第17回 | ナノ
 何年ぶりかに風邪をひいた。風邪ってこんなかんじだったけと感慨深くなるというか、懐かしいなあと思うくらい久しぶりの風邪。熱があるせいで頭がくらくらする。
 学校を休むのは本当に久しぶり。いつ以来だろうと思い出そうとしても記憶に靄が掛かっていて上手く思い出せない。でも、わたしはよく風邪をひいたし、よく熱を出した。それは覚えてる。あの頃はそんな自分が嫌で仕方なかったけれど、今はすごく懐かしく感じる。不思議な感覚だ。
 わたしは病弱な子供だった。小学生の頃は体が弱くて、熱を出したり、体調を崩したりと風邪をひきやすい体質をしていた。少しでも咳をすると病院に行ったし、微熱でも学校を休んだ。けれど、中学に上がる頃には医師もびっくりするほどの健康体になっていた。
 風邪はひきにくくなり、体調を崩すことも少なくなった。だから次第に学校を休む回数も減っていった。
 体が弱いせいで両親には大変な苦労を掛けたと思う。わたしが風邪をひかないように神経質になっていたし、いつも気に掛けてくれた。本当に心配ばかりかけていたと思う。だから、少しでも安心してほしくて、苦手な運動を克服するためにテニス部に入った。
 元々体力がなかったから初めの頃は、みんなについていくのが精一杯で、息が上がるのも早くて。足を引っ張ることの方が多かった。予想外の練習量に何度も泣いたし、何度も吐いた。でも、わたしはめげずに努力を重ねた。次第に努力は報われて、みんなと肩を並べるくらいの上達ぶりを発揮させた。レギュラーにはなれなかったけど、テニスが楽しいと思う心は本物だった。これまで培ってきた努力が形となって心身に現れているのだと思うとすごく嬉しかったし、テニスを好きになれて本当に良かったと心から思えた。
 高校生になっても、わたしはテニスを続けた。中学以上に厳しいところだったけど、授業も部活も本当に楽しくて、毎日が充実していた。大変なことも多いけど、それ以上に楽しいことや嬉しいことも多い。毎日が笑顔だった。
 でも、充実した日々は楽しいと同時にハードだった。一日は朝練から始まり、本業である勉学に勤しみながら放課後は練習量が多い部活。帰宅はいつも遅く、お風呂とごはんを済ませて予習と復習をしているとあっという間に時間が経ってしまう。慣れてしまえば、体調管理は難しくないだろうが、わたしはそういう細々としたことは苦手。
 慣れてしまえば、体調管理は難しくないだろうけど、わたしはそういう細々としたことは苦手だ。とにかくかんばる! それしかなかった。
 少し体が重くてもちょっと疲れが溜まってるだけだろうと思った。しばらくすれば落ち着くだろうと思った。日に日に増していく倦怠感に首を傾げたつつも気のせいだろうと言い聞かせて部活に励んだ。けれども、それは気のせいなんかじゃなくて、体調不良の合図だったのだ。
 その日はやむなく学校を休むことになった。
 医師の診断では二日は安静にすることと言われたため、今日から二日間は自宅療養だ。自業自得といってしまえばそれまでだけど、自己管理が出来なかったことが悔やまれて、物凄く情けない気持ちになった。


 * * *


 夕方。部活が終わって早々、宮地は居残り練はせずに切り上げた。珍しいなと仲間たちに驚かれたが、用事があんだよと返せば、そういう日もあるよなと途端に興味が離れていった。
 手早く着替えを済ませ、お疲れと軽く声を掛けてから部室を出てた。そして校門を出て直ぐに、携帯を取り出した。着信履歴の中から目的の番号をタップする。耳元に当てて、呼び出し音に耳を傾けた。一回、二回と呼び出し音を数えながら五回目の呼び出し音でようやく相手が電話に出る。

『……もしもし? 清志?』
「ひでー声だな」

 声が枯れたような、鼻声混じりの聞き取りづらい声だった。

「風邪だってな」
『うん。ちょっと頑張り過ぎちゃったみたい』
「程々にしとけっつただろうが」
『ふふ。だって、テニス楽しいんだもん』
「ふーん」

 電話越しの相手はみょうじなまえ。宮地と同じ秀徳高校に通う一年生で、年は二つ離れていた十五歳、幼馴染みという繋がりを持った恋人だ。
 なまえが風邪をひいたというそれは、宮地の母から聞かされたものだった。何故母が知っているかといえば、なまえの母と親友同士だからで。よく連絡を取り合っているからたまたまなまえが寝込んでいるというそれを聞いのだろう。そんなわけで、部活が終わったら見舞いに行ってあげたら? と今朝、朝練に行く前に告げられたのだ。

