第21回 | ナノ
温かいにおいがして、目が覚めた。カーテンの向こうはまだ薄暗い。時計を見ると5時半。隣で寝ていたはずの温度がいつの間にかなくなっていて、少しだけ、少しだけ不安になる。暗くて冷たい寝室は、こんなにも人を心細くさせてしまうらしい。下着にキャミソール一枚という真冬には非常に不適切な格好のわたしの肌は鳥肌がそりゃあもうすごいことになっている。ふざけている。なんでもいいからと、手に取ったTシャツとパーカーを着ると、20センチしか変わらないわたしと彼の身長差もかなり大きいものになってしまったような気がした。やっぱり男の子なんだな、なんて。

寝室と同様、暗くて冷たい廊下の突当りにはオレンジ色の淡い光が見えた。趣味のいい彼が気に入っているリビングの照明。温かいその光に惹かれるように、ペタペタとはだしの足が進んでいく。近づくにつれて聞こえるぐつぐつと何かを煮込む音に混じって、鼻歌が聞こえた。とても小さい声だけどはっきりと聞こえる。最近はクリスマスが近いからAll I want for Christmas is you。わたしを起こさないように小さくしているんだろうと思ったら、自然とにやけてしまう。思い込みすぎかもしれないけれど。

「何してるの?」
「…こんなに朝早くからなまえが何してんの?」
「和成君をいきなり後ろから抱きしめてみよー計画その1の実行。」
「それ、その2は期待できんの?」
「どうだろうねー」

 こっそり近づいて驚かせようとしたけれど、ホークアイをもつ彼の目にはお見通しだったようだ。「なまえはホークアイがなくても見つかるのだよ」なんて彼の奇天烈な友人に言われたことがあるけれど、わたしは決してそんなことはないと信じている。一応何故か問うてみると、動きがうるさいから、らしい。なかなかに心外である。

「クリームスープ?今日はなんかの日だっけ?」

 和成の腰に手を回したまま、横から顔をのぞかせる。ゆっくりと、でも彼は手を休めることなく鍋をかき混ぜている。和成がこのスープを作るのはたいてい、○年記念日とかわたしの誕生日とか、仕事で大きい仕事が終わった日であるとか、なにかとお祝い事がある日だ。はて、今日は何かの記念日だっただろうか。

「なまえ―。もうすぐできっから、テーブル準備しといて。」

 わたしの質問に答えるつもりはないらしい。こういう時の彼は何を聞いても答えてくれないことは知っている。「はーい」と少しふてくされて返事をし、色違いのランチョンマットを敷く。わたしが青で和成がオレンジ。きれいにスプーンとフォークを並べたところで、おそろいの食器に入ったクリームスープのお出ましだ。いつの間に作ったのかおいしそうなスコーンまでついている。もちろん焼きたて。それとポットに入れたコーヒーまで用意してある。ほんとうに我が彼氏様はハイスペックすぎてわたしが恥ずかしい。

 クリームスープはいつも通り野菜がたくさん入っていて、冷えた身体も文字通り芯から温まる。おいしい。わたしがウィンナーを好きなことを知っているから、少し多めに入れてくれる。そしていつも一匹だけ、

「あった。たこさんウィンナー。」
「もちろん、忘れねーよ?」
「さっすが和成くん!」
「そりゃどーも。」

 空はだんだん明るくなってきていたけれど、カーテンはまだ開けなかった。オレンジ色の照明だけのほうが、暖かい気がした。世界でこのアパートの一室だけが異空間みたいで、わくわくしたかったのかもしれない。秘密基地に隠れるように。ひっそりと。

「でも、どうして今日これ作ったの?」
「なんでだと思う?」

 いたずらをしかける子供みたいに、茶目っ気たっぷりで言う。でも今日は何かだいじな予定があったような気はしないし。なんだろう。

「わかんない。」
「ちゃんと考えろよー?」
「わかんないよ。和成の誕生日はもう過ぎたし、わたしの誕生日でもないし、記念日でもない。全然思い浮かばない。」

 和成がいくらマメな男だと知っていたところで、初めて手をつないだ日とか細かい日にちまで覚えているような気持ち悪い奴じゃないことくらいは分かる。なんだろう。なんだろう。

「まっ、わかるわけねーか。」
「もー、一体何?」

 まあまあ。そう言ってスープを食べ続ける和成は相変わらず上機嫌でこれは何か企んでいるなと眉間にしわが寄ってしまう。静かな空間に二人がスープをすする音が響く。鼻歌は聞こえない。

「なまえ。」

 名前を呼ばれて顔を上げると、はにかむように笑う和成の顔。彼はたしかに悪戯好きで笑い上戸で、たまに何考えてるかわかんないくらい真剣な表情を見せたりする。今はそのどれもを混ぜ合わせたような複雑な表情で、わたしまで複雑な表情をしてしまうそうになる。ああ、夫婦ってこういう風に似てくるんだな。同棲してると、ちょっとしたしぐさがお互いに移るようになる。これは世のカップルもそうなのだろうか。

「なあに?なんか企んでるのー?」
「企んでんの。」
「和成の考えてることがわからん!」
「ははっ!おもわくどーり。」

 そう言って机の下に隠れていた和成の手が、にゅっと伸びてきてわたしの鼻先に付きそうなほど近くて一瞬何が何だかわからなかった。それでもわたしは驚くというよりも先に涙が自然と出たてしまった。ああ、幸せってこんなにもあったかい。

「結婚、しよーぜ。」

 見せられたのは小さなダイヤが控えめに光るエンゲージリングだった。涙が止まらないわたしに泣くなよ、と顔を指でぬぐってくれる。こんなに優しい彼だから一緒に暮らそうと思ったし、その優しさのあまり彼が苦しくならないように支えてあげたい。

「で、返事は?」
「…毎日、和成のクリームスープが飲みたい。」
「…ははっ!さいこー!!」

 今日はそういう記念日になる予定だから和成はスープを作ってくれたんだ。さっきびっくりするくらい複雑な表情をしていたのも、きっとこういうことだ。朝が冷たい季節になっても、わたしたちをつつむ温度はいつも出来立てのクリームスープみたいにあったかい。不安なんてあまりにも簡単に消してしまうんだから、きっと。
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