※美容師パロ 髪はオンナのイノチだ。だからわたしはきっと、間違ってしまっただけなのだ。綺麗可愛い似合ってるなどと、あらゆる言葉でふんわりと甘さのふりかかった、砂糖菓子にもわたあめにもよく似た言葉。イノチである髪が口説かれたというだけなのに、単純なわたしはまんまと好きになってしまった。その彼は今日も、華やかなマスクと笑顔をわたしに寄越す。 クリスマスケーキにそえられたお砂糖のサンタなんかを思い出すうつくしさだ。見た目がよく、あざやかで、だけど食べられたもんじゃないってところが、なんとも言えずそっくりだ。 出迎えてくれたときは、2ヶ月ぶりだねなまえちゃん、なんて軽々しく言うくせに。「髪質チェックさせてね」と、そう告げたあとのその目は、真剣そのものだ。わたしの髪に指を通す及川さんを鏡ごしに見つめてしまっていると、不意に視線が交わってひとり焦る。 わたしの髪に彼が魔法をかけてくれる前のこの時間は、なんとなく呼吸が苦しい。 「なぁに。俺に見とれちゃった?」 「……違います、すいません」 「ははっ、ジョーダンだよ。なまえちゃんは真面目だなあ」 明るい笑顔をはじけさせたあと、また手がわたしの髪に触れる。このひとが手がけてくれたセミロングのヘアスタイルは気に入っていた。アレンジで遊べて、かつ手入れしやすい量と長さ。彼がすすめてくれたそれは驚くほどわたしに馴染んだ。見た目だけの話じゃない、自分の感覚もすべて。今だってもちろん、変わったわけじゃない。 だけど今日は、この言い様のない胸の息苦しさにさよならをするために来たのだ。髪の毛は、きっとただのけじめ。心にハサミが入るはずもないし、そもそも恋だの愛だのは、自分の意思で切り離せるものじゃない。それにしても、ずいぶんとお粗末で、原始的な方法かもしれないけど、わたしにはこれが一番いい。 「じゃ、今日はどんな感じにする?」 「…思いきり短く、でお願いします」 失恋で髪を切る子は今どきだってごまんといるだろう。でも、意中の男性に切ってもらうなんて子は、そうそういないんじゃないだろうか。 決めたのだ。この人に会うのは、今日で最後だと。 「……短く、かあ。イメージ変えたいって感じかな?」 「はい。…そんなとこ、です」 指で髪を一束取り、顎のラインにぴたりと合わせる。神経の通わない髪ではなく、頬や首もとを掠めるそのゆびに、睫毛がふるえた。 当たり障りのない長さまで、チョキチョキと髪が切られ落ちてゆく。バイバイ、わたしのからだの一部だったもの。胸の中のぬかるみも連れていってくれたらより一層お手柄だったけれど、ほんのちょっとずつでもこのくだらない愛が剥がれ落ちてくれるのだから、それはよしとしよう。バイバイ、わたしの未練。とても一方的だけれど、カタチだけでもお別れをしてみれば、すこし胸が澄んだ気さえした。 「あと、髪洗って乾かしてから、もうちょっと切っていくね。国見ちゃん、シャンプーお願い」 「はい。どうぞこちらへ、足元にお気をつけて」 及川さんは人気のスタイリストだ。わたしを最初から最後まで担当することなんてまずないし、見習いであるアシスタントを育てるのは大切なことだ。わたしが髪を洗ってもらっている間、別のお客さんのところへ行って、あの華やかな笑顔を向ける。いつも通りだ。 今日を特別と考えているのはわたしだけで、及川さんは今日も変わらず、日々の同じサイクルのなかで同じ時間を生きている。 「力加減やお湯の温度は大丈夫ですか」 「………あっ、はい。すごくきもちい、です」 くだらない考え事のおかげで反応が遅れた。国見くんがくすりとわらったのが聞こえた気がしてすこしはずかしい。 今まで色んなヘアサロンへ行ったけれど、国見くんのシャンプーは気持ちいい。口数は少なく若干無愛想だけど、シャンプーの優しい手つきと、それからそのあとのマッサージが、本当にお気に入りなのだ。 国見くんがいつかスタイリストになる日だってきっとくるんだろう。