どくり。心臓の音がいつもより大分大きく聞こえる。理由はわかってる。斜め前の席に彼が座ったからだ。 少しでも気持ちを落ち着けようと十五分前に買ったシナモンラテを口に含むと、独特の甘い香りが昂ぶった感情を抑え込んだような気がする。 気がするだけで、実際そんなことはないのだが。 どうしよう。声を掛ける?マグカップを両手で持ちながらさりげなく彼を見てみると私には気づいていないようで、携帯に目を落としている。黒縁眼鏡越しの彼の目は瞬きを数度繰り返した。 結局彼に私の存在を気づかせるなんていう勇気が出ないまま、十分が経った。彼は相変わらず携帯を見ているけどメールを打つ素振りも見せない。携帯を閉じ、壁にかかっている時計を見てため息を吐いている。 ここまで見つめていると何だかストーカーみたいで流石に気持ち悪い。そう思って視線をそらした時、「あれ?」なんていう拍子抜けしたような声が斜め前から聞こえた。 「みょうじ?」 「あ、御幸くん」 「さっきから見てたのお前だったんだな」 「あ、あはは……バレてたんだ」 マグカップを置いて笑う彼と目が合わせられなくて視線を伏せた。あんなにジロジロと見ていたのだからバレていて当然なのだろうけど、本人に指摘されると少し、いや、かなり恥ずかしい。 「ま、あんだけ見られてたらいやでもわかるだろ。みょうじとは思わなかったけどな」 「私もまさか御幸くんとこんなところで会うとは思わなくて、びっくりして、ガン見しちゃった」 言い訳がましく言葉を紡ぐと彼はいつものように笑っていた。さほど遠くはないけど対角線上にいる私たちはこのままでも会話はできるけど、御幸くんの隣、つまり私の真ん前にいる大学生らしき人の視線が私たちに席の移動を促していたおかげで、御幸くんが私の隣に移動してきた。 どくり。また一段階音が大きくなる。 「今日は野球部お休みなの?」 「ああ。珍しいよな。午前中だけ練習で午後はオフ。だからここで待ち合わせしてんだ」 「へえー……」 御幸くんは誰かと待ち合わせしていたのか。なるほど、だからさっきから携帯を見たり時計を確認したりしているわけだ。ちらりと時計を見ると二時三十分の少し手前まで針は動いている。 何時に待ち合わせしているのかは知らないが普通キリのいい時間を指定するはず。十分ないし十五分間隔が普通だから、御幸くんは結構待たされているようだ。 「みょうじは?」 「私?」 「ん」 御幸くんがマグカップを傾けながら私に話を促す。ちらりと携帯を確認したのを私は見逃さなかった。 「今日は何の予定もないから久しぶりにお買い物しようかなって出てきたの。で、疲れちゃったから休憩しに」 「買い物か、女子は好きだよなー」 「雑貨とか見てるだけでも楽しくならない?」 「生憎俺は男なもんで」 「なら、ほら、例えばスポーツグッズのお店とかは?」 「あー、それならまだわかる。でもそんなとこ女子が行ったってつまんねーだろ?」 「んん……まあ大多数の子はそうなんじゃないかな……」 「みょうじも?」 「うん……雑貨屋さんの方がいいかな」 御幸くんと一緒なら別だけど。そんな言葉はシナモンラテで飲み下した。 御幸くんが隣にいるだけでさっきまでのシナモンラテがやけに美味しく感じるし、チェーン店であるこのカフェがとてもお洒落な代物に思えてくるから不思議だ。 まるで魔法が何かにかけられたみたいに世界が変わる。 普段は同じクラスとはいえ大して会話もないし毎日野球に明け暮れている彼が、まさか私のことを覚えてくれているなんて思いもしていなかった。さっきから「みょうじ」と呼ばれるたびに体温が上昇しているような気さえする。 