※現代パロ きっちり着込んだスーツが鎧のようだ。直ぐにでも脱いでしまいたいくらい鬱陶しくて仕方ない。それと同じくらい体が重かった。 つい数時間前のことを思い出す。今日は残業もなく定時で上がれると思っていたのだけれど、同僚がミスを連発したためその嬉々とした気持ちは儚く散っていった。同僚のことを恨みがましく思いつつもそれでも助けてしまうあたり、わたしは相当お人好しなのだと思う。本当に損な性分だ。 重い疲労を抱えながらようやくマンションに辿り着く頃には日付が変わっていた。いつもはなんとも思わない扉が鉛のように重く感じて、そこでまた疲れが一気に襲いかかってくる。エレベーターに乗るのも億劫で、何度目か分からない溜め息をつく頃に部屋の前に着いていた。 そっと扉を開けると、明かりはついていないものと思い込んでいた室内は明るかった。彼が帰宅しているのだろうと瞬時に理解する。少しだけ気分が良くなり疲れが少しだけ緩和したような気がした。 内鍵をかけてチェーンロックをかける。ほっと息をついてパンプスを脱ぐと、彼の気配のするリビングに向かった。 嗅ぎ慣れた煙草のにおいがする。久しぶりの彼のにおいに安堵感を覚えて、自然と頬が綻んだ。 覗き込むようにリビングに入れば、瞬時に彼の姿が飛び込んできた。 彼はソファの上で鼾をかいて寝ていた。遠目からでも分かるくらい隈が濃くて、処理をしていない顔中の髭もすごいことになっている。 きっと帰ってすぐにここで眠ってしまったのだろう。背広は床に落ちてしわくちゃになっているし、ワイシャツもスラックスもどこか草臥れている。この様子から察するに、捜索やなにやらでまともにシャワーも浴びていないのが分かった。 わたしは彼の傍らに寄った。その場にしゃがみこんで寝顔をまじまじと見つめる。 彼は気配に悟いから(たぶん職業病)常であれば起きるのだけど、今はその兆しは見られない。気配に気付かないくらい疲弊しているのだろう。 こうして一緒に暮らしていても最近はすれ違ってばかりだった。彼は警視庁の刑事で半月前に起きた事件の捜索に掛かりきりで着替えに戻る意外は自宅に帰って来なかったし、わたしもわたしで残業が続いていた。帰宅は午前様なんて当たり前だし、この一週間で終電に乗ったのは一度きり。あとはタクシーで帰えるか徒歩で帰えるかのどちらかで、忙しさのあまり彼のことは二の次だったような気がする。 最近のことを思考しながらわたしは彼の髪に触れた。ツーブロックのそれは見事に乱れていて感触はパサついていた。撫でるように触れながら額と頬の縫合箇所を指先で辿る。寝ていてもどこか不機嫌そうだ。夢の中でも捜索しているのだろうか。そう思って小さく笑った。 わたしはその場から離れると寝室からブランケットを持って再び彼のもとにやってきた。彼にブランケットを掛けて、聞こえないくらいの声でおやすみなさいと呟くと、その足でバスルームに向かった。シャワーを浴びて疲れも一緒に洗い流してしまいたい。そう思った。 * * * 遮光カーテンの隙間から洩れる日の光が、ぼやける視界の中に入ってきた。一気に意識が浮上する。もう朝なんだと思いながらまばたきをした。しばらくぼうっと宙を眺めながらふと気づいてサイドテーブルの時計を見ると朝の七時だった。いつもの起床時間より三十分近く遅いけれど休日は毎回こんなものだ。欠伸を噛み締めながら涙で曇った瞳で天井に日の光の筋がすっと伸びた箇所を見やる。その内にふわりとした心地いい眠気が襲ってくる。まだ少し眠れる気がして目を閉じる。でも、眠気よりも空腹感のほうが強いため二度寝は諦めることにした。もぞりとベッドの中から這い出る。思った以上に外気は冷たくて、あまりの肌寒さにぶるりと肩を震わせた。チェストからカーディガンを取り出して、それを羽織れば、少しだけ寒さが和らぐ。ホッと息を零すと、伸びをしながら寝室を出た。 寝室と同様にリビングも寒かった。彼は起きているかなと思って、ソファに目をやると、彼はまだ眠りの淵にいるのか数時間前と同じ体勢で鼾をかいていた。 それに苦笑しながらキッチンに向かう。トーストが食べたい気分だったから食パンを探すけれど目的のものは見当たらなかった。 ああ、そういえば忙しかったからまとに買い物してなかったんだっけ、と今更ながらに気づく。だったらと米びつを覗いた。久しぶりにごはんを炊こうと思ったのだ。しかし、あいにくと米びつの中も空だった。一応とばかりに冷蔵庫も覗いた。でも、入っていたのは水とビールとチーズ。これでは朝食にありつけないと落胆した。まあ、残業続きでキッチンに入ったのも久しぶりなのだから仕方ないといえば仕方ないだろう。わたしはやや乱暴に冷蔵庫を閉めた。小さく息をつきて、そっとキッチンを離れると寝室に戻る。面倒だけどコンビニで適当なものを買ってこようと思った。財布とキーケースを手に取ると玄関に向かった。書き置きでも残しておこうかと思ったけど、コンビニまでは五分もない。十分程度で帰ってこれるからいいかなと考えて、ローヒールのパンプスを履くとそのまま外に出た。