それは是非見届けたかったし、カットしてもらいたかった。同い年と聞いたときから、親近感を通り越して、何故か母親のような気持ちを抱いてしまっている自分のおこがましさにびっくりだ。 「では、マッサージさせて頂きます」 「はい。ねえ、国見くん、笑ってみてよ」 「………はい?」 「さっき。笑ってなかった?」 鏡ごしに目が合う。 肩や首を揉みほぐすその動きを再開しながら、「愛想なくてすみません」と変わらないトーンで言った。わたしはつい笑ってしまって、この日は今までで一番、国見くんと自然にお喋りできた日のように思えた。 「国見ちゃん、マッサージ終わった?」 「あ、はい。もう終わりです」 及川さんが国見くんの後ろからひょっこりと顔を出す。鏡ごしに一瞬目があった気がして、わざとらしくない程度に目を逸らした。未練も恋のつぼみとやらも、髪と一緒に切って捨てた。だけどどうしても、鏡ごしでさえもためらうのは、なにかを見透かされそうでこわいからだ。 「あ、ブロー俺も入ります」 「あー、いいよ、大丈夫。あっちでマッキー手伝ってあげてくれる?カラーとパーマのお客さんだから」 「分かりました」 ではお願いします、国見くんはそう小さく言って軽く頭を下げ、短髪なスタイリストさんのところへ行ってしまった。なんとなく残念な気もしたけれど、今日が“最後”なのはわたしだけなのだ。なにもトクベツなことなんかないはずなのだから、おかしくない。及川さんがブローを担当するのはすこし珍しいけれど、それだけだ。 「国見ちゃんには敬語じゃないんだね」 「あ、すいませ…同い年らしいので」 「俺にもタメ口でも全然気にしないのになあ」 「それは、ちょっと」 「あはは、言うと思った」 及川さんはそう言って笑いながら、ドライヤーのスイッチを入れた。風の音が耳を焼くなかで目も瞑ってしまえば、わたしはただただ独りだ。ずっといい。誰かに思いを寄せるのは、本当につらいことだ。ひとにぎりの幸福感を得るためにたくさん悲しい思いをする。それなら、そんなもの忘れて、ひとりになっていい。 「なまえちゃん、」 ドライヤーの音に溶けるか溶けないか、そんな程度の声だったけれど、確かに名前を呼ばれた気がした。下ろしていた瞼を持ち上げてみるけれど、鏡に映った及川さんと目を合わせることはできなくて、自分の髪を通る指先だけを見る。 「 」 「……え」 かき消されるはずの小さな囁きが耳に届いたみたいに感じるのは、気のせいか都合のいい聞き間違いだ。、すいませんもう一回言ってくださいと、そう言い出せないような聞こえ方をしたものだからたちが悪い。咄嗟に顔をあげれば鏡ごしに目が合ってしまって、「なぁに」とでも言いたげな甘い甘い笑顔を向けられた。 それなりに大きかったドライヤーの音が、及川さんによって止められる。慣れた手つきでくるくるとコードが巻かれて片付けられ、自由になった両手でわたしの髪をさらさらとくすぐる。この人の指先が触れるといつでも魔法をかけられているみたいで、それから呪いみたいだとも思った。 「つけこんじゃいたいな、って思って」 「え?」 「ばっさり切る、なんて言うから、失恋しちゃったのかなって。そしたら、俺にもチャンスあるんじゃないかなって思って、だから、言ったんだよ」 そのかたちの良いくちびるはなにを言っているんだろう。意味はわかるのに理解ができない言葉たちがわたしの身体に入ってきて、暴れもしないでただシミをつくる。 「それに今日、なーんかやたら国見ちゃんと仲良さげだったし」 「……あの、」 「さっきのを“気のせい”って思ってるなら、もう一回言おうかな」 聞き慣れないお洒落な洋楽が流れる落ち着いた空間で、小さな小さな「すきだよ」が、わたしの使い古したみたいな安い心臓を、ばくばくと加速させた。わたしを失恋させたのはあなただったんです、なんて言ったら、いったいどんな顔をして、それから、どんな言葉をくれるのだろうか。 私の脳髄を犯してくれますか |