第14回 | ナノ
※猟奇的表現・暴言あり


 ヴィルヘルム・エーレンブルグというひとの話をします。
 とても残酷でいじましい、可哀相な男の話です。


 彼が生まれたのは1917年。指名手配の紙にそう書かれていました。凶悪犯だとか快楽殺人者として、彼の名前は巷で知られていました。
 ドイツ生まれで、元は商家の一族だったらしい生家は、しかし彼が生まれた頃にはすっかり没落してしまっていました。彼は、実の父親と実の姉の近親相姦で生まれた子供だそうです。『畜生児』。本人がそう言い棄てて、悪ぶって笑うこともなくただただ嫌そうに眉をしかめていました。
 そんな出生のためなのかなんなのか、彼の髪や肌は先天的な色素欠乏で真っ白でした。切れ長の目の瞳の色も、青や灰や茶ではない、血が透けた赤。
 人より圧倒的に紫外線に弱い身体です。太陽の光が痛くてまばゆくてたまらなかったと、彼は笑いました。今度は、持ち直したように自嘲しました。
 彼が自分の出生の話で笑う余裕を無くしてしまうのはただ、彼の姉であり母である人物――ヘルガ・エーレンブルグの名前が挙がるときだけでした。

 ヘルガは彼を愛していた、と聞いています。巷の噂、ヴィルヘルム・エーレンブルグという凶悪犯のはじまりのタブーの逸話として話されるときにも、また彼本人によっても、そのことは肯定されていました。

「アアそうだな、あいつァ莫迦な女だったんだよ」
「ばかなおんな」
「おお。客を選びもしねぇ売女で、そのくせ家族の愛とやらは深めようと躍起になってやがったな。そんで結局その家族がバケモンだってことにも気付かないまま死にやがった」

 殺したのは彼で、『バケモノだった』というのも彼です。
 ヴィルヘルム・エーレンブルグ。
 彼は自分のことを、吸血鬼なのだと言います。


 理由を聞いてみれば、納得出来るような話です。彼は人を殺すと、いつもその血を啜りました。鋭い歯であぎあぎと噛んで、血管から血を押し出すのです。
 奇麗だけど目つきが鋭くてキツそうな顔は、そのときはなんだか、ぼうっとした表情になります。白い顔に返り血をべたりとつけて、猫背気味に、ヴィルヘルム・エーレンブルグは死体の傍らに長い足を折って座ります。たまに眉をひそめたり、白くてすっと通った鼻をスンと鳴らしたり、手慰みをする子供のように、彼は血を飲みます。
 わたしがそれをはじめて見たのは、彼が15歳のときでした。
 あれから10年経ちます。
 今の彼はハイドリヒ卿に拾われてドイツ軍に入り、かちりとした黒い軍服を着崩すこともなく妙に律儀に着ていますが、やっぱり血を飲むときの奇妙な無防備さや獣の仔じみた風情は変わりませんでした。
 おいしくはないそうです。
『そりゃそうだろ』と、ヴィルヘルムはあっけらかんと言いました。

『俺ァ血を入れ替えてるだけだ』

 畜生児で、アルビノで、バケモノの彼は、人間の血を飲むことで、人間になれると信じたのでした。
 入れ替えという言葉で得心がいったのですが、彼には自傷癖があって、細い両腕は包帯まみれでした。血を出して、血を飲んで、彼は人間になるのだそうです。

 人間になりたいバケモノ。
 俺は吸血鬼だ、という、一縷の自己肯定で保たれた人格。
 面白いなあ、と、思いました。

 ――だって彼は最初から、どうしようもなく人間でした。
 畜生児で、アルビノで、たくさんたくさん虐げられて人間の輪のなかに入ることが出来なかった、可哀相な人間の子どもでした。その子供がとうとう、自分を受け入れていたちいさなちいさな唯一の社会、姉であり母であるヘルガ・エーレンブルグの盲目的な愛の籠を叩き壊し、彼女を蹂躙して、人間性にすがりつくことをやめた。
 そうしたときに最後に残った人格形成と自己防衛の切り札が『俺は吸血鬼だ』『俺はバケモノだ』という命題だったのでしょう。
 誰が彼の信仰を莫迦に出来るでしょうか。彼にはもう、それしか残されていなかったのです。
 自己肯定と自己否定。彼が彼であるためにたくさんのものを棄て去って血まみれで歩いた、人間存在の精神の迷路。
 面白いなあ、と、思いました。
 わたしは彼をすきかもしれないなあ、と、人でなしのわたしはヴィルヘルム・エーレンブルグという少年が青年になり、第三帝国軍の《串刺し公》と呼ばれるようになる様子を伝え聞いて、しんしんとそう思いました。


