第13回 | ナノ

都心から少し離れたところにあるその建物は、装飾を殆ど施さない外観で来客を出迎える。打ちっ放しのコンクリートで作られた壁、最小限の数しか設置されていない出入口。防弾ガラスよりも強固な作りの特殊ガラスには、小さな傷一つすら見当たらない。ID認証を済ませ、ドローンに誘導されるがまま、長い廊下を歩いていく。革靴の乾いた音が響くのは、外の世界もここも同じはずなのに、何故こんなにも背筋が寒くなるのだろう。

「こちらでお待ちください」

抑揚のないドローンの音声に促され、自動ドアをくぐった俺は面会室へと通される。いくら人手不足でも、今までここに一人で来たことはなかった。仮に単独行動をしようとしても、あいつらが黙っていないだろう。俺よりこういう仕事に向いている狡噛監視官と、何にでも口を出したがる佐々山執行官。だが、それももう過去の話だ。狡噛は潜在犯として別の更正施設に収容され、佐々山は既に殉職している。一係の監視官は俺しかいない。そのため、今日は一係に所属する執行官は二係の監視官に任せてここまでやってきた。監視官の適性判定は、そう簡単に出るものではない。しばらくはこんな生活が続くだろうと多忙な毎日を思い浮かべては、人知れず溜め息をつく。元々安易な仕事だとは思っていなかったが、想像以上だ。現場での任務に十年耐えれば出世が約束されている、所謂エリートコースと謳われた人生。一度その階段を昇り始めてしまえば、後は振り返らずに突き進むしかない。限りある未来を思い描きつつ眼鏡をかけ直したところで、向かい側の自動ドアが開く。特殊ガラス越しに現れた彼女は、更正施設の収容服を着て、訝しげに俺を見た。

「あの…失礼ですが」
「宜野座伸元だ。君は、」
「みょうじなまえです」

どこか落ち着かない様子で頭を下げる動作には、まだ幼さが残っている。座るよう促すと、彼女は椅子に浅く腰かけた。目を逸らさず、馬鹿正直に俺の顔をじっと見る眼差しは、よく知る何かを連想させる。

「公安局の監視官だ」
「監視官の宜野座伸元さん…それで一体、何の用ですか?」
「突然押しかけてしまって申し訳ない。君に一つ、提案したいことがある。公安の執行官にならないか?」
「執行官に…」
「シビュラが君に執行官の適性有と診断を下した。潜在犯の君にはまたとない機会だろう」
「機会って」

何の機会か、そう言いかけたであろう彼女の唇は動くのを止める。更正施設から出たとしても、自由は得られない。提示されたのは首輪付で飼われる機会だと察せたなら、観察眼という点において猟犬の素質は十分にある。彼女は恐る恐る腕を伸ばし、特殊ガラスに右手をついた。潜在犯として更正施設に収容された彼女の面会履歴は、既に確認してある。身内や知人問わず、今まで面会に来た人物は誰もいないらしい。潜在犯とはそういうものだ。世間に疎まれ、居場所を失い、最後の砦となった更正施設に辿り着く。ここから先は、どう転んでもお決まりの結末しかない。拘禁反応で心身共に崩壊してしまうか、サイコパスが悪化し処刑されるか。正常な状態で社会復帰するなんて、どんな奇跡より確率が低い話だ。

「…ここにいたら触れられないんですね」
「何をだ?」
「何にも」

俯きがちな彼女は長い睫毛を微かに揺らし、俺の視線を捕らえてしまう。ああ、そうだ。遠慮なく俺を見る目つきは、犬に似ている。愛犬とは違う、哀れな表情の捨て犬だ。

「君が望めば、執行官としてここから出られる」
「首輪付きで、ですか」

俺の手元にはめられたデバイスを一瞥しながら、彼女は笑った。それは自虐的でも悲観的でもない、只の笑顔だ。目を細めて、口元を微かに緩ませて。何をどうしたらこれほど穏やかに笑えるのかと不思議になる位、彼女は自然な笑みを浮かべた。シビュラが選び、公安が求めているのは、使い捨ての猟犬だ。こんなふうに笑う彼女は、果たして猟犬としての責務を全うできるのだろうか。迷いが生じたのは彼女でなく、話を持ちかけた俺のほうだった。

