第19回 | ナノ
※社会人/捏造設定


 奥歯を噛みしめて、こぼれ落ちそうになる涙をこらえた。
 どうして、と理由を問うことも出来なかった。
 今思い返せば、ワケくらい聞けばよかったのかもしれない。
 それができなかったのは、くだらない、ちっぽけなプライドのせい。
 桜のつぼみが、ほころぶどころか、まだ枝の先にもついていなかった、春の初めのころ。
 卒業まであとわずかな、高3の春だった。
 彼と、別れたのは―――。
 
 
 わたしは、内心で、冷たい汗をかきながら乾いた営業スマイルを頬にはりつけていた。
 何で今頃、と思わずにはいられない。
 高校を卒業し、大学も卒業し、吹けば飛ぶような編集プロダクションに就職した。
 出版社に勤めたかったわたしとしては、それでも、日々の仕事に満足していたし、まあ恋人はいないけど、それなりに充実した日々を送っていた……と、思う。
 そんな中で起きた、今日の出来事は、まさに、何かのトラップのようだった。
 油断していた、日常に潜む、罠。
 わたしが、そう思うのも、無理はないと思うし。だって、目の前に居る、仕事相手、誰だと思う?

「久しぶりですね、みょうじさん」
「う、うん……」

 10年前に別れたきり会っていない、かつての恋人だった。


 どうしてこんな、漫画みたいなことが起こってるんだろう……?
 だが、彼は挨拶を交わした後は、思い出を語るわけでも、恨みごと――それこそ、今さら、だ――をぶつけるわけでもなく、何事もなかったかのように、仕事の話に入った。
 彼は、挿絵も手掛けているのでイラストレーターとも言えるが、今ではどちらかと言うと、画家、と言った方がいい存在だった。
 挿絵や、装画の仕事は、彼が駆けだしの頃に世話になった出版社や、義理のある相手にのみに限られており、ウチみたいな、ツテもコネもないようなところが、引き受けてもらえるはずはなかった。
 ……のだが、『どうしても、彼に挿絵をつけて欲しい!』と、ウチから出してる作家の中では、一番の売れっ子が言いだしてきかない。
 『まあ、どうせ断られるだろうけど、頼むだけ頼んでみるから』と言うことになり、ダメもとで頼んだら、何故かOKがでてしまった。
 それで、まあ、当然のように、打ち合わせを兼ねて、先に担当の自分と会いましょう、という約束がメールでかわされ、今に至るわけだ。
 ちなみに、彼は、本名で仕事をしていない。
 顔出しもしてなくて、プロフィールも、出身の美大名くらいしか明かしていなかった。
 年齢も不詳だ。(若いだろう、と言うのは、インタビュー記事などから察することはできたが)
 もちろん、わたしは彼がその美大を目指していたことも、受かったことも知っていたが、だからって、それだけで、イコール彼、だと思うわけがない。
 それにわたしは、当時、彼が美術部で絵を描いている事も、コンクールで入賞していたことも知っていたが、彼の絵はよく見たことがなかったのだ。
 恥ずかしいから、と言って、わたしには見せてくれなかったし。
 選択授業で、わたしは美術じゃなく、書道を取っていたし。
 美大を出たヤツが、みんな絵かきになる、なんて思ってるのは、さすがに小学生までだろう。
 美大出で、美術とは全然関係のない仕事に就くヤツだって、いくらでもいるし。(実際、わたしの職場にも、一人いる)
 まさか、あのイラストレーターが、彼だなんて。
 そんなの、わたしが気付くわけない。
 知ってたら当然、何とかごまかして、担当を変えてもらう……のは、無理だろうなあ。
 人数、カツカツだもんね、ウチって……。

「それでは、ひとまず、今日のところはこのくらいで。詳しくは、後日よろしく、お願いします……」

 もうとっくに、空っぽになっていると分かっているのに、コーヒーカップを口元に持って行ってしまう。
 こんな時は、タバコでもあったら気まずさが減少されるのだろうが、大学の時ちょっとだけ吸っていたタバコは、卒業を前にやめていた。
 彼も、タバコは吸わないようで、このカフェのテーブル席も、喫煙席だった。