 わたしの身体は売り物です。
 これで昔、家が医者をしていたことがあったので、ヴィルヘルムにはじめて出会ったときに彼の傷を手当してあげたことがありました。そう、そのときから、野犬みたいなあり方や、そのくせ迷子の子供のような雰囲気、そして端整な白貌に、わたしは見とれていました。
 彼は、きたなくて、きれいです。
 それからとても出鱈目です。
 殺した相手の血を飲むときには先述したとおりの状態でしたが、その無防備さは吸血のときだけのものです。常の彼は少し皮肉屋だけどカラッとした騒がしい男で、殺し合いのときの彼はいつもげらげら大笑いして狂乱していました。総合的に、彼は騒がしいひとです。
 笑って煽って殺し合って、とうとう相手が動かなくなってから、彼はつまらなそうに「フン」と言って、石ころを蹴飛ばしたりしながらのしのし歩いて、どっかと死体の横に座ります。そこからが、あの無防備な獣、無防備な迷子の時間です。

「……皮膚やら脂肪やらがぎっちょりしてやがる気色悪ぃデブ野郎の血なんかよりァマシだがよ、こいつのはもうちッと飲める味かと思ってたぜ」

 不意に、彼は血に濡れた薄いくちびるの隙間から、荒い声でそう呟きました。黙っていればただ奇麗なのに、くちを開くと急にガラが悪くなります。
 わたしは、びっくりしました。彼が血を啜るときは、いつも無言だと思っていたからです。

「おいしくはありませんか」
「そりゃそうだろ。つーか前にも言っただろうがよ、莫迦かテメェ」
「それでも、飲むんですね」

 びっくりしながらも、言葉を返します。わたしは彼の隣にしゃがんでいました。死んだ男の靴が大きくて、あたたかそうだったので、頂戴しようと思ったのです。わたしは、人でなしです。
 そういえば、彼が血を啜る時に隣に生きた他人がいたのは珍しいのかもしれません。少なくとも、わたしが遠目に見ていたうちではこんな状況はありませんでした。ああ、そうか。
 彼はひとりでも平気だと言って笑いながら人間性を棄て歩くひとですが、傍に他人がいると饒舌になります。逐一話しかけるし、相槌だって律儀に打ちます。
 そういう、男です。

「まァな。入れ替えて入れ替えて、そうしたらやっと、俺のどっかがなんとかなるンだよ」
「たいへんですね」
「そうでもねえさ」

 殺しあうのは楽しいしな。
 ぶっきらぼうに言って、またあぎあぎと肉を噛みます。
 ヴィルヘルムは、10年前にはじめて会った頃から、また少し変わっていました。
 俺は吸血鬼だ、という意識に、彼が強い誇りを持ち始めたのです。
 軍に拾われ、ハイドリヒ卿に忠誠を誓ったというのは聞いていました。それによって、彼は人間であることに意義を見出さなくなったのかもしれません。たくさん敵兵を殺して忠義に報いる事ができるという点では、バケモノである方がいっそ都合が良いのでしょう。
 しばらくベルリンに帰って来なかったヴィルヘルム・エーレンブルグに久しぶりに会って、わたしはやっぱり、面白いなあ、と思いました。
 同時に、少しさびしいような気もしました。
 彼はもう、自分が人間であることにはしがみつきません。
 だからこのままいくと、いつか人間のところに帰って来ない日が来るのでしょう。


 わたしたちの関係というのは、少しだけ変わっていた気がします。
 けれど案外よくある話なのかもしれません。
 冷静にそう思いながら、わたしは心のどこかで、この関係を陳腐でありふれたものだとは言いたくないなと意地を張っているのかもしれません。
 わたしの身体は、売り物です。
 彼は一度だけ、わたしを買いました。
 買って、そのときに『テメェの目つきは気色悪ィ』と嫌そうな顔をして言ってから、もう二度と買ってくれません。
 それでもわたしは彼の知り合いの枠には入れたようで、会えば話もします。お酒を飲むこともありました。ヴィルヘルム・エーレンブルグは凶悪犯であったり軍人であったりと昔から近寄りがたい肩書きばかり引っさげて街をふらついているので交友関係はけっして広くないのですが、気を許した相手には気安く接します。こういうところでなんだかんだ、ヘルガ・エーレンブルグの家族愛や身内愛のあり方を継承しているのかもしれません。手負いの獣のように攻撃的なヴィルヘルムは、懐に入れた相手には態度が変わります。
 それは暴力をふるわなくなるということではありませんでしたが――彼には『気に入ったから殺し合う』という戦闘狂的な嗜虐嗜好もあったので――ただ、無条件で理不尽な暴力はなくなりました。わたしはそういう枠のなかに、一度買われたことですんなりと落ち着けたようでした。