「本来なら潜在犯は一生施設から出られないのが通説だ。とにかく一度、よく考えてほしい。返事は後日改めて…」
「わかりました、執行官として使ってください」

端的な言葉に、思わず耳を疑ってしまう。適性を下し、彼女を要求したのは、何よりも確かな存在であるシビュラだ。俺が引け目を感じる理由は何もない。それでも、俺の中に生まれた違和感は大きくなるばかりだった。

「そんなに簡単に決めていいのか。命に関わる危険な任務だってある」
「このまま死んだように生きていたくないんです。それに、」







起床を命じる安っぽいクラシックの音で、唐突に目が覚める。自傷行為を防ぐため柔らかい素材で作られた部屋と、同じ色で仕上げられた天井や壁。簡易ベッドの寝心地にも、数日で慣れてしまった。

「…随分と懐かしい夢だな」

さっきまで辿っていた記憶の断片は、約三年前のこと。あの頃信じて疑わなかったものなんて、今は何一つ残っていない。かつて親友だと思っていた男は行方不明となり、最期まで父親でいてくれた男は息絶え、俺は左手を失った。右手で義手に触れてみても、感覚は全くない。ただ、この目が触れ合う事実を認識するだけだ。目に見えるものほど不確かなものが多い。そう悟ったのはつい最近のことで、今までの俺は幸せな人生を歩み、無菌の箱庭で生きていたのだと改めて痛感する。猟犬だけじゃない。飼われていたのは、俺も一緒だ。身支度を整え、朝食の栄養補助食品を摂取していると、ドローンの音声が狭い部屋の中で反響する。それは俺の面会を告げる呼びかけだった。







面会室に入ると、真っ先に目につくのは特殊ガラスだ。見えない壁の向こう側にいた頃は何も気にならなかったのに、こちら側に来てしまうとどうしても意識してしまう。触れられない。大切なものを失う度に直面する現実はあまりにも残酷だが、やがてその痛みすら感じないほど麻痺していくのだろう。少なくとも、ここにずっといれば、そういう状態に慣れていく。死んだまま生かされる、生温い世界に。特殊ガラスを挟んで向かい側に座っているのは、スーツ姿の彼女だ。みょうじなまえ、執行官として未だに現場に立ち続ける人間。おそらく、この外で常守監視官が待機しているのだろう。潜在犯同志で面会なんて前代未聞だが、臨機応変な常守監視官なら認めてしまいそうな話だ。軽く頭を下げて椅子に座ったものの、沈黙は途切れそうもない。言葉選びに少々困ったが、先に話を切り出したのは俺だった。

「久しぶりだな、元気だったか」

小さく頷く彼女の唇は動かない。潜在犯になってしまった俺の姿を見て、何か思うところでもあるのだろうか。半ば呆れた口調で問えば、彼女はようやく目的を口にした。

「どうした」
「触れに来たんです」
「何に?」
「宜野座執行官に」

監視官ではなく、執行官。更正施設に収容された後、常守監視官から受けた誘いの返事はまだしていない。執行官になるということがどういうことか、少なくとも一般人よりは理解しているつもりだ。だからこそ、安請け合いはできない。喉の辺りまで迫っている答えを吐き出すかどうか躊躇っていると、みょうじは右手を特殊ガラスへそっと押し当てる。彼女の華奢な手に、ドミネーターを握らせるきっかけを与えたのは俺だ。シビュラが判断したとはいえ、三年間も血生臭い現場で彼女を連れ回してしまったのは俺なのだ。みょうじは微かに爪を立て、特殊ガラスを引っかいてみせる。その仕草に見入ってしまった俺は、いつのまにか義手で彼女の手の輪郭をなぞらえていた。特殊ガラス越しにそんなことをしても、何も感じられない。ましてや俺は義手だ。けれど、目を細めたみょうじは俺の指先を眺めてぽつりと零した。

「…何だかくすぐったいです」

彼女の視線が愛おしい何かを見るようなものだと思ったのは、俺の思い上がりだろうか。

「ギノでいい」
「え?」
「敬語も必要ない、もう猟犬同志だ」

みょうじの右手と俺の義手は交わらずに触れ合っていく。先に笑ったのは彼女のほうで、つられた俺も表情が緩んでしまう。三年前、あのときの言葉が誰に向けられたものなのか。それはきっと、最初からわかっていたことなのかもしれない。

『このまま死んだように生きていたくないんです。それにあなたとお揃いの首輪なら、それも悪くないかなって』

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