第19回 | ナノ
 女は愛嬌。
 その言葉を聞いたのは一体いつだったのだろうか。ぼんやりと思い浮かべたそれは、僅かに寄せられた眉間の皺を前に泡となって消えた。

「なまえ?」

 名前を呼ぶと、目の前の彼女が、はっとしたように肩を揺らす。まるで気付かれまいと平静を装い、何ですか?と小首を傾げる様子は、買ってもらった玩具を壊してしまった事実を親に言い出せない子供のようだった。

 後ろ暗い事でもあるのか。

 濃厚なコーンスープにパンをひと欠片浸しながら、彼女を観察してみる。パンに何かを付ける行為を嫌がる彼女は、コーンスープをスプーンで掬い小さな口で咀嚼していた。別段変わったところは見受けられない。
 しかし先程の反応は単に気のせいだと結論付けるには大袈裟に映った。そういえば一点を凝視していたようだったが。

 シビュラシステムの支配下に置かれる昨今において、食卓に並ぶのは殆どがハイパーオーツなる原料の加工食品。仰々しい名を携えた遺伝子組み換え麦は、世界最強とまで持て囃されている。ただ、食料自給率100%を実現してみせた一品目が果たして僕の心を満たすのかと問われると、答えは否であった。
 
 赤信号、皆で渡れば怖くない。彼女が生きていたおよそ100年前にはこんな標語があったそうだ。皆と同じ服を着て、皆と同じものを食べて、皆と同じように生きる。画一的で流されるがままの人生に、いつしか大衆は羨望し、孤独を嫌い、考える事を放棄しまった。波に逆らわなければ平穏に暮らしていけると信じてやまない。現代でもそうだ。
 何が悲しくて自ら生きる屍にならなければならないのか。人間というものは元来ひとりにひとつ、誰のものでもない己だけの産まれもった魂があるというのに。人を憎み、または愛し、些細な事で喜び、大きな悲しみに囚われ嘆く。自由に呼吸するだけでは、生きているとは言えない。ゲーテの言うように、自らの意志で苦悩や絶望をも背負い、選択しなければ生に何の価値も無くなってしまう。
 僕はそんな人間が嫌いだ。だからこそ、こうして多様性に満ちた食糧を珍しがる事なく当たり前のように口にする彼女への興味が尽きない。尤も、僕が惹かれる理由などそのような陳腐な言葉では表せないのだが。

「いや。顔色が優れないみたいだから、口に合わなかったのかと思ってね」

 そう疑問を真白な空間に漂わせれば、彼女はほんの一瞬の間だけ瞠目し、よろよろと目を泳がせる。普段滅多に合わない視線だが、誰の目から見ても解りやすい露骨な態度をとったのはこれが初めてだった。

「全然…美味しいですよ?」

 では、所在なげに眉尻を下げるその表情も気のせいだというのか。
 コーンスープを全て飲み干した彼女が、食べかけのムニエルへ箸を伸ばす。好き嫌いをせず、満遍なく食する彼女の唯一の好物である鮭を出してみたのだが、思った程の反応は得られない。大きく表情が崩れるとまではいかなくとも、未だ目にした記憶のない笑顔を、少しでも。
 取るに足らない、淡い期待に内心で自嘲する。全く、いつからこんな感情を抱くようになったんだか。

「それなら良かったよ。今日は特に自分でも満足のいく出来だったんだ」
「…そう、なんですか」

 僕が微笑みかけると、尻すぼみになる言葉。思わず細めた目に、ますます力を失っていく小さな体が映ったところで不意に気付いた。
 泳いでいた円らな黒が、真っ赤な粒へ頻りに注がれている。
 バジルソースの掛かった鮭のムニエルには、レタスの絨毯に転がる三つのミニトマト。敷き詰められていたレタスは二枚のうち一枚が既に無くなっている。トマトは僕が並べた時と一寸の相違ない。

 ああ、なるほど。噴き出しそうになるのをすんでのところで抑え、誤魔化すようにパンを口へ放る。

 簡単な話だったのだ。理解すれば先程までの光景も可笑しく感じられた。
 じわじわと腹の底から、体の核のような部分から形容し難いものが湧き上がって無性に吐き出したくなる。

 素直に言えなかったのは、僕に遠慮しているからだろう。自己主張が極端に乏しい上に、異常なほど人の顔色を窺う体質は相も変わらずである。
 もし心の内が文字となって顔に出るのなら、『折角作ってもらったのに』と書いてあるに違いない。
 好き嫌いをせず、満遍なく食する。見当外れもいいところだ。物腰が柔らかく、多くを語らない故に大人びて見える彼女も今は年相応に映る。
 それが湧き上がる衝動へ拍車を掛けたらしい。

「そのミニトマト、実は僕が育てたんだ」

 途端、ムニエルを咥えたまま、世界が終わったとでも言いたげに固まった。瞬きも一切しないので眼球が乾いてしまわないか心配だ。

「知っての通り、この御時世では種を入手するのも困難でね。なかなか栽培にも苦労したよ。でも悪くはない」
「………これ」
「ん?」
「槙島さんが……育てたんですか」
「そうだよ」
「………」