「目つきがきしょくわるいって、ひどいです」
「ハ! 気色悪ィもんにそう言って何が悪いっつーんだよ。そういう目ぇした奴ァ大体が、俺の嫌いな類のバケモンなんだよ」
「はあ」

 額の真ん中で分けた白い髪、その間で、形の良い眉が嫌そうに寄せられました。歯軋りするように犬歯を覗かせてくちもとを歪めるのは、彼の癖です。すがめられた赤い眼は、わたしを見ずにまん丸くて白い満月を見上げました。
 気の済むまで嬲られて血を吸われた死体を放って、わたしたちは街外れまでふらふら歩いていました。わたしは、ヴィルヘルムに殺された男の靴を履いています。大き目の靴はわたしの足には合わず、ぱかぱかと間の抜けた足音がしました。

「気色悪ィ」

 抑えた、掠れ声でした。
 わたしのことは見ずに、ヴィルヘルムはそう言いました。
 そこでわたしは思い出しました。ヴィルヘルム・エーレンブルグがこんなふうに笑いも自嘲も出来ずにただただ嫌悪感をあらわにするのは、今までヘルガ・エーレンブルグの話題のときだけでした。盲目的に彼を愛し、彼によって殺された女。
 彼はひょっとすると、ヘルガのことが怖かったのでしょうか。

「つかよ、テメェこンなとこまでフラフラ付いて来てっけど、俺ァテメェは買わねえぞ。さっさと売春窟へ帰れや。靴も拾えて儲かったじゃねェか、もう気は済んだろ」

 考えていたわたしを流し目で見下ろして、ヴィルヘルムはそっけなく言いました。

「いじわるですね」
「アァ? 合理的なことしか言ってねぇだろ」
「だから、いじわるです」

 戦闘狂で、騒がしくて、教養も受けていない。そのわりに彼の考え方はなかなか筋道だっていることが多いのです。もちろん一般的な倫理観や論理から外れていることもありますが、彼の説明を順序だてて聞くと、ああそういう考え方に基づいているのだなと納得いくことがほとんどでした。吸血についても、そうです。あれは、彼の死生観や魂魄信仰による儀式なのですから。
 彼は、莫迦ではありません。
 だから、莫迦のことを莫迦にします。

「さっさと帰れ、娼婦臭ェんだよ。あんましつこく絡むと殺すぞ」

 彼は莫迦ではないけれどどこか獣じみていて、また同時に迷子のようなところもあるのです。
 ――だから、莫迦がしでかす不合理や不可思議を、嫌悪し、ある種怖れているのかもしれません。

「つぎは」
「あ?」
「つぎはいつ、ベルリンに帰って来ますか」

 立ち止まって、問いました。ぱかぱか言う間抜けな足音が消えて、少し前に行ったヴィルヘルムがこちらを振り返ります。
 赤い瞳が、月夜に爛と光りました。白貌は、やはり奇麗です。猫背気味でガラの悪い歩き方も、格好悪くはありません。彼の持つ動物性に、その警戒心剥き出しの歩き方はよくそぐっていたからです。
 話すときの癖で律儀にわたしの目を見たヴィルヘルムが、また眉をしかめました。

「テメェにゃ関係ねぇだろ」
「おしえてください」
「もうじき遠征に行く。そうなりゃもう長く帰っちゃ来ねぇよ」

 その前に一度、生家の跡を見に行くつもりなのでしょう。
 彼についてよく知るわたしは、そうあたりをつけました。
 そう、わたしは彼のことを、こんなにもよく知っているのです。人間になりたかった子供、吸血鬼であることに誇りを見出し始めた青年。
 いつだって彼は、人間でした。

「……ヴィルヘルム」
「なんだ」
「わたしの身体は売り物です」
「そうだな。さっさと股ァ開いて営業して来いや」
「だからきっと、わたしの血や心臓だって売り物なんです」

 ヴィルヘルム・エーレンブルグの幼い信仰をやわく踏みつけるように、わたしは言いました。また、赤い眼が嫌そうにすがめられます。歯軋るような白い犬歯が見えました。

「……何が言いてぇんだ、ああ?」
「売り物の身体には、どうせだいじなものなんてひとつもありません」
「は……はは! アアそうだろうなァ、娼婦ってなそういうモンだ!」

