朧げな記憶だが、千石は花に詳しかった気がする。
「この花はまるで蝶が飛んでるみたいだから 、その名がついたんだよ」 「詳しね、千石。花とか好きだっけ?」 「いや、この花はーー」
廊下の窓辺に生けられた、鮮やかな花の色が、網膜に残っている。時々その花を見かけては、千石のことを思い出すのだ。
*
「こんな時間に突然呼び出すなんて、結構いい度胸してるのね、千石」 「ごめんね!本当にごめんね!!」
あたりは暗く、星がよく見える夜。急にかかってきた電話に何事かと思えば千石で、用件は今から会えないかというものだった。
「今日中に会いたかったんだよ。でもちょっとゴタゴタしてて……」 「別に明日でも良かったじゃない」 「だって、せっかくの誕生日なんだよ?」 「…………毎年ご丁寧にありがと」
中学生の頃から千石は、毎年私の誕生日を祝う。友達付き合いを大切にしているのか、それは大人になってからも変わらず続いていて、どんなに忙しくても忘れることはなかった。私のスケジュール帳にも、11月25日には赤い印がついている。
「そういえば、去年のブックカバー使ってるよ。あれすごい気に入った」 「えー!本当かい?俺もなまえちゃんのくれた低反発枕で寝てるよ!」
私にとって千石清純という存在は、なかなか私の語彙では形容しづらい。親友というのが一番近いのかも知れないが、なんとなくそれも外れている気がするのだ。
「今年はね、ちょっと趣向を変えてみたんだ」
じゃーん、と千石が暗がりから取り出したのは、花束だった。白とピンクの華やかな花が、月明かりに浮かび上がった。
「……あっ」
知っている。いや、教えてもらったのだ。
「……胡蝶蘭」
私がそう言葉を零せば、千石が目を丸くした。
「なまえちゃん、よく知ってるね」 「これ、千石が教えてくれた花だよ」
廊下の窓辺で、鮮やかに咲いていた、見覚えのある花。千石は何度か瞬きをして、「……覚えてたんだ」と呟いた。私は笑った。
「すっごいよく覚えてる。だってこれ、千石の花でしょ」 「えっ?」 「『花言葉はしあわせを運ぶ≠ナ、白い胡蝶蘭は清純=Bまるで俺みたいだよね』……そうでしょ、ラッキー千石清純?」
私が千石の口調を真似してそのまま口にすれば、千石が吹き出し、照れたように頭を掻いた。
「やだなー。そこまで覚えてたんだ」 「うん。その花を見る度に、思い出してた」
千石は目を細めて笑う。中学生だったあの頃が、懐かしくてたまらない。今思えば、千石は昔と変わらないまま、近くにいてくれる。だから、居心地がいいのかもしれない。千石が花束を胸に抱き、空を見上げた。硝子片のような星が、ぽつりぽつりと暗闇に取り残されている。
「あのね、」
春のあたたかい夜風が靡いて、胡蝶蘭の柔らかい香りがした。
「白い胡蝶蘭は清純=Bじゃあピンクの胡蝶蘭にも花言葉があるんだけど、なんだと思う?」
私は目を瞬かせた。桃色の蝶のような花に視線を落とし、それから首を横に振る。
「俺ね、ずっと前から決めてたんだ。なまえちゃんにいつか、この花を贈るんだって」
胸に抱えた、華やかで大きな花束を、千石が私に差し出した。千石の表情は、暗くてよくわからない。
「ピンクの胡蝶蘭の花言葉はね、」
貴方を愛します
千石によって呼ばれたしあわせは、両手で抱えなくてはならないほどに、大きなものだった。 |