「やっぱみょうじみたいに女子って感じのやつは雑貨屋だよな」 御幸くんがふ、と口元を緩めて笑った。微笑んだ、という方が正しいかもしれない。私みたいに女子って感じの、ってことは、褒められたんだろうか。 現金な性格のおかげで私まで口元が緩んでくる。ただ、それを悟られないように、話を変えた。 「そういえば待ち合わせなんだよね?まだここにいて平気なの?」 「平気っつーか、連絡取れねーんだよ。携帯は圏外らしいし。遅刻するような奴じゃねえのに……」 御幸くんと待ち合わせということは野球部の人だろうか。クラスにいる元ヤンと噂の野球部を思い浮かべる。クラスにいる時はいつも二人でいるし、やっぱり彼かな、待ち合わせ相手。ヤンキーは意外に几帳面だとか礼儀正しいだとかどこかで見たことがある。 心配そうな表情を覗かせた御幸くんの横顔にまた鼓動に影響を与えてくる。彼のこんな顔初めて見た。柔らかく笑う姿も、少し心臓そうに目を伏せる姿も、クラスで見たことはない。 「心配、だね」 「ああ……あ」 御幸くんの右手側に置かれていた携帯が鳴った。誰かからの着信を告げているそれが机を伝って私にも振動を教えてくれる。ディスプレイは見えないが恐らくその待ち合わせ相手からだろう。だって御幸くんの表情が安心したようなものに変わって、すぐ携帯の着信ボタンに指を重ねていたから。 「もしもし?今着いたのか?いや、俺も今着いたとこ。野球部のミーティングがあったんだよ。はは、良かったよお互い遅刻で。ああ、うん。了解。俺改札出ちゃったからもっかい戻るな。そっから動くなよ?ん、じゃあまた後で」 お互い遅刻?今着いたとこ?彼は何を言っているんだろう。もうかれこれ三十分はこのカフェにいるし、きっと待ち合わせ相手が来ないからこのカフェに来たんだろうに。電話の相手は、待ち合わせ相手は、御幸くんがそんなに気を使う相手なのだろうか。 飲もうとした残り少ないシナモンラテが入ったマグカップを両手で持ちながら御幸くんを見ると、やはり安心したように笑っていた。 「あー良かった」 「何だったの?」 「アイツが乗ってた電車が一時間もトンネルの中で止まってたんだとさ。通りで圏外な訳だ」 「電車……?」 野球部はみんな寮に入っていると聞いているし、クラスにいるもう一人の野球部だって寮に入っている。なら電車なんて使うわけないのに。 「ああ。アイツんち学校からは遠いんだよ」 「そうなんだ……ってことは、野球部の人じゃないんだね」 「あ……はは、まあ、彼女ってやつ?」 「彼女……」 「っと、悪い俺もう行かねーと。話し相手になってくれてありがとな」 「う、ううん。またね」 「またな」 御幸くんは今まで一度だって見せたことのないような笑顔を残して去って行った。 彼女、いたんだ。その言葉の重みが一人になった今、のしかかってくる。大切なんだろうな。だから一時間も待たされたって文句一つ言わず、まるで自分も遅刻したかのように言ってのけたんだ。彼女が気にしたりしないように。 「……ぬるい」 マグカップを傾けてシナモンラテを口に含んだ。ラテの暖かさも、私の気持ちも、全て御幸くんに持っていかれてしまったかのようだ。 「ぬるいなあ」 誰にも聞こえない程度の小さな声。目の前に座る大学生らしき人はイヤホンをしているし誰も私の呟きなんて気にもとめていないことだろう。 御幸くん一人にこんなにも心を揺さぶられてる。彼を見つけて隣に座れただけなのに舞い上がったり、彼に彼女がいるとわかって真冬さながらの風が胸の中を吹きすさんでいたり。 「……あーあ」 これ以上何かが口をついて出るのを防ぐために、マグカップの底数センチに残ったシナモンラテを全て飲み干した。 あなたはわたしの愛しい悪魔 |