 自身の皿に残っていた赤い粒をこれ見よがしに口許へ運び、ゆっくりと噛み締めてやった。
 するとどうだ。やっと僕に──正確には僕のワイシャツの襟に──視線を注いだ彼女の瞳には、溢れんばかりの水が溜まっていた。瞬きをしなかったから、なんて理由で片付けられない事は百も承知だ。これには流石の僕も虚を衝かれた。
 まじまじと見つめ過ぎたのだろう、彼女は悟った様子で、慌てて目許を手の甲で擦る。

「え、えっと…これは、その…」

 狼狽えつつ背中を丸めて必死に言い訳を考える姿は、不謹慎だけれどとても可愛くて仕方なかった。あっ、と漏らした後に続いた、目にゴミが入ったと涙をはぐらかすお決まりの文句さえも僕の頬を緩ませる材料になる。
 子供のようだと比喩表現したものの、小動物…子猫の方が案外合っているかもしれない。親に叱られるのが怖い子猫。だとするならば、僕が親猫になるのか。
 ──性に合わないな。

「そんなに擦ったら駄目だよ」
「、」

 そっと掴んだ手は、細くて折れてしまいそうだった。力を入れたなら容易く。
 空いている右手を彼女の方へ伸ばし、肩が跳ねるのを視界の隅で確認しながら親指で水を掬い、撫でていく。彼女が瞬きをする度に睫が肌を掠めて濡れる。
 
 綺麗だ、と思った。
 終ぞ、こんなに心を奪われたのは。

 綺麗の殻を纏うホログラムなどではおよそ成し得ない代物であり、僕に充足の情をもたらす。
 やんわり、口角が上がった。
 軽い放心状態のようだから、彼女は僕がどういった意味で微笑ったのか、きっと真の答えを導けはしないだろうけれど。

「ちょっと足りなかったから、くれるかい?」

 歯で潰した粒が口内で弾ける。舌の上で転がる液体は自分のよりも存外甘くて。可笑しいな、品種を変えたつもりはなかったのに。

「……すいません。せっかく…」

 発せられた声に、甘みから意識を戻す。同時に溜め息が出てしまった。返ってくる反応が案の定だったため、ここまで予想通りだといっそ呆れよりも清々しさを覚える。清々しすぎて、そこはかとなく面白い。

「本当にね。折角丹精込めて育てたのに」
「…!、ご、ごめんなさい!ちゃんと食べますっ」
「ははっ、冗談だよ」

 ぽろぽろ。ついに、とめどなく溢れ出した涙を今度は五本の指を使って拭ってやる。
 彼女が小動物のように可愛いから、庇護欲を駆り立てるから、とことん苛めたくなってしまう。思春期じゃあるまいし、何をやってるんだか。そう思うのに、楽しんでいる自分がいるのもまた事実だ。

「嫌いな物は嫌いだと、素直に言えばいい。我慢は体に良くないから」
「……でも」
「それに、こういう時は笑ってお礼を言ってくれればいいんだよ」

 僕がそう言ったところで素直に飲み込む彼女ではないから、困った顔をするのも予想の範疇だった。さりとて、僕は彼女を困らせるためにこの言葉を選んだ訳ではない。

 単純だ。ただ、燻ぶっているままの淡い想いを捨てきれないだけで。

「…ありがとう、ございます」

 いつか食べられるようになりますから。
 一文字に結ばれていた口の、両端が僅かばかりつり上がったのは都合のいい解釈だと人は笑うだろうが、僕が彼女に関して雀の涙ほどの変化を逃す筈もないと自負している。
 絞り出された小さな誓いが、心の奥深くへ落ちていく。すとん、すとん。幾つも落ちて積もった塊はこの先も一生僕の体内に有り続ける。

 力が抜けたのだろうか。空っぽの皿に箸とスプーンを置き、些か柔い空気を携えると、しみじみといった面持ちで両掌を合わせた。

「槙島さんは、優しいですね」

 彼女はそう言うけれど、僕にしてみればそれは槙島聖護という男を形成する一握りの片鱗でしかないのだ。誰に対しても平等に優しさを向けられる人間など、果たして何人存在するのか。僕は少なくとも、善意を剥き出しにし、自己満足に浸る人間とは違う。
 彼女は知らないのだ。作り出された困惑顔も、滲み出た笑顔も、嫌いな食べ物を食べてやるのも、どれもが僕のせいだと思うと漠然とした優越感が生まれることを。
 もっと、もっと。追い詰められて、泣きそうな顔をして、僕に縋ればいい。僕だけを求めればいい。そして僕だけにその笑顔を向けてくれ。
 
 滑稽だと、笑ってくれ。


 さて。明日も君の嫌いなトマトを食卓に並べようか。
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