彼は自分の何処を愛しているのだろう。 ぼんやりと覚醒しない頭で考えた。 確かに彼からの愛は感じている。普段から優しい瞳が自分を映した時にだけ微妙に愛しさが籠められていることや、人前でも気にせず自分に触れてくれることに。他人のことは、例えエルヴィン団長でさえ名前で呼ばないのに、自分のことは「エレン」と呼んでくれる。 彼は何時だって優しい。 改めて好きだと思う。日溜まりのような優しさが、いつまでも自分に向けられていればいい。だがそれと同時に、胸の奥ですっと何かが落ちる感覚が一体何なのかは、わからない。 わからないふりをし続けている。 小さく空いた風穴のように、それは自分のこころに喪失感を与え続けていた。 彼の世界は、『巨人』と『人間』と『その他』に別れている。その世界はいたって簡潔で単純だ。 彼にとっては人間は人間でしかない。ただの『人』でしかないのだ。 それ故、誰にでも平等である。 じゃあ自分はというと、その中で孤立した存在だ。エレンは唯一名前を与えられた存在であり、彼の中で色彩を持った特別なもの。その三つのなかに属さない。 エレンはエレンだ。 ――けれど、本当は知っている 彼の世界の中で、自分以外に名前を持つ存在がいることを。 彼は人間を名前で呼ばない。例えそれが、リヴァイ兵長だったとしても。 しかし彼は、巨人たちを名前で呼ぶ。 偶然にも聞いてしまったのだ。 彼はことも無げに『ソニ』『ビーン』とやつらを呼んだ。 そして俺を、『エレン』と呼ぶ。 人間である、たった一人の俺を。 けれど、もしかしたら、『エレン』は『俺』じゃないのかもしれない。 気が付けば、固いベッドに横たわっていた。 先程までの記憶は曖昧で、あまり覚えていない。 実験はしたんだっけ? ああ、した気がする。巨人になってからなかなか元に戻れなくて、兵長に殺されかけたような。身体中が痛い。 彼と目が合った。巨人化してから、彼が俺を愛おしそうに見詰めていた。今まで、そんなふうに見詰められたことはない。 その瞳を見てからの記憶がなかった。目を閉じれば、彼のあの瞳がちらついた。 よく、生きてたな。 乾いた笑いがこぼれた。 暴走しなかったのだろうか。きっと殺されても可笑しくはなかったはずだ。 巨人化したあとのぼんやりした頭で、彼は自分の何処を愛しているのだろうと考えた。 別に、気付いていなかった訳ではない。 ただ、気付きたくなかったのだ。 彼が愛しているのは、自分の中にいる化け物で。彼はそれを『エレン』と呼ぶ。『俺』は見かけだけの入れ物に過ぎないのだ。 彼が愛しているのは、『エレン』であって『俺』ではない。 まだはっきりしない頭で導きだした答えに、悲しさや苦痛ではなく、虚脱が心を埋めた。 俺は、愛されてはいない。 涙は不思議と出なかった。 緩やかに積もった感情が、涙を堰き止めているようだった。 「…良かった。目が覚めないんじゃないかと思ったよ」 彼は優しい。 今にも泣きそうな顔で俺を見た。 「……何であなたが、そんな顔をするんですか」 「…言っておくけどね、きみも僕とそう変わらない表情をしてるよ」 「俺は…あなたがすきです」 突然の言葉に、彼は瞠目した。 俺は黙って彼に手を伸ばした。彼はそっとその手をとる。俺よりも彼の手の方が大きかった。巨人なんかよりも、俺の手は小さい。 「俺はあなたが好きです」 「どうしたんだよ、急に」 「あなたは、どうなんですか」 「僕はエレンが好きだよ。僕とエレンじゃ、これから先に色々な弊害があるかもしれない。それでも僕は『エレン』が好きだ」 エレンが好き。 その言葉が酷く胸に刺さった。 それでも決めたのだ。 彼を一生愛し続けると。だからこそ、曖昧にしたくない。例え彼が愛するのは自分じゃなくても、エレンは俺だ。 「……だったら、俺のことは好きですか」 彼は微かに息を呑み、沈黙が部屋を支配した。 なんでも見透かしてしまいそうな瞳に自分はどう映っているのだろう。 それがただの『人間』でも『ばけもの』でも、自分は答えが欲しかった。 この関係が間違っているのだとしても、壊したくない。 それでも名前を呼んで欲しいと願うのだ。 彼が小さく吐息をした。数度、俺を見詰めて瞬きする。 そして困ったように、いつものように笑ってみせた。 俺の好きな、笑顔だ。 「エレン」 彼は言った。 ――「僕はきみと、キスがしたい」 頬に、涙が伝った。 私の名前を呼んでくれますか |