第17回 | ナノ
会いに行ってもいいかな。
たったその一文を打つのに、どれだけの時間を要したのだろう。気づくともうお風呂に入らなければならない時間で、それは同時にこの一文を伝える相手が携帯を手に取る時間に近づいている証拠で。今日も部室で見るのだろうか。それともお風呂に入った後だろうか。いずれにせよすぐに返信が来るかどうかは定かではないので、あまり期待はしていない。結局返ってこないことだって間々ある。きっと打ち合わせとか、友人同士の付き合いで忙しいんだろうな、とか思ったりしているものの、実際はどうか分からない。ただ無視しているだけかもしれないし、忘れているだけかもしれない。でも彼は私と違って有名人であるも同然の人だから、そんな人に想われているというだけで光栄に思わなくちゃいけなくて、だから返事が来ない理由だとかを考えるのはとっくにやめた。考えるだけ無駄だと思った。思い込みの連鎖に嵌れば嵌るほど、自分自身が辛くなるだけだ。
やっとの思いで完成させた一通のメールを、送信ボタンを押すことで送信する。画面に表示されていた手紙マークが画面の上の方へスライドして行き、『送信されました』という一文が表示されたところで、私はパタンと携帯を閉じる。このまましばらく待っていようかな。何分かしても来なかったらお風呂に行こうかな。そう考えていた矢先手中の携帯がメールの受信を知らせて何度かバイブレーションを鳴らした。もう返信を送ってきたのかと慌てたが、それにしてはあまりにも早すぎるのではないだろうか。携帯の小窓を見ると『成宮鳴』という文字が流れていて、私は慌てて彼からのメールを開いた。そこには無機質な字で「いいよ」というたった三文字のひらがなが並んでいて、私は不覚にも嬉しさで泣きそうになってしまった。会える、会いたい、彼に会って声を聴きたい。そう思った私の行動はとても早かった。


***

「なんか忠犬みたい」

野球部の寮の前にある低い階段に腰を下ろして待っていると、背後からサンダルを引きずる音が近づいてきた。それに重なって聞こえる、笑い混じりでそう言う声。聴きたくて仕方なかったその声の方へ振り返った私と目が合った鳴くんはニッと歯を見せて笑った。有名ブランドのジャージとTシャツ、学校名が胸元に書いてあるウィンドブレーカーという恰好の彼は、よっこらしょっとなんて口にして私の隣に腰を下ろす。アルビノみたいな白い髪が月光に当たってキラキラと輝いているようにも見えた。

「わたし、犬?」
「だってさ、門の前で座って俺が出てくるの待ってるって、なんか躾された犬みたいじゃない?」
「躾・・・・」
「あ、そうなると飼い主は俺ってことでいいのかなー」

嬉しそうに一人で頷いている鳴くんの傍らで、私は納得がいかず内心でむくれた。立って待っていると疲れるから座っていただけだし、鳴くんから座って待ってろと言われた覚えは一度もない。決して躾されたわけではなく自分の意思だ。
私の顔を見た鳴くんがプッと吹き出し背中を丸めて蹲る。肩や背中が揺れているのは、きっと笑っている所為だ。声も上げずに全身で笑う鳴くんは、それでも時折ブフッとかクッとか、声にならない声を発している。人の顔を見て笑うなんて失礼だ。そんなに私の顔、面白かったのかな。自分で見ていないから分からないが、きっと不機嫌な顔をしているに違いない。

「ひー、めっちゃおもしれー顔!」
「・・・失礼だよ、人の顔見て笑うなんて」
「だってすっげー面白かったんだもん!傑作傑作!写真に撮りてーからもっかいして!」
「できないよ!どんな顔してたか自分で分かんないんだから・・・」
「あはは!ほんっとおもしろいよねー」

音もなく鳴くんの笑顔が消える。真剣に満ちた彼の表情はとても綺麗で端整。宝石みたいに輝く大きな碧眼に吸い込まれそうになるぐらい、私はその目に惹きつけられる。逃げることなんてできない。目を背けることなんて、絶対にできやしない。本当に、本当にかっこいい、と、こういう表情を見るたびに感じる。
鳴くんの左手が私へ伸びる。マメだらけのその手が私の頬を数回撫でまわし、そのまま頭の上に這い上がる。優しさが滲み出ていると感じたのは、錯覚ではないと信じたい。だって彼と私は、ぎこちないながらも恋人同士なのだから。

「・・・今日は何分待ってた?」
「・・・た、多分30分ぐらい」
「そっか、ごめんね?」
「・・・だって、会いたかった、から」
「・・・可愛いなぁ」

俺にはもったいないぐらい、と呟いて、私の唇に音も立てずキスをした。そっと押し付けられた鳴くんの唇はすぐに離れていき、それに名残惜しさを感じてしまう私はとことん欲張りだなと思ってしまう。鳴くんの貴重な時間を私に使ってくれるだけでも喜ばなきゃいけないのに。キスしてくれるだけで、私には泣いてしまうぐらい喜ばしいことなのに。それ以上を求めてしまっては絶対にダメだ。それだけは絶対にしてはいけない。それをしてしまったら、私は。

「じゃあ、雅さんと打ち合わせあるから」
「う、ん。ありがとう」
「寂しがり屋はほっとくと死んじゃうかもしれないからさー」
「そ・・そんな、こと、」
「うーそ!話してると面白いし、いい気分転換になるし」

じゃーね!と手を振り背中を向けた鳴くんを見送りながら、胸が痞えた感覚に苦しさを覚えて、胸元をギュッと握りしめる。こういう関係がこれからもずっと続いて行くのだと考えるだけで息がしづらくなるのは、まだ私が弱いだけなのだと思い込んでいたい。それは彼の無邪気さなのか、意図的にしていることなのかは判らない。今更気づいたところで私はもう彼から逃げることなんてできなくなっていた。寂しがり屋がどれだけ長い耳を羽ばたかせても、あの白く眩しく輝く太陽には触れるどころか近づくことさえできやしないのだから。
視界の歪みを服の袖で押さえ込み、私は乗ってきた自転車のスタンドを蹴り上げる。ペダルと踏むと錆びれた音がして、聞こえないはずの私の心の悲鳴が聞こえた気がしてまた世界が揺れ動いた。


飛べないうさぎ

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