「今からそっち行くから。なんか欲しいもんとかあるか?」
『んー……アイス、食べたいかも』
「わかった。コンビニで買ってくわ」
『あ。あと』
「あ?」
『清志に会いたい』

 その言葉にぞわりと背中が震え、全身に熱が走った。動揺が伝わらないように平静を装おうが、内心は穏やかではない。酷く焦っていたし、混乱に近いものを覚えた。心臓に悪いと思いながら素っ気ないそれで口を開いた。

「っ……、着いたら電話すっから」
『うん。わかったー』

 プツリと電話が切れる。ツーツーという電子音を聞きながら、宮地はその場にしゃがみこんだ。耳元から携帯を離して、画面を見つめる。

「たく……なんつーこと言い出すんだあいつ。まじありえねー」

 かわいすぎんだろ、と小さく零して、蜂蜜色の髪をくしゃりと掻き上げた。


 * * *


 着信を知らせる音が鳴っている。きっと清志からだ。寝ていたから、頭がぼうっとするけれど、留守電に切り替わる前に拙いそれで電話に出た。

「……ん、きよし?」
『あー、寝てたか?』
「ちょっとだけ」
『おまえんち着いたんだけど? つか、おばさんたちいねーの?』
「きょう、おそくなるっていってた」
『はあ? んじゃ、メシどーすんだよ』
「アイス」
『てんめ、ふざけんな晩飯がアイスとかバカだろっ』
「えええ」
『たく……インスタントのおかゆ買ってきて正解だったな。とにかく鍵あけろ』
「はあい」

 携帯を脇に置いて、ベッドから抜け出す。パジャマの上に上着を来て、マスクをした。乾燥しているのか喉に痛みを覚える。サイドテーブルのペットボトルを取って、こくりと嚥下すると、少しだけ喉の痛みが和らいだ。その足で部屋を出る。玄関までの道のりがやけに険しく感じるのは、熱があるからだろう。よろつきながらも一歩一歩前進し、どうにか玄関につくと、カチャリと鍵をあけた。

「きよし……」
「おー、って、おまえ大丈夫か?」
「ちょっとつらいかも」
「わりぃ、無理させたな」
「ううん。だいじょうぶ」

 そう言って、笑ってみるけど、口元はマスクで隠れているから笑ったかどうかは清志には分からない。

「ほら、アイス買ってきたぞ。あとおかゆも」
「ありがと」
「んじゃ用意すっから…。上がってもいいか?」
「うん。どーぞ」
「おー、」

 清志はここに何度も来ているから勝手が分かっている。わたしがこうして熱を出したときは、いつも看病してくれたし、お見舞いに来てくれた。ただの幼馴染みだったときも、特別な関係になってからもそれが変わらないことがくすぐったいような、気恥ずかしいような気がするけれど、でも、すごく嬉しかった。

「おい、なまえ。自分の部屋に戻ってろ。これあっためたらアイスと一緒に持ってってやっから」
「えーもどりたくなーい」
「はあ?」

 何言ってんだてめえ、ときつい眼光を向けられる。反射的に頷きそうになるけれど、わたしは断固として譲らなかった。

「ベッドでねるのつかれたの。ねすぎてダルいってゆうか……。むりしないからいっしょにいてもいい?」
「…………」
「だめ?」
「っ、……はあー」

 清志は溜め息をついた。ぶつぶつと何か言っているみたいだけど聞き取れない。きっと轢くとか殴るとか物騒なことなんだろうなあと思うと背筋が震えた。

「いいけど、あったくしてろよ。ぜってえ体冷やすな。じっとしてろ、動くな」
「はあい」

 わたしは清志のあとに続いて、リビングに向かった。


 * * *


 なまえの家はなまえ以外誰もいなかった。玄関から出てきたなまえは、赤い顔をしていた。額に冷えピタをして、顔にマスクをして、パジャマの上から厚手の上着を着ている。髪に寝癖がついていたけれど、少し抜けた感じがかわいいと思えた。惚れた弱みというやつだろうかと、苦笑が零れる。
 なまえの了解を得て中に入る。リビングに向かい、ソファになまえを座らせると、大人しくしてろと言い置いて、宮地はキッチンに入った。インスタントの粥を袋のまま、沸騰した湯の中に放って数分温める。それから皿に開けて、グラスの水と薬とアイスと一緒にトレイに乗せた。

「出来たぞ」

 トレイごとなまえの前に置く。宮地はなまえの隣に座り、スプーンを手渡した。

「おら、食え」
「ありがと。わあ、たまごのおかゆだあ」
「おまえたまご好きだもんな」
「うん」

 なまえはマスクを付けたまま、顎の下まで下げると、ふうふうと粥を冷まして、はふはふと熱そうにしながらも美味しそうに咀嚼していく。食欲はあるようで、少しだけ安心した。しかし、時折見え隠れする赤い舌が扇情的で、看病とは違う行為への欲求が強くなる。理性を堅くしようとするけれど、脳裏にちらついてどうにも上手くいかない。宮地はなまえから目を逸らすと、小さく息をついた。
 それから数分後。なまえは粥を完食し、程好く溶けたアイスを口にしていた。