「…………」

 彼は、手元にある、先程渡した資料を眺めたきり、何も言わない。
 言わないが、今はこれ以上、特に言うべきことはない。
 後は、『まさか、ホントに彼に描いてもらえるなんて! みょうじさんには一生ついて行きます!!』と、大感謝していた作家と、繋ぎをとりつつ、仕事をつめていくことになる。
 返事がなかったことは気になったが、これ以上、ここに居つづけるのは、気まずいの一言だったので、わたしは口の中で『それじゃ……』などと、もごもごと言いながら、伝票を手にして、席を立った。
 もう、10年も前の出来事だ。
 彼が本当のところ、どう思っているのはわからないが、彼だって、プロだ。
 思う事があっても、仕事とプライベートの区別くらいは、きちんとつけてくれるだろう。
 いや、つけてくれるであろう、と信じたい……。

「待っ……!」

 わたしが、立ちあがった気配を感じたのか、彼は顔をあげた。
 そこで、わたしは、えっ……!? と、思った。
 思って、立ち去りそびれた。
 だって……、

「ちょ、大丈夫……!?」

 思わず仕事相手に対する敬語も、抜けた。
 彼は、血が抜けたような真っ青な顔をしていたのだ。



「ええと……落ち着いた?」

 冷たいミネラルウォーターを、コップに注いで渡した。
 彼はそれを受け取り、一口飲んで、言った。

「はい。すみません………」

 あの後、急いで、彼を連れて店を出た。
 で、タクシーに乗って、向かったのは、わたしのアパート。
 いや、もう、どうしていいのか、わからなかった。病院とも思ったけど、彼が頑なに嫌だと言っていたし。
 とりあえず会社には、色々ぼかして、担当先まわって直帰します、と電話して誤魔化した。
 溜まってる仕事は……明日、泊りがけで片付けるよ、はあ……。

「何か、あったの……?」

 とりあえず、当たり障りなく、聞いてみる。
 なんか悩んでて、昔の知り合いを見て、嫌なことでも思い出したのかな、と思って。
 ところが。
 そう言った途端、また、彼は不機嫌な顔をした。

「……あなたが何も言わないからです」

 え、何それ。

「僕は、今日、あなたに会えるのを楽しみにしてたんです……。あなたが、担当だって聞いたから、引き受けたんですよ……っ、それなのに……」

 ええ! 嘘っ!?
 仕事受けてくれたのって、担当がわたしだったから?
 聞いてない! 全然聞いてない!
 てゆうか、メールで打診した時も、全然、そんなこと、ひとっことも、書いてなかったよね!
 だからわたし、今日、死ぬほどびっくりしたって言うのに!

「あなたは仕事の話しかしないし……」
「それは当然ってゆうか、仕事の席なんだから、仕事の話しかしないのは普通でしょ」

 わたしが冷静に突っ込むと、彼は、また、泣きながら続けた。

「たしかに仕事の席ですけど……僕は、もっと、違うこと、話したかったんです……! また、あなたとやり直せないかな、って……ぞんなことばかり考えてたんですから」
「え」

 わつぃはびっくりして声を失った。
 10年前、一方的に別れを切りだしてきたのは、彼の方だ。
 それなのに、やり直したいって……誰と?
 わたしとか!?
 思わず、内心で一人ノリツッコミをしてしまう。
 そのくらい、わたしは、彼の発言に混乱していた。

 あの時は、お互い受験に忙しくて、やや疎遠にもなっていた。
 だから、このままフェードアウトしてしまうくらいなら、はっきりと言った方がいい、と彼は思ったんだろう、とわたしは考えていた。
 なんせ、高3の初めに、彼に告ったのは、わたしの方からだったし。
 それまで同じクラスになったことがなかったが、彼の存在は、1年の時から知っていた。
 ぶっちゃけ、顔が、すっごい好みだったのだ。
 線が細く、端整で、それなのに不思議と、軟弱な感じは与えない。
 クラスの連中とつるんでバカばっかりやってるような、わたしとは違って、彼は真面目だったしバレーにひたむきだった。
 女子からの人気も高かったが、本人にその気はないのか、誰とも付き合う様子はなかった。
 だからって、そこで引き下がれなかった。
 同じクラスになったのを機に話しかけて見ると、口数は少ないものの、会話のキャッチボールはちゃんと成り立って、話していると、楽しくて。
 だから、欲が出た。
 ダメもとで、告ったのだ。
 玉砕しても、彼なら、それを言いふらしたりはしないだろう、とも思って。
 ただ、わたしが、仲良くなったばかりの友人をひとり、失うだけだ。
 それなのに、何故か彼は、わたしの告白に、応えてくれた。
 舞い上がるくらい嬉しくて、教室では、今まで通り何気ない風にしていても、休日には、ふたりでたくさん、遊んだ。
 セックスも、した。
 わたしの初めての相手は彼で、彼の初めての相手も、たぶんわたしだったんだろうと思う。
 そう言う意味でも、彼は特別だった。
 でも、それも、高校生活、という枠組みの中の出来事だったのかもしれない……。
 彼に分かれを切りだされた後、わたしは、自分に、そう言い聞かせてきた。
 それなのに……。

