第20回 | ナノ
※大学生設定


 狭いアパートの一室。月明かりが控え目に差し込んでいる。
 頭が冴えているは眠くないからではない。寝苦しい暑さだからでもない。

 わたしは寝付けない体を布団から起こし、枕元の携帯を手に取った。
 眩しい待ち受け画面の光が、深夜十二時を示している。

 「……」

 玄関に目を向けるけれど、ドアは黙ったまま。ただただ、しんとだんまりを決めている。

――早く帰ってこないかな……。

 口の中で呟いて、布団から這い出た。喉が酷く乾いていた。歩いて数歩の所にある台所に立ち、コップに水を注ぐ。
 僅かにカルキ臭い水が喉を通り、軽く息を吐く。そしてまたドアを見る。
 古臭いアパートのドアは木製で薄っぺらく、強く蹴れば壊れてしまいそうな物だ。
 でも、わたしにとっては大切な居場所を護ってくれるドア。彼がこのドアを開けて帰ってくるのが一番の楽しみだ。もう一口水を飲む。ドアは開かない。

こんな事が前にもあった。

 わたしが今の彼と付き合い始める3年前の話。恋人がいた。
 わたしは高校生で、相手は社会人だった。わたしは思いつく限りのいろんな理由を親にこぎ付けて彼の部屋に居座っていた。
 よく玄関に座って帰りを待っている間に眠ってしまったわたしを運んでくれた。その浮遊感の中、仕事帰りのスーツの匂いに埋もれると、なんだか安心した。ベッドに下すと額に小さなキスをしてくれた。
 寝た振りを決めこみながら耳まで赤くなってしまうわたしに「良い子は寝る時間だ」とわざとらしく耳元で囁いた。

 幸せな時間だった。
 短い間だったけど、幸せだった。

 あの日までは。
 あの夜の事は多分一生忘れることができないだろう。

 いつものように彼の帰りを待っていたら、真夜中に電話が鳴った。
 こんな時間になんだろうと不審に思いつつ、玄関にある電話の受話器を手に取った。
 もしかしたら彼かもしれない。今日は遅くなるから先に寝てろ、とか。如何にも彼が言いそうな台詞だ。思わず顔がにやけるのを抑えながら耳に押し当てる。

「――はい」
『もしもし、警察の者ですが。○○さんのお知り合いでしょうか』
 彼の名前を出され、戸惑いながらも肯定する。
 ドアは開かない。ドアは開かない。
 警察は彼が交通事故で死んだ事を淡々と告げた。

トゥルルルル……――
トゥルルルル――

 電話が鳴る。まるで、あの日のように。暗い部屋の中、無機質に鳴り続ける。
 体が固まったように動かない。
 脳裏を錯誤する既視感。喉がまた乾く。
 電話だ。出なきゃ。会社からかもしれない。でも、やだ。聞きたくない。嫌だ。思い出してしまう。

トゥルルルル……プツッ

『只今、留守にしています……』

 アナウンスが流れ始める。呆然として遠くなった耳に『ピーという音の後に……』と伝言を促す説明が聞こえた。
 やだ。
 思わず持っていたコップを落とした事に目もくれず、咄嗟に耳を塞いだ。
 もうあんな事ないだろうと信じる反面、そんな根拠はどこにもなくて。

 不安で押し潰されそうだ。

 その時、指の隙間から耳に聞こえた音に固く瞑っていた目を開けた。

『なまえさん、僕です。部屋の前にいるんですが、鍵忘れちゃって……。もし起きていたらドア開けてください』

 それは紛れもなく待ち望んでいた人の声。

「……っ!」

 わたしは馬鹿みたいに目の前のドアへ走って鍵を開けた。前につんのめりながらもドアノブを回す。そしてそこには、

「すみません、起こしてしまいましたか?」

 申し訳なさ気に微笑む、彼の姿。

「テツくん……!」

 思わず抱きついたわたしに、彼も抱き締めかえしてくれる。

「心配かけてしまいましたか?」

 当たり前でしょ馬鹿。

「バイトの方が長引いて、終電乗り遅れちゃって。仕方ないので歩いて帰ってきたら遅」
「行かないで」
「……え」
「テツくんだけは、わたしを置いて行かないで」

 もう、あんな思いは。

 沢山の花に囲まれた、動かなくなっている恋人の姿を見るのは。
 ぴくりとも動かない。氷のように冷たい。あの温もりも、あの笑顔も。もうないのだと真実をナイフで突きつけられるような気持ちは。

――あんな、千切れる様な悲しみに二度目はいらない。

「……泣かないでください」

 別に泣いてなんかないもん。
 そう言おうとした唇に、涙が伝っていた。

「大丈夫。大丈夫です」

 子供をあやすようにわたしの目を軽く指で拭い、その大きな体で包み込む。
 大丈夫。
 そんな確信はどこにもないのに、わたしはすがるように温もりをきつく抱き締めていた。
 しかし安心したのもつかの間、緊張が一気に解れ、指の力が抜けていく。
 彼もわたしの体がだんだん重くなっていくのが分かったのか、くすりと笑って軽々抱き上げた。
 浮遊感。外気の混じったバイト帰りの彼の匂い。

 わたしの前髪をかき上げた夜風は、どこか懐かしい温もりをもっていた。
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