静かな朝だった。 十分後。買い物を済ませて部屋に帰り着くと、煙草の香りが漂っているのを嗅覚が捉えた。出かける前にはなかったものだ。わたしは急いでリビングに向かった。 彼はソファに背を預けて煙草を吸っていた。起き抜けなのか薄ぼんやりしている。眉間の皺は相変わらずで起きていても寝ていても同じ様に思わず笑ってしまいそうになった。 わたしに気付いた彼が「あー、久しぶりだな」と声を掛けてきた。第一声にそんな言葉が掛けられるなんて思っていなかったから、クスリと声に出して笑ってしまった。 お互いに忙しい身なのは同棲をする前から分かりきっていたことだ。一緒に住んでいるのに久しぶりと声を掛けるのも掛けられるのも慣れているから今はなんとも思わないけど、お互いの仕事を考えれば生活サイクルに支障が出るのは当然のことだ。不満や不安がないといったら嘘になるけど、こうした距離感は嫌いじゃないし、どちらかといえばわたしたち向きの暮らしなのかもしれない。 わたしは「おはよう」と挨拶をしてキッチンに入った。 「コンビニか」 「そう。朝ごはんの材料が何もなかったから。あ……スモーカーもパンでいいよね。てゆうか、パンしかないんだけど」 「ああ。それでいい」 フィルターのギリギリまで吸ったそれを灰皿に押し付けるのが見えた。彼が再び煙草を手にしようとしているのが見える。わたしは咄嗟に声をかけた。 「昨日、帰ってきてそのまま寝ちゃったんでしょ」 「まあな」 「だったら朝ごはんの前にシャワー浴びてすっかりしたら?」 彼がわたしに視線を送ってくる。わたしはそれを受け止めてにっこり笑った。 「……。分かった」 そう呟いた彼は、煙草に伸ばしかけていた手を引っ込めた。ソファから立ち上がり、バスルームへと向かう。その後ろ姿に向かって「着替え用意してあるから」と声をかけると「ああ」と素っ気ない返事が返ってきた。それに苦笑してコンビニの袋から食パンを取り出した。 最近のコンビニは便利になったと思う。必要なものはなんでも揃うからこうして朝ごはんが作れるのだ。卵とベーコンを焼いて、サラダを盛って、パンを焼いて、牛乳を淹れれば完成だ。 時間は大して掛かっていない。テーブルに置いて、あとは彼が出てくるのを待つだけだ。 テレビでもつけようかなあ、と思っていると彼がバスルームから出てくる音がした。気配のするほうに視線を送ると、髭まみれだった顔はすっきりしていて、髪もきっちり整っている。 上半身は裸だ。風呂上がりだから熱いのだろう。首にタオルをかけている。 現役の刑事だけあって隆起した筋肉がすごい。相変わらずいい体してるなあと見惚れてしまう。 でも、いつまでも見ているわけにはいかない。わたしは「じゃ、食べよっか」と声を掛けた。彼は「ああ」と頷く。わたしたちは席について食事を始めた。 無言のまま食事が進む。カチャカチャと食器の音が鳴り、空調が効いているせいか稼働音が静かに響いている。 わたしはバターをたっぷり塗ったトーストを頬張りながら窓の外を見た。最近はこうして家で食事をしていなかった。帰るのが遅かったというのもあるけれど、外を見る余裕もなかったし、食事はほとんど外で済ませていた。料理をする余力がなくてコンビニ弁当というときもあったくらいだ。 ふたりで向かい合ってごはんを食べるのはいつぶりだろう。会話はほとんどないけど気まずいかんじはしない。むしろこれが自然体のように思えた。 空が青いなあと思いながらトーストを咀嚼していく。こくりと飲み込んで、ふと目線を彼に向けた。わたしは一呼吸置いてから声を発した。 「ねえ、スモーカー」 「なんだ」 「休みはいつまでなの?」 「明日までだ。呼び出しがあったら別だが」 「そっか……。じゃあ、出かけるのは無理か」 そう呟くと、それを拾った彼が「あー、まあ、遠出でなけりゃ大丈夫だ」と返してきた。その言葉に沈んでいた気持ちが一気に浮上する。 「そ。なら、買い出しに付き合ってくれない? 冷蔵庫も米びつも空っぽなの」 彼が分かったと頷く。 「お昼は……外で食べよっか。作るにしても材料がないし。スモーカーもそれでいいよね」 「ああ」 出かけるのも買い物に行くのも彼と外食するのも本当に久しぶりだ。そういえば、彼と最後に出かけたのっていつだったっけと考えてみる。一ヶ月前、二ヶ月前だったけっと思い出そうとするけど、記憶が曖昧で遠い過去のように思えた。 それに内心で苦笑しながらフォークで目玉焼きを崩してベーコンと一緒に頬張る。残り一口のトーストを口内に放り込んだ。 彼は既に食事を終えて朝刊を読んでいる。それがすごく似合っているから思わず笑ってしまった。 幸せだなあと心の中で呟く。幸せな休日をゆっくり彼と過ごしたい。彼と会えなかった時間を埋まるまでこうしていたい。そう思いつつ、マグカップを手に取り、真っ白なそれを見つめた。 マグカップに口をつけようとするけど、ふと窓の外が気になった。外に目を向けると鳥が飛んでいるのが視界に映った。 わたしは目を眇めた。青い空と白い鳥。眩しいくらいに綺麗な光景だった。 |