「聞けないよ……そんなの」

 泣いて、すがりついて。
 どうしてわたしと別れるの、って聞けばよかったって言うの?
 それで、結局ダメだったりしたら、立ち直れない。
 黙って、頷くのが、せめてもの、プライドだった。

「だったら……、別れたく、なかったなら、どうして、別れようなんて言ったの?」

 そこが、さっぱりわからなくて、彼に問うと、彼はひと呼吸おいてから言った。

「不安だったんです……。だんだん会えないでいることが増えて……。受験だからしかたないって思いましたけど。本当は僕に、飽きたんじゃないか、って……。受験の披露とかストレスとかで思考がうまく働いていなかったんです。そのときの僕はあなたのことになると本当に不安がっていましたらか。だから、あなたから、別れる、って言われるくらいなら僕から言おうって……そう思ったんです」

 なんだそれ!?
 ……という、叫びを、わたしは辛うじてのみこんだ。
 彼って、そこまで、ナーバスだった?
 いや、受験生だったからな、考えが暗くなってたのかもしれないけど……。

「そんなわけないでしょ。わたしの方から告白したのに」
「いえ、それだって……! 信じられなくて。あなたが僕のこと好きだなんて……。あなたは男女問わずに友人がいっぱいいましたし。僕は、気のきいたことも、言えないし……」

 彼はネガティブに続ける。
 そりゃ、話すのは、わたしの方が多かったけど。
 わたしの話にきちんと耳を傾けてくれるのが嬉しかったし、彼は口数こそ少なかったが、じっくり考えてから話す方なんだってのは、わかってた。
 友達が多いって言っても、馬鹿騒ぎする相手ってだけで、アイツらの方も、どうしてもわたしじゃなきゃダメだったわけじゃない。
 現に、卒業してからも付き合いが続いている友達なんて、数えるくらいだ。
 そういうのは、友達いっぱい、っていうのとは、違うと思うんだけど……。

「………わたしは、蛍くんのこと、好きだったよ。話すのも、楽しかったし。その他大勢の、『友達』なんかと居るよりも」

 心をこめて、そう言ったんだが。
 彼は更に、顔を歪めた。

「……どうして過去形なんですか……」

 ええと……!
 過去のことを話していたから、過去形になっただけで!
 ていうか、今の彼のことは、わたし、何も――仕事の経歴を除けば――知らないわけで!

「好きなだけ怒っていいけど、とにかく話を聞いて」

 彼を見てると、何が何だかわかんなくなりそうだったから、わたしは彼の頭を抱え込むように、抱きしめた。
 そして、言った。

「わたしだって……、別れたく、なかったよ。引き止めなかったのは、つまんない、意地、みたいなヤツで……。ホントは、ずっと、蛍くんと、付き合って、いたかった……」

 言葉にしたら、すとん、と胸のつかえが下りたようだった。
 わけがわからないまま別れて、ずっと、わだかまっていたもの。
 そりゃ、この10年、他の誰かと、何もなかったわけじゃない。
 でも、たぶん、ずっと引っかかってたんだと思う。
 だから、誰とも、長続きしなかったんだろう。

「……それ、本当ですか?」

 わたしの腕の中から、顔をあげて、彼が尋ねた。
 もう、泣いてなかった。
 わたしが、うん、と言うと、彼は目を、嬉しそうに細めた。
 そして、不安そうに言った。

「また、僕と、付き合ってくれますか……?」 
「うん。いいよ」

 頷いたら、何も言わずに、唇が降ってきた。
 手が、シャツのボタンをはずしにかかってくる。

「ちょっ……! え、うそ……!?」

 頷きはしたが、何、この急展開。

「いいですよね? だって、僕、10年間、ずっと我慢してたんですよ。もう限界なんです……」

 耳を軽く噛みながら言われて、背筋が震えた。
 そして、どこか哀れっぽく続けた。

「ダメ、ですか……?」
「………っ! ダメ、じゃないけど……」
「…………」
「わかった。わかりしました。だから、そんな泣きそうな顔しないでよ」

 器用な手に、シャツを脱がされながら、ああそうだった、とわたしは思い出していた。
 彼は、口数は少なかったが、手は早かったのだ。
 彼は楽しげに、わたしをあちこち舐めながら、裸に剥いていく。
 10年と言う歳月が、たちまちの内に、溶けていった。
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