彼女のあんな姿を目にしたのは単なる偶然からだった。 「あ。」 熱気の籠もる体育館は午前10時過ぎ。夏休みもとうに終わり、暦上は秋の穏やかさを感じ始める日々に移り変わっていた。ところが今日はまるで真夏を彷彿とさせる暑さで、午前中だというのに屋内に籠った独特の熱は容赦なく体力を奪っていった。日本の湿度の高さが成す暑さに慣れる日は来るんだろうか。顔には出さず内心うんざりしながらスクイズボトルを片手に少しでも涼める、熱を吐き出せる場所を探した。 水分補給のために与えられた短い休憩をグラウンド側の外階段で過ごすようになったのはいつからだろう。 この時間日陰に当たる屋外は決して多くなく、特等席になりがちなこの場所は自然とレギュラーが占有していた。腰を下ろしたコンクリートはひんやりと冷たく、思わず静かに息を吐いてしまう。練習中は閉め切っているスライドドアもこの時ばかりは風通しを良くするために開け放つけれど、一度上がってしまった室温は中々下がらない。やはり涼しくなるには外に出るのが手っ取り早い。 「あ。」 「どうした敦?」 「あの人、こないだ表彰されてたよねー。」 「だれ?」 「ほら、今走ってる人。」 綺麗に整備されたトラックを淡々と走っている、その姿には見覚えがあった。二人して指で示しながら不躾に見詰めていたからか。徐々に近付いてくる相手がこちらに気付いたようだった。 「あ。」 俺たちの目の前を通り過ぎようとした時、彼女は小さく手を振ってくれた。“氷室くん、おはよう。”それはいつもクラスで会う時と変わらず同じように。反射的に俺も手を振り返す。でも、普段より反応が遅れたのは彼女がユニフォーム姿で、いつもはおろしている長い髪をポニーテールにしていたからだろう。 その姿がいつになく新鮮だった。 「室ちん知り合い?」 「クラスメイト、と言うか編入して以来席が隣で、文系科目で助けて貰ってる頭が上がらない相手、かな。」 「へー。」 俺の説明に興味があるのかないのか、それでも敦は視線だけ彼女の後姿を追いかけているようだった。 「なんかさー、きちんとしてる人のああいう恰好ってアレだよねー。」 「ああいう恰好?」 「陸上のユニフォームって際どくない?」 俺の目に新鮮に映ったのは、きっと敦が言っていることに集約されるだろう。普段きちんとしている相手が日常的に見せないものを曝け出していれば(仕方ないことでも、相手にその気がなくても)自然と魅かれてしまう。例えば、普段は隠された細く長い脚や、無防備なうなじだとか。隣の席で毎日交流があるだけにそう言った意外性に逆に弱いのかと自分の嗜好に驚いた。 「こないだステージで賞状貰ってた時は制服だったから余計にエロい。」 「敦、彼女に失礼だよ。あれはただのユニフォームだろ。」 「はいはい、ごめんねー室ちん。」 「俺に謝るなよ。」 「んー。」 一体、どの口がそんなことを言えるのか。 俺自身が間違いなくそういう目線で彼女を見てしまったっていうのに。あのユニフォームよりもずっと際どい女性の姿を見たことがないわけじゃないのに。ただ、何かの小説に喩えられていたミスクリーンのように、いつも見る彼女が優等生と言えばいいのか模範生と言えばいいのか、綺麗なところしか見たことがないから。突然目に飛び込んできた姿はあまりに印象的だった。 「戻るぞ。」 「えー、もう?」 瞼の裏に残る彼女の姿を振り払って、また熱の籠もる体育館に戻った。 *** 「その辺で止めておかないと、福井さん辺りに怒鳴られるぞ?」 「えー水浴びるくらい許してくれるってー。」 「そーっすよ、暑い中ずっと屋内に籠ってたし熱中症になりかねませんて。」 「外の水飲み場に置いてあったホースでほら。涼しくないっすか?」 「まぁ氷室さんて夏でも暑苦しくならないっていうか体温低そうですけど。」 「いや、さすがに暑いよ。東北は涼しいって聞いてたんだけどな。」 「日本の暑さは湿度の高さも相まって蒸しますからね。」 「わー虹ー。ほら室ちん、レインボー。」 部活は終わったものの、厳しい練習内容に誰も直ぐには動こうとせず、この暑さもあいまって外で一息入れていた。それが誰から始まったのか、体育館の近くに置かれた水場でありがちな水の掛け合いがスタートしていた。