人の生きる時間とは、どうあっても予定通りにいかないのだと思える。自分で予定を立てても上手くいかない事なんてざらだ。共に行動している親父なんて考えなしに行動するものだから、俺まで被害を受ける羽目になり、予定が形を成さない事も片手じゃ数え切れない程体感している。お陰で親父みたいな女癖の悪い節操無しには絶対にならないと考えていられる訳でもある。有り難みは全くないが。 だから、こうも呆気なく、誰かを愛する事なんて無いと思っていた。 日も落ちて、灯りのない室内は薄暗い。今日の宿は床が軋む音すらせず、どうやら、壁も厚みがあるようだ。隣の部屋には親父がいる筈なのに、物音一つ聞こえてこないのは珍しい事この上ない。 なまえに割り当てられた部屋は、あまり広くない。彼女一人が過ごすには十分だが、自分が入ると体格のせいもあり、やや狭く感じる。 明日どの程度の時間にこの宿を出るか、伝えに来ただけだった。そこから細々と話しが続き、最終的に二人してベッドのふちに腰掛けてしまった所から駄目だった気がする。 「……拒まないで、くれないか」 不意に会話が途切れ、僅かな静寂が場を支配する。それを甘受していればどうしてだか、視界に靄が掛かった感覚に陥った。自分は此処まで、我慢の出来ない人間だったろうか。隣に座るなまえの肩を掴み、身を寄せれば心が満たされていった。 掌から、彼女の存在を感じられる。彼女が此処に存在しているのを確認出来る。 視界には首を横に緩く振って拒否を示す姿が映るが、この衝動を止めるのは難しい。 仕方がないだろう。いつかは、こうする事も出来なくなるかもしれないのだ。 「この世界を受け入れてほしい」 彼女は時空の旅人だ。聞けば元は平和な世界で暮らしていたとの事だが、訳も解らない内にこんな、ホラーが蔓延る世界へやって来た。出来るならば平和なその世界で穏やかに暮らして欲しいし、彼女も元の世界へ戻るのを望んでいる。俺と親父に同行しているのも、なんかしらの手掛かりを掴むためだ。 穏やかに暮らしていて欲しい。その感情に偽りはない。しかし胸の奥底で、情けない叫びが木霊してしまうのだ。行かないでくれと、少年の感情であり、男の感情でもある、その言葉が。 俺が彼女を引き留める言葉を発するのは至極容易だ。けれど彼女はそれに応えられないだろう。元の世界へ戻りたいと言う己の感情と、俺の言葉の間で揺れてしまう。多分、彼女は答えが出せなくなる。それを予測出来ていても尚、この感情を殺すのはもう不可能だった。 「俺は、自分の手でなまえを守り、生を全うしたい」 掌越しに伝わってくる、か弱い肩が揺れる感触に、何処か安心を覚えた。拙い自分の言葉で、動揺してくれたのだ。何かしらの意図は汲み取ってくれたのだ。 レオン、と俺の名を小さく呼ぶ唇がどうしようもなくいじらしい。彼女の肩から唇へと、掌を移動させる。人差し指でなぞってみるが、どういう訳か、それを自分の物にしようと行動を起こす気にはなれなかった。合意もなく行われるソレは、空虚でしかないと言う見解を持っているからかもしれない。 素直な愛の言葉など、口から吐き出す勇気が無かった。せめて、そこだけでも曖昧にしておかねば、いつかはどちらかが負い目を感じてしまうのだ。愛の言葉を紡いだその後、俺の思いが叶えば彼女に負い目を感じ、彼女の思いが叶えば彼女は俺に負い目を感じる。 故に、言葉に出来ない分だけ他で表そうと、今度は彼女の身を引き寄せた。あっさりと腕の中に収まった、自分とは違う体温が不思議に思える。自分よりも小さく、ずっと柔らかい。同じ人間と言う種族である筈なのに、まるで別な生き物のようだ。 「……レオンって本当、ぶっきらぼうなくせして、とっても優しいよね」 「悪かったな、ぶっきらぼうで」 「でも、それを含めて嫌いじゃない」 嫌いじゃないと、どことなく慈しみを含んだ声と共に向けられた微笑みが、たまらなかった。自分だけの物に出来たら、どれだけ良いのだろうか。 「この世界だって、危険だけど嫌いじゃないの」 「そうか」 「でも、どうしても……」 その続きは、音にはならなかった。したくても出来なかったのか、俺に気を使ったのかは解らない。彼女しか知り得ない事だ。然れども、それを問い質す事はしない。結局は俺も、傷付くのが恐ろしい。それだけなのだ。 「こんなに苦しい思いをするために、私はここへ来たのかな」 「さあな」 「こんな感情が生まれるなんて、向こうじゃ無かったと思うの」 嫌な、そして狡い言い方だ。それでは、まるで、俺と同じ気持ちかのような言い方だ。 彼女の背中に回した腕に力が入る。それと同時に、手持ち無沙汰だった彼女の両腕は俺の背中へと回ってきた。意外なその行動に、条件反射で喉を鳴らしてしまう。 本当に、これではまるで、俺達は、 「……俺もだ」 もう、勘弁してくれ。してはいけないと解っているのに、止められない。言ってはいけないと解っているのに、感情から溢れそうになる。嬉しくてたまらない筈なのに、辛くて仕方がない。こんな相反する感情に挟まれ、押し潰されるなんて俺は御免蒙りたいのだ。 背に回された掌が、衣服に皺を寄せる。互いが互いに縋り付くかのようなこの光景は、この上なく滑稽な様だろう。 彼女の熱をすぐ近くで感じるのをずっと夢見ていた。その瞬間は、きっと幸福で満たされているに違いないと疑いもしなかったのに。 こんなに抱きしめているのに、苦しくて息も出来なくなりそうだ。 |