男がいる部屋には生活感はなく、清潔で空調が整えられていた。 部屋の隅から対角線上に部屋の隅まで、いくらかほど歩けば届くような距離の間にコンピュータが押し込められている。タワー型のハードウェアから途絶えることなく流れる機械の音と、それらのためのクーリングファンが回り続ける音も重なっていた。 けれど、それだけの空間なので、そこは間違いなく静かだった。 部屋の主は、絶えず甘いものを咀嚼し続けた。見るからに銘のありそうなティーカップに、ぽちゃぽちゃと投入される角砂糖。溶けきらないほどの個数が入ったと思えば、ティースプーンがその中をもたれ気味にかき混ぜる。 彼は、かちかち、と機械的に続くタイピング音を途絶えさせることなく、ティーカップを大きく傾けてすする様に中身を飲み込んでいく。仰ぐように飲み込んだ喉が、ごぐん、と大きく上下する。とうとう、どれだけ傾けても中身が流れないようになって、その口から伸ばされた舌の上に、一滴だけゲル状の砂糖が落ちてそれきりになる。 かちん、とカップはガラスのサイドテーブルに置きなおされた。それからしばらく、その機械的なタイピング音が続いた後、唐突に、かち、の一つも聞こえなくなる。キーボードの上で、細く長い指は静止して、そのまま腕ごと下にさげられた。 背もたれのある決して小さくない椅子に、長い腕はそのままで、膝を抱えるようにして座る姿が長身の男をこじんまりと見せていた。白い清潔そうなロングTシャツに、ぶかぶかに合わせられたジーンズ。機械的な色と光を反射させる機器に、その少しの飾りもない格好の生き物がよく馴染んでいた。 まさにその通り、生き物のようだな、と彼は思っていた。 ヒトでもなくサルでもなく、彼は彼自身のことをイキモノだと形容するのが素晴らしく当てはまっている事をよく知っていた。 『少しお休みになられてはどうですか』 人間的なイントネーションを発する機械音声で、目の前のコンピューターが口をきいた。画面には、カリグラフィーの様な『W』が写っている。 彼は、それに一言も返さなかった。 休む、という感覚がないのだ。それは、長い間の癖でもあったが、彼の生まれ持った体質でもあった。休むときは休むが、彼にとっての休みはイコール睡眠であり、それは意識的に摂るようなものではない。気がつけば、電池が切れたように瞼が落ちて、数時間ほどで電源を入れたように瞼が持ち上がるのだ。そういう意味では、全く休む必要を感じてはいないし、そんな気も起きてこない。 丸めた背骨をそらし、背もたれに首筋を乗せるように天井を仰ぐ。 ふと、聞こえてくるのは機械音だ。 それから、マイクが繋がったままの、空気の擦れる音。 箱のような部屋に充満した、耳鳴りを感じるほどの虚無。 こんなものを気に留めるようになると、さしもの彼も自身がいつも通りでないことを自覚できた。それが俗に言う、疲れている、状況だというのも分かっている。 床に両足をつけ、のそり、と立ち上がった体から骨のきしむ音がした。そのまま素足にスニーカーを引っ掛け、扉へ向かって歩く。それが唯一ヒトが出入りできる扉だった。 “Were are you going?” 「W」はその背中に問いかけた。 “Die Nhe” 聞かれた言語で返さなかったのは、決してわざとではなかった。その程度の変換も面倒に感じるほど疲れていて、会話をすることに苛立ちすら感じていた。気づけば、口をついて出たのは、先ほどまでやり取りをしていたコンピューターの言語だったのだ。 丸まった背中からは、ため息すら出そうだった。 *** 気がつけば、こんな季節だったのか。ということは、珍しくない。 彼は、葉の落ちきった森林公園の中を目的もなく歩いていた。 必要とあれば、各国へ飛び回ることが当然の仕事だからこそ、地球のどのあたりかに位置する国のその日その時間も季節も知らない、ということはなかった。ただ、肌でそれを感じることは、稀なことなのだ。 外に出るとは言っても、せいぜい車が当たり前のような生活では無理もない。 「寒くないの?」 流暢な日本語で、ふと、声がかけられた。 彼は、すっとそちらの方へ体を回す。閑散とした木々の隙間に、木製のベンチが置かれている。そこで、暖かそうな中身の入った保温ビンを持った女が縮こまっていた。その格好は、ゆとりのあるコートの中に足を折りたたんで入れている。ちょうど、彼がつい一時間ほど前まで椅子の上でしていた格好と同じだった。 振り向かれて驚いたのは、彼女のほうだった。彼には、彼女の軽く見開かれた目が、大きな眼鏡のレンズ越しにでもよく分かった。 「寒いです」 彼が彼女と目を合わせるように体を動かしたのも、彼女に合わせてその脳内での変換言語を調節したのも、その時の、その日の気まぐれだった。 少なくとも、二人のいる森林公園があるのは日本でも、ましてや島国ですらない。 「日本人?」 少しだけ、彼女の声の調子が上がった。