臨也さんに出会ったのは、いくつかの偶然が折り重なった、ある晴れた夕方だった。深い仲にはなれないと常々危ぶんでいる友人に連れられて、金魚のフンみたいに彼女たちの後ろを歩いていたとき。どうしてそこにいたかと言えば、たぶんそのあとに買い物に行こうとか、カラオケに行こうとか、そういう約束があったからだった。そうでなければ、わたしが彼女たちの淑やかとかけ離れた笑い声の後方で、とぼとぼ歩いているわけがなかった。 喧騒を抜けて路地へ入ると、待ち構えていたような、偶然出会ったような、そういう表情の見えない男性が、彼女たちを迎えた。ああ、そうか。迎えた、という表現がひたりと寄り添うのだから、やっぱり待ち構えていたのだろう。今思えば、と付け加えるほかないのだが。 「あっ、臨也さん!」 彼女たちの中心にいる別のクラスの女の子がいちばんに声を上げる。周囲の女子たちは、彼女をせっつくように、ほらほら、と顔中に笑いを湛えていた。私は、ああ、とだけ感じ、靴の先を眺めた。新しいローファーが欲しいのだけれど、もう今月はお金がない。 「やあ、久しぶりだね」 男性は、成人していること以外に年齢を報せる要素を持っていなかった。若く見えることには見えるが、きっと彼は十年二十年経とうとその美しさを保てそうに思える。ローファーに落としていたはずの視線は、その美しく滑らかな引力を持つ声につられて上げざるを得なかった。そしてそれは、当たり前のように私の視線と心臓を奪い取り、容易く掌握した。 「ちょうどお会いしたいと思ってて、あのぅ、甘いものはお好きですか?」 「うん。嫌いじゃないかな。どうして?」 「これ、あっ、たまたまですよ? 作ったら、余っちゃって! もしよかったら、貰っていただけたら、いいなって」 聞こえぬわけもないのに、周囲の目障りなほどの応援を一切無視して、男性は少女の手に乗る綺麗にラッピングされたお菓子を受け取っていた。まさか、女子高生がホストに嵌るわけもないが、その動作はどこか機械的、事務的なような穿った見方が出来てしまう。とりわけ魅力的なのはその笑顔で、怜悧な面が隠せていない、またはすこし露わにさせているところが、少女の、視線を離さないのだろう。 「そう、ありがとう。今日は、他に用事はあるかい?」 女の子の煌めいた目をものともせず、手にすっぽりはまる袋を、ゆったりとした動作でポケットへ入れた。 「え、いや、ちょっとだけ、会えたらなって思っただけで、大丈夫です」 「ふうん。じゃあ、またね」 「あ、はい、また!」 そうして鋭い視線をすべての子どもに分け与え、内側へ蛇を滑り込ませるかのような手法で、『いざやさん』という存在を刷り込んだ。到底白蛇には思えないのだけれど、それでも後々彼女らに説かれる『いざやさん』の存在は神と崇め讃える様なそれだった。 赤い目をした蛇は、私の心臓をぐるぐると締め付け、しかし口を開かない。 「あ、これ。なまえちゃんにもあげるね」 かわいらしくラッピングされたチョコクッキーを、帰り路を辿りながら食む。レシピ通り作れば、これくらいの味は女子高生なら当たり前に出来るだろう。けれど、喉を刺激する甘味が訴え来るのはそんなことじゃない。噛み砕いた破片を嚥下、腹にたまったそれは正しく生命の経路に則り分解、吸収、排出される。それは何も、私にだけ限ったことでは無い。 同じものを、食べ、感じ、そして生命維持を担っているのだろうか。 自分を誤魔化すつもりは毛頭ない。鞄に入ったチョコクッキーを潰さぬように前に抱えて持ち、街頭一軒一件の店をゆったりと周った。探したのはふたり。先週クッキーをくれた女の子。出会えたらお礼と、それから、それから、いろいろとお話をしたい。もう一人は、あのひと。そう、余ってしまったから、それだけの話。 裏手へ回るも、黒い影がゆらりと蠢くのがこわいばかりで、踏み入れられない。ややもすれば踵を返しそうな尻込みする私の背を、誰かが押した。あまりにも自然で、つい、そのまま歩き出してしまう。目的の無い歩みは緩やかで、すぐさま事態に気が付く、裏を返せば、ただの十メートルをたっぷり時間をかけて歩み、その間なにも疑問を持たなかった。 