第14回 | ナノ
私がどうしようもなく1人で居たい時に限って、この黒ずくめの役人は私の前に現れる。

ちょうど道を脇にそれようと曲がろうとした瞬間に、小さな影が足元をすり抜けていった。走り去るそのしなやかな筋肉の動きを眺め、あれはまぎれも無く黒猫だと漠然と思う。くりっと首だけで振り返った猫のオリーブ色の目が、私の恐れる”不幸とやら”を笑っている気がした。
「黒猫に道を横切られると不幸になる」というジンクスが頭の中にコーヒーに似た苦みを残した。飲んだあとに舌に残る、黒い苦さ。私はこれが苦手で、うんと甘くしたカフェオレしか飲めないのに。そういえば、「幸せになる」という迷信もあったはず。果たして、どちらから横切れば何が訪れるのか、わからないまま考えを巡らす私の眼前で、黒猫は夕闇にじわりと溶けた。

それから間もなくして1人で歩いていたはずの往来を、いつのまにか二人で黙々と歩くことになった。土方の姿を褪せた色の溢れた往来で見つけた時に、振り返った猫の大きな黒目を思い出す。簡単な挨拶を済ませた後、自然と彼は私の横に並び、歩を共にした。私のせっかくの独り歩きを邪魔した割に、一言も話さない。乾いた下駄の音が二つ、やけにうるさく聞こえる。
土方はどこに行くのか知らない。私は、どこへ行けば良いのか分からない。

道の外れにあった公園にふらりと立ち寄った私に異を唱えることはなかったが、入り口の自販機の前で立ち止まった土方は、私に
「どれがいいんだ」と目を見て聞いてきた。
「コーヒーじゃなかったら何でも」
答えた私には勿論、彼がコーヒーを選ぶ事がわかっていた。わかったと短く答え、何でも無いような顔をしてココアを選んでたのを見る限り、きっと互いに分かっていたんだろう。土方は無糖のコーヒーを黙って買った。

「どうして黒猫だけ、不幸な迷信をあてがわれたのかな」
「猫なら白も灰色も茶色もブチだっているのに」
「道を横切るだけで嫌な顔されるなんて、理不尽じゃない?」

あくまで独り言として次々と発してみた言葉は、黒髪から覗く耳に届いていないのかもしれない。
焼いたように熱い缶を両手で包んで息を吹きかけている私に、ちらと視線は寄越すくせにそれきりだ。土方は知らないだろうけど、あの黒猫はとても綺麗だった。

「猫より、テメェの心配したらどうだ? もう日は差し迫ってるんだろ」
「それができたら、こんな所で土方になんて会わなかったよ」
土方が膝を軽く揺する。きっと手の中で半分以上残っている缶の中身も揺れただろう。
思わず想像してしまった苦さを急いで掻き消すように、冷めかけのココアを口に含んだ。舌を覆うような甘さも、本当はあまり好きではない。
「なるほどな」
「何がなるほどなの」
「屯所で話題なんだよ。お前がマリッジブルーになっちまったってな」
「……広めたの、沖田だね?」
「ご明察」
彼の薄い唇から紡がれる、その耳触りだけが良い単語が妙に気持ちが悪くて、声のトーンが落ちてしまった。つくりかけの砂場の山が大きくえぐれて、刺さっているスコップの影がどんどん裾へ伸びていく。

「結局私は、私にはなれなかったよ」
「お前は、お前だろ」
「違う。私は立派なお侍様の妻になるの。産まれたときから決まっていた通りに」

続きを言おうとする度に、眼球が熱くなる。鼻も言う事をきかないから、もう甘さしか舌は感じない。お屋敷を抜け出して自由になりたいという私の叫びは、叫びで終わったということだ。
私の17年は、もうすぐ死ぬ。
大人達が自分の二本足で立っている。ただそれだけに憧れる事すら、許されなかった。あの猫のように四本の足が汚れる事もいとわずに駆け抜けるのだって、私には怖くてできない。今となってはどんなものも、遠くにあって私の目には映らない。これがマリッジブルーと呼ばれるものならば、私は産まれてからずっと、消毒済みの青の中に居る。
この優しい大人が傍に居てくれるのは、色が透けて見えるからだろうか。世間知らずの箱入り娘が、家の決めた人と結婚する。世界に飽和しきった話を、こんなに深刻に受け止めてくれるのはどうして? 考えても意味のないことばかりに目がいってしまう。 

「そうだ、せっかくだし握手して」
「何がせっかくだよ」
「土方さんに会えたから」

今度は、彼の瞳が揺れる番。低く差し出した私の手を躊躇いと共に触れ、あくまで優しく握った。いつも2人の間に垂れていた手が、こんなに大きいとも温かいとも、知らずにいたことが悲しかった。繋がった両の手の温度が同じになりしばらくして、私から手を離した。彼にも私の薄い青が少しでも移ればいいのに、ささやかな願いに反してあっけなく離れた手をすぐに引っ込め、勢い良く立ち上がった。腰掛けていた古いベンチが、合わせて小さく体重移動した。

「よし、さっさと帰ってマリッジブルー治さなきゃ。土方さんも、皆に私は元気だって言っておいてね」
「……あぁ」
「それから、ココアごちそうさまでした」

土方の口数が増えることはなかった。ただ、何かを言いたそうに目を瞬かせるので、その度に明るい声を出して遮ぎった。じゃあさようならと私が行こうとした瞬間、「待て」と小さな声で私の薄い影を指した。もう日はとうに暮れており、頼りない街灯が白く月の無い夜を照らしていた。

「どうして黒猫だけ、迷信をたくさん持っているのか、教えてやろうか」
手際よく口に運ばれた煙草から、白い煙が線のように上がる。
「そりゃな、生まれついた色が黒かったからだ。黒くさえなけりゃ、他の奴らと同じように好きに人様の前を横切れただろうよ。嫌な顔一つされずに、むしろ可愛がられたに違いねぇ」
「でも、黒猫は綺麗だった!」

何かに縋るように、私は叫んだ。綺麗だった。川を泳ぐように道を歩く姿も、それに合わせて動く骨も足の裏も、全てが。
黒猫じゃなければなんて思いたくない程に、その一瞬だけ見せられた瞳は美しかったのだ。

「俺も、そう思うよ」

白い煙とともに吐き出されたその言葉の隙間から覗く、二つの目を私は見たことがある。期待などしていなかった。だから余計に、私は息ができなくなって胸を押さえた。足はとっくに力が無くて,使い物にはならなかった。彼は、やはり見ていた。黒猫を、ココアを、砂場を街灯を。ずっとずっと前から、目を細めて待っていたのだ。私の未熟な青さが、あらがえない程に濃く染まるのを。
土方の黒目が、大きくなった。そのよく見えすぎる目に汚されることを望むように、今度は差し出された手を私から取る。どこに行くかは知らないけれど、ここよりもずっと良い所だろう。黒猫のもたらす結末を知らないままの私はには、さっきも握ったはずの手にはっきりと透けている黒い骨が、今度はしっかりと見えた。



私の背骨を砕いてくれますか

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