こういう単純なやりとりはいつの間にかヒートアップしていくもので、目の前の光景はいつの間にか無邪気で真剣な草試合を彷彿とさせた。 「うっわつめた!!」 「本気でかけてくんなよ…!」 「やられたらやり返す!」 「倍返しじゃすまねぇぞ!」 あー、バカだ。ハイティーンって万国共通でこういうバカが大好きだよな。まぁ野郎が水掛け合ってても少しも可愛くないけど。 「室ちんも混ざるー?」 「いや、見てるだけで十分涼しい。」 「言うと思った。」 「ほどほどにしとけよ。」 背中から逞しい返事と暑苦しい歓声が聞こえてきたところで、そろそろ先輩方が更衣室を出る頃合いだろうかと着替えに向かうことにした、のに、 「ひゃあっ…!」 遠ざかりかけた足を止め、聞こえるはずのなかったその声の出処に向かって急いで振り向く。なぜ?どうして?色んな単語が頭の中に浮かんだのに、どれも口を突いて出ていかない。この場にいる誰よりも早く、適したセリフを言わなければならないのが自分にも関わらず、だ。 そうだそれほど、目の前の彼女を見るのに俺の目は忙しかった。 真っ白なワイシャツが水に濡れて、彼女の華奢な上半身に、素肌にはりついて、ベビーピンクの下着を浮き上がらせていた。 誰かの喉が、ゴクリと鳴る音が聞こえた気がした。 その音を聞いてようやく俺は金縛りから解けた。けれど彼女はショック状態に陥ったかのようにピクリとも動かないし、水を掛けた部員たちも予想外の出来事に足が竦んでいる。 気に食わない、そう感じた時には勝手に動き出していた。 「敦、俺のロッカーからジャージ取ってきてくれるか。」 「ジャージ…ん、わかった。」 「頼むな。」 敦が遠ざかっていく足音を聞きながらバッシュのまま外に出る。今はそうどうしようもない。emergency、この一言に尽きる。胸元を隠すように両腕をクロスさせて固まっている彼女に持っていたタオルを掛ける。そして彼女を背に隠すようにして後輩たちに向き合い、パンパンッとワザとうるさく手を叩いた。 「ほら、いい加減涼しくなったし、もう水浴びには満足したよな?」 「は、はい…」 「そろそろ更衣室も空くだろうし、着替えて帰れる頃だな。」 「…ッス!」 「Don't tell anyone…今起きたことは誰にも言わないこと。わかってるよな?」 「スミマセンっした!!」 「うん、約束が守られるなら何の問題もない。お疲れ様。」 笑顔で宣告し、笑顔で念を押せばバタバタと蜘蛛の子を散らすように、あっという間に誰もいなくなった。 「みょうじさん。」 ゆっくりと振り向いて彼女に向き合えば、ワイシャツの中身と同じピンク色に頬を染めた彼女がいた。タオルを掛けたところで、大した役には立ててない。むしろ距離が縮まったお陰でその扇情的なギミックが余計に目についてしまう。ただでさえクールでスマートな彼女が恥ずかしそうに顔を俯かせている姿は、俺の庇護欲と言えばいいのか、守らなくてはと言う思いを駆り立てる。でももう一方では確かに、この危うい状態にある彼女をもっと困らせて弱らせてグズグズにしてしまいたいと言う欲が高まっていた。 濡れたシャツの上から触れたら、彼女はどんな反応をするだろう?大人びた見た目からは想像のつかない彼女の中身に触れたら? 「室ちーん。投げるよー。」 俺のそんな邪な考えを払うように敦ののんびりとした声と自分のジャージが降ってきた。 「Thanks!ありがとな、敦。」 サイズの合わない彼女には大き過ぎるジャージを羽織らせて、そのまま一つずつボタンを嵌めていく。もどかしさを感じながらようやく、彼女の素肌が遠ざかる。掛けていたタオルで静かに髪に触れると、彼女の肩が大きく跳ねた。 「ひ、むろくん…」 「なんだい?」 落ち着かせるよりは怯えさせないように、いつも通りを殊更装って最大限穏やかそうな声を出した。まるで、自分じゃないみたいだ。 「何から何まで、ごめんなさい。」 彼女は決して背が低いわけではない、それでも身長差はそれなりにあるわけで。至近距離で見上げられれば自然と上目遣いになる。しかも、頬はもちろん顔自体がピンク色に染まって、瞳からは今にも涙が零れそうだった。