私の驚いた視線を受け流すと、女の子がこんなところにいたら危ないよ、と一言置いて首を傾げた。 「君、どこかで見たことあるな。どこかで会ったっけ」 涼やかな声は、私の中の蛇を刺激して、ひどく締め付けられる思いがした。物理的に考えればいいのか、もしくは、これは、あるいは、まさか。 「ええと、一度だけ。先週なんですが」 例の女の子の名前を出すと、ああ、と目を細める。すこしの笑みが口の端に乗り、耐えきれず視線を落とした。 「思い出した、後ろの方にいた子だね。今日はどうしたの? ひとり?」 口を開こうとするたびに、喉の渇きが邪魔をする。それを熟知しているみたいに、いざやさんは細い指をコートのポケットから抜き出し、つめたいそれを頬に滑らせた。声が出ないというのが功を奏したのか、空気を吸い込む音は響かなかった。 「そう。用事が無いってことでいいかな。お兄さんにすこし、付き合ってくれる?」 甘美というしかない。指も、声も、見上げたさきの表情も、街頭のぎらついた明かりも。 私はまだ酸いもなにもを知らぬ花の女子高生で、踏み入ってはいけないラインの向こう側をいつでも夢見ている。そして、それと言っては無いけれど、いざやさんは、それを持っている。そちら側へ導いてくれる。そう、確信できる人物だった。それこそが、いちばんの甘やかなところだった。 コートのポケットに入れられた私の贈ったクッキーは、私と同じようにあの人を作っただろうか。端から端までを甘く固めたそれは、あのひとの心臓を食らっただろうか。すこしだけでも、侵食しただろうか。 心臓にまとわりつく蛇は、未だに巻き付いて離れず、また、口を開かない。 通い詰めた先には、膨れ上がるラッピングの数々。食べきれないよ、と微かにこまったように笑う顔が見たくて、逆説語だけをこぼした。続かない先をくみ取ったように、頬を指先が滑る。わたしは、わたしが、それだけで息が漏れると、知っているのだろうか。 「でもねえ、これ以上食べられないよ」 「いいんです。私が食べますから、あの」縋る視線を絡めとると、模範解答というべき、唇がうごく。 「それに意味があるのかよくわらかないけど、まあ、いいかな」 私の食する一部でも、臨也さんは摂取し、一部でもその形成を支えられるなんて、これ以上、ない。必要以上の近さは、パーソナルスペースもなにもなく、ただ酔いしれる空間となった。メランコリィのような、思考の回らない、異常なところだった。 その上、まだ夜更けとも言えない時間に、臨也さんは帰りを促す。私に対する線引きは厳しく、それが一層と私を引き込ませた。どうして、と言えないところを、うまく悟られている。 「今日はもうお帰り」 「……はい」 腕の中で私はずっとずっと俯いて、なにも視界に入れないようにする。 「どうする、また来る?」 「来ても、いいなら」 「もちろん。歓迎するよ」 どうしたって、求める言葉は得られない。お預けという生易しさで無く、はじめから用意されていないのだ。 甘やかして甘やかして、ふやけた心臓。今更気付けば、捕食目的なんてものではなくて、実験台に括りつけるための縄で、縛りつけた痕だけがいたいたしく残る。いくら貪欲に蠢こうが、その動きは予測されているのだ。足掻くのもまた、検証の一環なのだろう。 いくつかあるサンプルのうちのひとつ。それは私と、あの彼女と、その周囲の女の子すべてがそうで、目的も結果も不要としていた私たちに唯一与えられた、臨也さんと言うその人でさえ、砂糖菓子でできた精巧なレプリカなのだろう。 それでもなお、私は臨也さんから離れられない。臨也さんの与える合成甘味料だらけのなかみになろうと、それでも、私は刹那でしかない味わえないそれを求め続けるしかない。 「また来たんだね」 そうやって触れる指先に込められたものに、抗える気力は、とうに失くしていた。ゴミ箱に捨てられたあの中身のようになるわけにはいかないと、それだけが芽生え始め、そしてその端からすでに腐り始めている。本物の砂糖でないことが、なによりの証拠のように。 「また、来ちゃいました」 「いいんだよ。ほら、おいで」 腕の中の甘さだけが、いま、私のレゾンデートルだと知らしめられた。 舌の上を踊る甘味に、なみだも出ない。 |