嬉しいときに、ヒトは好意をもって声色を変えることを、彼はよく知っていた。それは、今の彼には不愉快ではないことは幸いだった。 それどころか、彼女の声は彼にとって、ここしばらく聞き続けた機械の音とはまるで違うものだったこともあり、安心すら感じさせたのだ。 「いいえ」 「そうなんだ」 それにしては、すごく日本語が上手なんだね。と、彼女はさらに体を丸くしてため息を吐いた。彼は、彼女の前にぬっと立ち、その頭を見下ろしていた。 「隣に座ってもいいですか?」 彼女は、顔を上げて応える。 「いいですよ。もちろん」 彼は、彼女の隣に腰を下ろして、同じように足を折りたたんだ。 「真似しなくていいのに」 と、彼女は軽く笑った。それから、敬語じゃなくてごめんね。と、付け足す。 「気にしないでください。それからわたしは普段からこの座り方以外をしません。さらにいうと今は本当に寒いです」 「ほんとうにね。こっちにきて、まさかこんなに寒いとは思ってなくて。明日から、雪、降るらしいよ。あなたはここに住んでるの?」 言葉が通じるとなれば、彼女は饒舌に話す。 「こちらに来たばかりのようですね。わたしも似たようなものですが」 「この辺りの人じゃないの?」 「はい。ですがこの国に来るのは初めてではありません。あなたは学生ですか?」 彼女は頷いて、一応ね、と付け足した。 囁くような声だったが、彼にはしっかりと聞き取れた。肩が触れるほどの距離で、聞き逃すはずもない。 「サボりですか」 「勘がいいひとだなぁ」 彼女は困ったように眉を下げて、ちびり、とビンの中身を口に含んだ。 彼女はその通り、平日の日の高いうちに一人でここにいるのには訳があったのだ。彼は、ベンチの下にいるパンパンに膨れたリュックに気づいていた。公園の傍には語学学校も、大学もある。その服装も、社会人にしてはいささかラフに見えた。 「それにしても感心しませんね。日本ほど治安のいい国ではないのにこんなところに一人でしかもこの辺で最近事件が起きているの知っているでしょう」 注意を促すように諌めた彼だったが、当の本人である彼女が素っ頓狂な様子では効果もない。それを言葉で音にすれば、ちょうど「事件?」と聞き返した彼女のそれが当てはまるのだろうと、彼は肩を落とした。 「あきれました。せめてテレビくらい見てください。あなたみたいなのがいるから被害者が減らないんです」 「面目ないです」 彼と話す間中調子の上がっていた彼女も、このときばかりは済まなそうに声を落とした。 「こんなところで一人感傷に浸るのは勝手ですが。できれば家で大人しくそうやっているほうがいくらかも安全でしょう」 彼の言い分こそ鉛を投げるような素っ気無さだったが、彼女はそれを気にも止めなかった。つまり、彼がどういう類の人間なのかもう十分に分かったらしい。 だから彼女は、小さく、やはりすまなそうに笑ってから、口を開く。弁解するような言い訳だった。 「どこに行っても一人なんだけど、こんな風に独りになりたいの。あなたが言うみたいに感傷に浸っているのかもしれないけど、でも本当に疲れるとこうして一人になりたい時だってあるでしょ」 それがまさに、先ほど機械しか話し相手のいないような部屋を飛び出してきた彼にも、しっかりと受け止められるものだったことを、彼女は勿論分かってはいない。 「わからなくもないですが言い訳にしては酷いですね。しかしそれなら私はその一人のときを邪魔してしまいました」 彼があまりにも素直に立ち去ろうとするので、彼女は慌ててそれを引き止めた。けれど、それが彼のポーズだったことは、彼女を振り返ったその顔がしっかりと表している。にやり、と笑う顔が見えても、彼女はその服をつかんでまで引き止めたことを言い訳しなくてはいけなかった。 「本当に独りがいいわけないでしょ。こんな偶然ってある?あなたと出会えたのは、こっちにきて一番の幸運かも。事実は小説より奇なり、ね」 “La réalité est plus étrange que la fiction.” 会話の流れで応えるように、彼は唐突に日本語ではない音を口にした。その上しかも、それは彼女がなんとか扱うことの出来るどの国の言葉でもなかった。 「何語よそれ」 「フランス語です」 なんとなく、頭をよぎったので口を出ました。と、あくびれなく言う。 「まさかどんな言語でも大丈夫な人?」 「辞書の存在する言語なら大抵は読み書きできます。話せるのは主要言語より少し多いくらいでしょうか」 さらり、と。さも当然のように返ってくる返事に、彼女が卑屈に捉えることも許さない説得力があった。彼がそういうのだから、そうなのだろう。と、思ってしまう。その上、彼は自慢話の種を会話に投げ込むような人間ではないのだ。 「あなた思ってる以上にすごい人なんだ。うらやましいわ。それじゃあ、わたしみたいに一人の気分なんてわかりっこないか」 「そんなこともありませんよ」 ふう、と息を吐いた彼女に、単調な返事は言った。 