これ以上直視していたら、きっと酷いことをしてしまう。そう気付いてさり気無く顔を逸らそうとした瞬間、彼女の瞳が決壊した。ポロポロと静かに涙が落ちていく。わ、と言う敦の短い叫び声が耳に届く。 「こんな格好、見られたなんて…」 「本当にごめん。後輩の分も合わせて謝らせて欲しい。でもワザとじゃない、全員悪気はなかったんだ。」 「わかってる。責めるつもりはないの。でも、」 Tシャツの裾が、少しだけ引っ張られる。彼女が綺麗な泣き顔を向けたまま、俺だけを見てる。 「氷室くんには、見られたくなかったな。」 「え?」 「忘れて、くれる?」 「え、あのみょうじさん、」 「お願い、忘れて下さい…!」 ギュウっと裾が引っ張られる。今度こそ俯いて見えなくなってしまった彼女の、見える姿はジャージに隠せなかった白いうなじばかり。こうなったら少し震えたままの彼女を落ち着かせるために俺が言える言葉は一つだけしかない。 「忘れたよ、もう。」 「…ありがとう。」 俺の答えを、彼女がどう受け止めたかはわからない。それでもようやく見えた笑顔にほっとしたのは確かだ。 「悪いけど、今日はそれを着て帰ってくれるかな。」 「有難くお借りします。月曜日にきちんと洗って返すね。」 「気にしなくていいのに。」 「ダメ。きちんとした状態で返すから。」 「カバンとか、髪は平気?」 「カバンはエナメルだし、掛かったのは上半身くらいだから、大丈夫。」 徐々に徐々に、普段の彼女に戻っていく。これで良かったはずなに、あぁなんだかもったいないなと感じる自分がいる。もっと乱れたままで、泣きじゃくる様も見てみたかった、あのまま敦も戻らないで二人きりだったらどうなっていたんだろう。 「今日は本当にごめん、帰る時は気をつけて。」 「うん、色々ありがと。またね。」 ユニフォーム姿とは似つかない彼女の後姿を見送る。スカートまですっぽりと隠れかねない丈のジャージは全く似てないのにベビードールのようだ。アレは逆に、宜しくなかったかもしれない、でも隠さないままではいられない。彼女のあんな姿、俺以外に見せるなんてそんな気に食わないこと、 「ほんとに忘れたのー?」 “お願い、忘れて” 「さぁ?」 「あー室ちん悪い顔してるー。」 あんなお願い、きけるわけがない。誰が忘れるか。あの、濡れたシャツが少しずつ肌に下着にはりついていく瞬間。まるで手の込んだマジックの種明かしを焦れる様に見せつけられるような、そんな気分に陥っていた。忘れられない。だからこそ、あの時あの場にいた全員の記憶を消し去ってやりたいと思う。 「敦、お前はちゃんと忘れろよ?」 「…それってどうかと思うよ。」 「無理矢理忘れさせられたくなかったら頷こうな?」 「でもあの人、他はともかく、室ちんにだけは忘れて欲しいみたいだったね。」 それってどういうことだろうね。 “氷室君には、……………” 相変わらずのんびりとした口調で爆弾を落とした敦は、気付かないのか確信犯かどこ吹く風。逆に今の今まで彼女が放った言葉の意味に気がつかなかった俺は、弾かれたようにその場から駆け出した。 *** 「あ〜あ。室ちんバッシュのまま。」 冷静に見えてその実感情が安定しなかったり、周囲は見えても自分は掴めてなかったり。なーにが『頭はクールに心はホット』だ。一度火が付いたら、もうどうにもならないって早く気付けばラクなのに。 「俺があの人見てるって気付いた時の、機嫌の損ね方とかさー。」 好きなオモチャを取られた子供みたいだった。大体、室ちんは鈍いんだ。あの人、室ちんが外で休むようになってからずーっと室ちんのこと見てたのに気付かないし。でも室ちんだって無意識に視線が追ってたし。今日俺が見てたのだって、毎回室ちんがじーっと視線で追う相手だってわかって見てたわけで。 「恋に落ちてる者同士って、なーんであんなに気付かないんだろ。」 ま、きっと今頃道の真ん中で周囲も顧みることなく、室ちんがあの先輩のことぎゅーってしてる頃だろうし?万々歳ってやつだろうから今更どーでもいっか。 だからそう。彼がベビーピンクの下着に手を掛けて、彼女の本当の中身に触れるのも、恐らくそう遠い話にはならないだろう。 ベビーピンクの下着 |