「ほんと、好きなもんは底無しっつーか、美味そうに食うな」
「えへへ。だっておいしいだもん。あ、きよしもたべる?」
「いらねえ。風邪がうつんだろ」
「えー。あーんってしてあげようとおもったのにぃ」
「いらねえよバーカ」
「うう。ひどい。きよしのいじわるっ」
「どこが意地悪なんだよ。たく……おまえのために買ってきてやったんだからおまえが食えばいいんだよ。つか、俺甘いもん得意じゃねーしな」
「ふーん」
「ほら、さっさと食って薬飲めよ」
「はあい」


 * * *


 薬を飲み終えると、下げていたマスクを定位置に戻した。こんこんと咳をする。喉に違和感を覚えた。昼頃に飲んだ薬の効果が切れ掛かっているのかもしれない。薬を飲んだから、しばらくすれば効いてくるはずだ。

「おい、なまえ」

 キッチンから戻ってきた清志が声を掛けてくる。わたしが使っていた食器を洗ってくれたみたいだ。時間を刻む秒針の音と一緒に、乾燥機の音が静かに流れてくる。

「おまえ部屋いって寝ろ。顔真っ赤だし、目も潤んでるし……」
「だいじょーぶだもん」
「はあ? どこが大丈夫なんだよ」
「きよしのきのせいだとおもう」
「気のせいなわけあるかっ。つーか、熱上がってんだろ、これ」
「わたしがだいじょーぶっていってるんだからだいじょーぶなのっ」
「るせ。わがまま言うな轢くぞ」
「こ、こわいこといわないでよっ! ぼうりょくはんたいっ!」
「てめえがくだらねーこと言うからだろうが。……たく、あんま騒ぐなよ。熱上がんだろ」

 清志は「ほら、冷えピタ換えてやっから」と言いながら、わたしのおでこの冷えピタと交換してくれた。ジェル状のそれはひやりと気持ちよくて、一瞬だけど熱が霧散したような気がした。「つめたーいきもちー」と言いながら、わたしは頬を緩めた。

「おばさんたちが帰ってくるまでここにいてやるよ。……危なっかしくて見てらんねーしな」

 清志の言葉に気分が高揚する。わたしは身を乗り出す勢いで、「いいの?」と聞き返した。

「ああ。母さんには言ってあるから大丈夫だろ」
「えへへ。ありがと」
「別に……。お礼言われるほどのもんでもねーよ」

 清志が照れてそっぽ向いてしまう。そんな彼も大好きだなあと思ってしまった。


 * * *


 宮地は焦っていた。どっどっどっという心臓の音と、理性の壁が崩壊していく音を耳の奥で聞きながら、蜂蜜色の瞳の中になまえを映す。冷えピタを額に貼り付けたなまえが上目遣いで見つめてくる仕草が蠱惑的だ。熱で浮かされた真っ赤な頬と潤んだ瞳がそうした雰囲気にさせているのだろう。
 病人なのだから無防備になるのは仕方がないことかもしれないが、こうも煽られると強固な自制心が脆くなるというものだ。
 少し乱れた髪、着ぶくれした格好。冷えピタとマスクでがっちり装備しているのに、それでも可愛いと思ってしまうのだから末期としか言えない。
 宮地はなまえの眼前に立ったまま、腰を下り、手をテーブルについて屈むように顔を近づけた。

「おまえ……無防備すぎ」

 そう言って、マスク越しにキスをした。不織布のざらついた感触が唇を掠める。離れる寸前に瞼を開けると、驚きを露わにしているなまえと目が合った。

「な、な……っっ!」

 なまえはいっぱいに目を見張り、熱で真っ赤な頬を更に赤くさせている。

「くく、すげえ顔。動揺しすぎ」
「だ、って! き、きよしがへんなことするからっ」
「変じゃねーだろ」
「……うつってもしらないよ」
「うつんねーよ。マスクにしたんだから」

 言いながら屈んでいた体勢を正した。テーブルについていた手とは反対の手でなまえの髪をくしゃりと撫でる。

「おら、そろそろ部屋行くぞ」
「……うん……」

 くすぐったそうに首を竦めたなまえを椅子から立ち上がらせ、部屋に行くよう背中を支えた。だが、なまえは何か言いたげで、少し足を進めて直ぐに宮地を見上げてきた。

「ねえ、きよし」
「ん?」

 どうした? と目線だけで聞くと、ぼそぼそと何かを呟く声が洩れる。辛うじて何かを喋っていることしか分からなかったが、上手く聞き取れなかったのはマスクが邪魔をしているからだ。

