんな彼が、久々の休みだということで今日一日は家にいるという。決まった時間に出勤、退勤する私とは違い、彼は朝早いときもあれば夜遅い時もある。そういう仕事についている人だった。だから私との生活リズムは異なり、一緒に過ごせる時間も一週間で一握りであった。そんな彼が一日中家にいるという。残念なことに私は一日仕事があったが、それでもいつもの時間に退勤すれば夜には十分時間が取れるだろうという予定なのだ。


 もう一度言おう、私はすこぶる機嫌が良かったのだ。お気に入りのパンプスのヒールが折れたことも気にならないくらい。そう、会社のロッカーにしまってあった予備のパンプスを外回りでびしょびしょにされても、コピー機の調子が触ったとたんに悪くなっても、部長に嫌味なことを言われても、私はそれを全て笑顔で流せるだけの心の余裕があったのだ。後輩が、泣きながら私の元へやってくるまでは。

「みょうじさん……」
「ちょっと、どうしたのよその顔」
「明日の企画書、プリントアウトしようと思ったらデータ消えちゃいました……」

 後輩のその言葉に一瞬私の頭のデータまで消えたのではないかと思った。つまり頭が真っ白になったのである。「どうしましょう」という尻すぼみになる後輩の声を聴いてやっと我に返った私は、すぐに自分と後輩のパソコンのバックアップを確認する。しかし、プリントアウトをしようとしてデータを消去してしまうような後輩がバックアップを取るなどという行動をするはずがなく、後輩のパソコンにはデータの欠片すらない。私の元にバックアップはとってあるものの、私の元には私の分のデータしか残っていないのである。
 つまりそこから後輩が付け足した個所は全て書き直しということになってしまう。退勤間際、すでに私は帰り支度を始めていたころのことだった。

『ごめん、今日早く帰れそうにない』

 今朝、いつも睡眠時間の短い嶺二をたっぷり寝かせてあげようと思い、声を掛けずに家を出てきた。書置きに今日は早く帰れそうだという旨を書いて。だからだろう、お昼休憩の時間に届いていた『じゃあ今日は夕ご飯を一緒に作ろう!』というメールが届いていた。それを糧に今日一日乗りきるつもりだったのだけれど、踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだと、ため息をついた。
 右手に握っていた携帯が震える。画面には新着のメールが一件の文字。『おっけー! じゃあ嶺二くん特製シチュー作って待ってるよん』彼の明るさに救われたものの、そのご飯にありつくまでどのくらいの時間がかかるのだろう。今まさに帰る予定だった私は途方もない時間に思えてしまう。
 落ち込んでいる暇はないとパソコンに向かうが、あまりの量にさらに落ち込んだ。しかし、自分よりも滅入っている人間がいるとどうもやる気の出る性格らしい。数分後には「泣いてないで手を動かす!」なんて、後輩に向かって言えるくらいには回復したのだから。自暴自棄になっているだけなのかもしれないが。泣きたいのはこっちのほうだ。



「お、終わったー!!」
「ありがとうございます……! 本当に本当にありがとうございました!!」
「もういいから。今度はなくさないでよ?」
「はい!!」

 それから数時間。やっと完成までたどり着けた。自分たちにしては頑張った方だと思う。日付はとっくに超えてしまっていた。二人してくたくたな顔をして会社から出る。もう人ひとり残っていなかった。
 会社の前で方向の違う後輩と分かれて、帰宅路へつく。急いで帰るという選択肢は私には残っていたなかった。今から急いで帰ったとしても、ご飯を食べてお風呂に入って寝るだけだ。嶺二とゆっくりと過ごすという夢は叶わなくなってしまった。彼はもう寝てしまっただろうか。明日の朝も早くから仕事が入っているとしたら、きっともう寝てしまっている。
 今日の朝はなんてことなかった片方折れたヒールも、今になって響いてくる。「もう、最悪」口から出てくるのは、そんな悪態とため息ばかり。俯いて歩く私の足元を、車のランプが照らした。また、水をひかっけたれるのか、と身を引いたところで、その車が路肩に止まる。

「へい、かーのじょ」

 窓から顔を出したのは、何度も思い浮かべていた嶺二だった。

「……古いよ、嶺二」

 本当はほっとした。まさか嶺二が迎えに来てくれるなんて思ってもみなかったから。けれどそれを表に出すことは憚られて、さらに気が滅入ってしまってもいたもんだから、つい悪態をついてしまう。そんな私の様子に気が付いてか、嶺二はいつものように微笑んでいた。
 助手席のドアを開けて乗り込む。

「先に寝てても良かったのに……」
「えー! いっつもなまえちゃんに、おかえりって迎えてもらってるからそのお返しだと思ってたんだけどなー」

 わざとむくれて見せる嶺二にこちらも笑顔になる。何だか今まで落ち込んでいた気持ちが掬い上げられるようだ。そこが彼の良いとこなのだといつも感じる。「ごめん」と笑えば、「ノンノンノン! 違うでしょー、なまえちゃん」といつものテンションで返されてしまった。

「ありがとう」

 疲れた顔を何とか隠して、飛び切りの笑顔を作る。
 膨れっ面から、一転。優しい笑顔を見せた嶺二は私の頭に手を伸ばす。これは、私を甘やかす時の顔だ。いつものおちゃらけた態度とは打って変わって、二十五という年齢を重ねてきた男の顔をする。伸ばされたてのひらは、数度、私の髪を梳いた。

「おかえり、今日も一日お疲れ様」

 隠していた疲れも、張っていた気も、全て溶かされて解される。ボロボロと零れ落ちた涙に、苦笑いをして嶺二はもう一度私の頭を撫でた。それから、車をゆっくりと発信させる。

「じゃあ、かえろっか」

 今日のシチューは、いつもよりもしょっぱそうだ。
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