「……そっか。そうだよね。言い過ぎました」 「気にしてません」 そっ、と。彼女はその横顔を覗き込んだ。目の下の隈は深く、見るからに不健康そうな肌。その視線は、どこを見るのだろうか。ずっとまっすぐ先の木々の間を見ているのかも知れなかった。ギョロり、とその目玉だけが彼女の視線に合わせる。それに慌てて、彼女はつい口走った。 「天才の孤独かぁ」 他人の詮索をしないよう、彼女なりに気を使っていたのだ。例えば、彼と短い間に交わした会話から、いったいどんな人間なのかすら推し量ったりしないように。 「わたし、英語と母国語と、こっちの言葉しか使えないけど、それでもいつもいっぱいいっぱいだもん。わたしの周りの人ほとんどそう。誰でも努力しだいであなたのようになれるとは思わない。あなたにはそれが出来るものが備わってるってことでしょ」 「そうですわたしは天才です」 「でも、だからこそ分かってもらえないってことはあるわよね。ほんとうに、さっきはデリカシーがなかったわ」 「そうですね。でも本当に気にしてませんから。他人の悩みはわたしにはわからないこともありますし。そういうものでしょう」 それから、二人はしばらくそのままその場所を動かなかった。 彼女はホットジンジャーティーの入った紅茶を飲みながら、彼は彼女が持っていたチョコレートを食べながら。 「あなたとはまた会えると思ってもいい?」 どれくらいの時間が過ぎたか、なんてことはお互いに気にする必要がなかった。 時折言葉を交わすだけだったにもかかわらず、そろそろどこかへ動かなければ、という時になるまで二人でその場所に居続けた。この国の、この季節は、日が傾くのが早い。 彼は、彼女のその申し出に、否定まではいかない返事を返した。 「ですがわたしは仕事を終えればまたここを離れますよ」 彼女は少し視線を落として、ほんの少し気まずい様子で頷く。 「うん。でも、もうきっとわたしたちは会わないでしょ?だから、わたしはあなたはずっとどこか会える場所にいると思うことにする」 「なるほど」 「一人になったときにね、だれもわたしの手をつないでくれないんだなぁって思ったりするの。そんなとき、だれかに繋いでもらうように手のひらを握り締めたりするわけ」 彼女は、おもむろにその手を開いて、それから閉じた。彼は、そこで初めて彼女のその手をよく見ていた。 「それは家族じゃだめなのよ。わたし、あの人たちとは縁を切るようにして出てきたから。それに、昔の友人でも今の顔見知りでもやっぱりだめなの。もうわたしは、一人でがんばらなきゃいけないから」 彼には家族はいない。しかし、家族のような、親戚のような、そんな不思議な存在ならあった。それから、友人とは呼べないまでも、仲間と呼べる数人の顔も思い出す。やはり彼も、その人たちにはどんな弱音も吐くことがなかった。 「今日会った、他人だけど、知り合いで、上手くいえないけど、あなたみたいな人の手を思い出せばがんばれると思う」 その理論の正否を追求するなんて、彼は無粋なことを考えたりはしない。 「それはあなたの自由です。ですがそれじゃあわたしもそうしていいですか?」 一瞬ぱちり、とゆっくり瞬きの出来る間がある。「そう、って?」彼女は、首をかしげるように聞き返した。 「つまり時々あなたのことを傍にいるように錯覚してもいいか。ということです」 *** それから、彼は律儀に彼女を学校まで送り届けた。彼女が学校の先へ顔を出したとき、それを見て声をかける存在がチラホラとあった。彼女もまた、本当は一人ではないことを彼はもうとっくに見抜いていたのだった。 最後に、彼女は寒そうな彼の首筋にマフラーを巻いた。返せる保障がありません、と言う彼をよそに、彼女はいつか返しに来ると思わせておくことを約束させた。にっこり、とはにかむように笑う女性の顔を、彼はほとんど生まれて始めて直視した。 差し出されている手に、しっかりと自身の手を差し出した。ほんの数秒、冷え切ったお互いの手は、離れないと思われるほどしっかりと結んだあと、離された。もともと、まったく別のものだったことだけが、確かに分かっていた。 『おかえりなさい、L』 「ああ」 履きつぶしたスニーカーを脱ぎ捨て、首に巻いたマフラーはそのままに、彼はいつものようにその椅子に体を折りたたんだ。 彼はそうやって、世界中に求められるだけの難問を解き明かしては、またイキモノにような生活を続ける。L、と呼ばれる存在を確立したことに、決して迷いなんてない。 キーボードに指先を乗せる直前、人と触れ合った手のひらをやわらかく閉じてみた。彼女と握手をしなおすように。手を解いた最後の瞬間、離れる直前の指先どうしの感覚を刻み込むように。目を閉じても、もう、虚無の音はしない。 その部屋には鈍い光をたたえる機械がいくらかあって、甘い食事があり、飲み物があった。それらの空間と機械の一部であるかのように、ひとり、Lは生きていた。 |