「なんだ? 聞こえねーんだけど」
「っ……」
「ほんとどうした? 具合悪くなったか?」
「ち、がう」
「ふーん。じゃあ、なんだよ」
「あ……あのねっ」
「おう?」
「もういっかい」

 なまえが俯き加減でちらりと見上げてくる。上目遣いをそのままに、宮地の服をキュッと握って、今度は聞き取れる声音で言葉を紡いできた。

「もっかい……して」
「…………」
「ちゅーしたい」

 宮地は一瞬目を見張り、けれども直ぐに意地の悪い笑みを浮かべた。

「うつるんだろ?」
「……うつらないもん」
「あっそ」

 笑みはそのままに、なまえの肩に手を置いた。少し屈んで顔を近づける。マスクに触れる寸前で、目を閉じた。
 マスク越しにふにっとした感触が伝わってくる。押し付けるようなそれだが、キスをしているような感覚はあるため、これもこれで一応キスの部類に入るのだろう。
 そっとなまえから顔を離す。なまえはゆっくりと目を開けた。

「満足か?」
「……うん」
「なら、部屋行くぞ」
「……うん」

 なまえを促してリビングを出る。部屋は二階のため、階段近くに向かった。なまえがゆっくりと階段を上がる。その後ろを宮地が着いていく形で、なまえが転んだり躓いたりしないように背中を支えた。
 階段を上がり終えると、なまえがぴたりと止まる。そして、躊躇いがちに後ろを振り返ってきた。

「かぜなおったら……」
「…………」
「こんどはちゃんと……きすしてくれる?」
「……。してやるよ。だから早く治せよ」
「うんっ」

 眉を下げてとろんとした目元が視界に入る。半分はマスクに遮られているため口元は見えないけれど、きっと溶けそうな笑みをしているだろう。
 この柔らかい雰囲気が好きだった。ちょっとした仕草も、目を細めるそれも、笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、何事にも一生懸命な姿も。彼女を構成する色んな要素が好きだった。
 だから守ってやりたいと思うし、大切にしたいと思う。
 最初は分からなかった。すべては幼馴染みとしての責任感から来るものだと思っていた。守ってやりたいのも大切にしたいのも、幼馴染みだからだろうと思っていた。
 だが、なまえが他の男といると胸がざわついた。他の男と喋っているだけで胃の腑が重くなった。大切にしてきた幼馴染みを取られて面白くないだけかと思ってみても、モヤモヤした黒いものは晴れなくて。余計に腹が立った。
 なまえを取られたくないと思った。彼女の眼差しも、声も、体温も、存在そのものを。すべて自分だけのものにしたいと強く思った。
 宮地は恋をしている。自覚したのは中学のとき。告白したのは高校に上がってから。付き合い始めたのはその頃からで、自分のものになったと思った瞬間の感覚は、忘れようと思っても忘れられないものだ。この感覚は一生忘れることはないだろう。あんなにも一喜一憂したのは初めてだったのだから。

「おい。ぼーっとすんな。いくぞ」
「はあい」

 手を伸ばせば届く距離というのは妙な安心感がある。今までも近くにあったものだが、この先もずっと近くにあるのだ。
 このまま高校を卒業して大学に入って社会人になってからもずっと続いていく。未来をなまえとふたりで歩んでいきたいと思う。それだけの覚悟がある。
 だからこの先もずっと傍にいたいし、ずっと守りたいし、ずっと支えたい。そして誰よりも幸せにしたい。世界の誰よりも幸せにしたい。
 それだけの想いが宮地にはあった。
 だが、今は状況が悪い。いくら大切な存在だからとはいっても無防備ななまえとふたりきりという状況は高校生男子にはきつすぎる。どんなに想いが純粋なものでも、どこまで理性が保てるか不安だし、保てたところでそれがどこまで自制できるか分からない。まるで拷問だ。
 おばさんたち早く帰ってこねーかな。このままじゃマジでやばい。……いろんな意味で。
 それが今現在の宮地の心境である。
 なまえを寝かしつけたら即行で部屋を出よう。おばさんたちが帰ってくるまで部屋の外に居よう。そこで待機だ。
 死刑台に上がるような心持でなまえの部屋に入る。その瞬間、くらりと眩暈を覚えた。同時になまえの匂いでいっぱいの空間に、理性がひとつひとつ崩れていく音が頭の中に響く。危険だという警戒音が鳴っている。
 宮地は軽く息をついた。素数を頭の中で考えながら、耐えろ耐えろ、と自身に言い聞かせる。それがいつまで持つかは分からないが、なまえを泣かせることだけはしないと心に誓った。


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