 やけっぱちに少し声を荒げたヴィルヘルムは、ぎろっとわたしを睨みました。目を見て、それから、死んだ男から頂戴した靴を見ました。
 彼は、娼婦が嫌いです。得体がしれないと思っているのかもしれません。
 だってヘルガ・エーレンブルグは、娼婦でした。
 彼にとってのはじまりの女、母であり姉、唯一絶対の愛の注ぎ手である淫売。
 わたしには、この子供のような獣のようなバケモノぶった男の機微が、ひどくよくわかる気がしていたのです。たくさん調べましたし、噂を集めました。ベルリンに帰って来るのを待ちました。帰って来たと知れば会いに行きました。
 売り物の身体に、なにかとても言いようのない、染みるような感傷を抱いて。

「それでも、――だいじなものなんてなにひとつ無い身体ですけど、わたしはひとつ、だいじにしたいような気がするものはあるのです。どうせだいじになんかできないのでしょうけど、それでも今たしかに、もっているものがあるのです」

 ヴィルヘルム・エーレンブルグ。
 はじめて見たとき、奇麗できたない少年だと思いました。
 一度だけ買われたときに、わたしの目を『気色悪い』と言った妙に拗ねたような、怯んだような表情が、かわいいなと思いました。
 知れば知るほど、面白いなあ、と思いました。
 売り物で人でなしのわたしは、泥と血にまみれながらそれでもなんとかして自分であり続けようとしたヴィルヘルム・エーレンブルグという男の残酷でいじましくて、可哀相なありようが、すきかもしれない、と、思ったのです。
 すき、という気持ちなのかはわからないのですが。たぶん、この気持ちが、それに類するものなのです。どうなりたいわけでもありません。
 ただわたしはこの男を、ほんの僅かでも慈しみたいと思っています。うまく伝えられることは、きっと無いでしょう。わたしは莫迦です。
 だから

「もう会えないのなら、今、わたしの心臓を食べてくれませんか」

 心臓。わたしの真ん中。ヴィルヘルムを想うと、不思議と疼く奇妙な部位。
 ここになら、わたしの気持ちの何十分の一かでも滲んでいる気がしたのです。
 それを食べてくれたら、わたしの気持ちはあなたに伝わる気がしたのです。

「……は」

 ヴィルヘルムは、失笑しました。それから息を吐くように、「ひ、はは」と笑いました。ひくり、と、その口角がひきつるのが、やけになまめかしく見えます。

「いらねェよ、阿呆が!」

 そのくちもとの動きを目で追っていたわたしに、ヴィルヘルムは大音声で思い切り怒鳴りつけました。ビリビリ、冷たい大気が震えます。
 アルビノの吸血鬼は、ざり、と音をたてて踵を返しました。わたしに背を向けて、一歩、踏み出します。
 ああ。
 ああ。


「ヘルガと同じようなバケモンなんぞ喰ったところで、俺ァ何にもなれやしねぇ」


 ―――ああ、そうか。
 彼について考え続けていたわたしは、そこでとうとうわかりました。
 彼がわたしの目を避けた理由。彼が、母であり姉である女性を殺した理由。彼が、人間である自分を手放してしまった理由。

「――ぃ、が……」

 我に返ったわたしは、遠ざかる背中に向かって無意識に声を投げていました。
 涙なんか出ません。ただただ、ああ行ってしまう、と思いました。

「あい、が」

 凄絶な出生と陰惨な過去からくるその怯えは、なんだかひどく人間的な感情ではありませんか。
 自身にソレを向けるものを『バケモノ』と呼ぶ赤い眼は、いつだって笑うこともできず、ほんの少しだけ揺れていました。


「――愛が、こわいですか」


 だからあなたは、何にも得られず、何にもなりきれないまま、どんどん人から離れて行くのですか。
 声に出した途端、胸がきゅうと痛みました。
 やはりここには、わたしの気持ちがあるのです。今こそ彼に、この心臓を食べてほしい。
 食べてほしいのに。



 ヴィルヘルム・エーレンブルグという男は、それからふっつり消息を絶ちました。聞くところによると、戦地で急に気が狂ったように敵味方関係なく殺戮し、その罪で粛清されてしまったそうです。
 彼は狂乱して笑っていたでしょうか。それとも苛立ったように何かを嫌悪し、怯んでいたのでしょうか。
 この心臓は未だ、彼の帰りを待っています。あのときの痛みは、まだ、この胸にあるのです。
 彼を怯ませる『愛』を孕みこんで、しぶとくしぶとく、動き続ける限り、ずっと。



私の心臓を食べてくれますか

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