第16回 | ナノ


僕の記憶が確かなら、彼女がここでうずくまっているのを見つけたのも今日みたいに風が冷たい日だった。夜の風は日中にも増して冷たく、心すらも凍るような錯覚を覚えた気がする。あれからもう一年。最初から半ば諦めていたこととはいえ、なんの進展もないことに少し切なくなった。

一年前、寒くてなかなか寝付けずに外を出歩いた僕が見つけたのはネグリジェ姿で裸足のまま、屋根の上でひっそりと嗚咽をもらしているなまえの姿だった。あの日から僕と彼女の曖昧な関係は始まった。
僕と彼女―なまえは週に一度、真夜中に出会う習慣になっている。場所はここ、訓練生の宿舎の屋根の上。端から見れば恋人どうしの逢瀬にも見えかねないそれは、互いの想いの方向によってかなり意味が違う。彼女はエレンが好きだ。そして、僕はそんな一途な彼女が好きだ。
エレンに振り向いてもらえないと彼女は泣き、エレンの魅力について彼女は語り、そしてエレンと話せたことを喜んで彼女は笑った。エレンエレンエレン―なまえの話を聞くのが僕の役目だ。

いつしかこの週に一度の密会(というよりは彼女の恋愛相談にすぎないのだが)は僕らの心の在処となっていた。互いにとってその意味は全く異なるが、僕はこれで満足していた。ほんの三十分にも満たない時間、でも、その時間だけは僕はなまえの隣で彼女と時を共有できるのだから。二人だけの、秘密の時間。この時だけは、彼女が僕を必要としているようでなんとなく嬉しかった。



一陣の風が吹いて、彼女の髪をそっと揺らした。さらさらと零れるように揺れた髪の隙間から彼女の頬がみえる。きらり、と月の光が反射して綺麗な雫がその頬を伝った。僕ならこんな風に彼女を泣かせることもないのにな、なんてふと考えてしまう自分に嫌気がさす。ああ、ごめんね。僕には気の利いた言葉をかける勇気も甲斐性もない。正確にいうなら資格すらないのだ。

恋をすると女性は綺麗になる、と前に一度聞いたことがあるけど、今ならその意味がわかるような気がした。なるほど、確かに彼女は美しい。籠にいれて閉じ込めて、独り占めしたくなるほどには。


はじめのうちはただ見ているだけでよかった。別に、話せなくても気づいてもらえなくても、彼女がそこにいるだけでよかった。でも、彼女と偶然出会って、話せるようになって、そしたら歯止めが効かなくなった。見ているだけでよかった筈なのに、話せるようになった。話せるようになって満足していたら、次は仲良くなりたくなった。仲良しになったら、今度は振り向いてほしくなった。エレンじゃなくて僕を見てよ、と。ふとした瞬間、そんなことを考えてしまう自分が大嫌いだ。彼女を好きになるたびになんだか惨めな気持ちになった。もがけどあがけど状況は変わらなかった。深みにはまってしまった僕を、だれも救ってくれはしない。


「はあ…」

夜空を見上げながら静かに涙するなまえをみていると思わず溜め息が零れた。なまえが小さくごめんね。と呟く。ううん。こっちこそごめんね、気にしないで。と返すと、そう、と切なげに微笑んでなまえは再び夜空を仰いだ。なまえ泣き笑いの顔は彼女の笑顔の次に綺麗だった。僕は何に対して謝ったのだろうか。


彼女はあまり笑わない。いや、笑ってはいるかもしれないが、それは本当の笑みではない。どこか、張り付けたような、取り繕ったような、少し不自然な笑みしか普段は見せない。そんななまえが本当の意味で笑う瞬間、それはエレンの話をしているとき、すなわち僕といるときだ。エレンと話をするとき、彼女はきまって朱に染まった頬を隠すために少しうつむき加減で話すのだ。つまり、エレンと話せたことを僕に報告するときだけ、まどろっこしい言いかたをしてしまったけれど、要はここでしか彼女は本当の意味で笑わないのだ。


満月がぽっかりと冬の夜空に浮かぶ。まわりでキラキラと光を放つ星なんかじゃ、どれほど綺麗でも月には敵わない。
赤く輝く月を睨み付け、僕は彼女に触れたくなる衝動を抑える。その頬の涙を拭えたら、その頬にかかる髪を掬えたら、その小さな頭を撫でられたなら…


それは僕の役目じゃない。
わかっている。

でも
君のとなりに居させてほしいんだ。
僕じゃ、役不足かもしれないけれど。

少なくとも、君のことを守ることぐらいはできるから。
君の笑顔は、僕が守るから。

「月が…」

「えっ?」

「いや、ごめん。なんでもないんだ。」


いつかなまえが星を見てくれるようになるまでは、

それまでは、



綺麗だね。なんて、まだ言えない。


君の横顔に恋をして


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