第12回 | ナノ

幸福にも彩度がある。
闇に染まった世界で捉えたかすかな灯火を幸福と呼ぶ者もいれば、闇の入りこむ隙などない、手中にある鮮明で輝いたそれの名前にさえ気づかない者もいる。
要は、それぞれの持つ価値観によって、感じる世界のすべては変わってくるのだ。
そして、二分化された世界のどこで呼吸するかは、生まれ落ちたその瞬間から決まっている。
"闇"で生まれた人間がどう足掻こうと、"光"で生きることなど不可能だ。
彼女はそう考えていた。





鼓膜を突き破るような銃声や、悲鳴、怒号までも、なまえの耳は一貫して"音"としか捉えない。
鳥の囀りや風の切る音と同様、彼女の心に何の変化をもたらすこともないのだ。
それらに触れるたび、心臓が跳ね上がり恐怖に震えていたのはもう、随分と昔のことのように思える。
慣れとは瑣末なことのように思えて、その実生きていく上で極めて重要なことだ。
特に彼女のように、日々命が危険に晒され続けているような人間たちにとっては。



「交渉決裂」


なまえが低い声で言い放つと、間髪を入れず卓上のカタツムリの向こうから鋭い銃声が続けて響いた。
しかし彼女は表情一つ変えず、何事もなかったかのように受話器を置く。
その一連の動作を黙って隣で見ていたローは、彼女に気づかれないように小さく溜め息をついた。


「……何か、言いたそうですね」
「…別に」
「あの程度の相手なら、彼らに問題はないでしょう」
「そんなことは分かってる」


しばしの沈黙の後、ローは無言のままなまえに近づいた。
手を伸ばし、無防備な頬をそっと指で撫でる。
透き通るように白い柔肌は、穢れなど知らないであろうこの街の少女たちと何ら変わりはない。
こうして彼女に触れたのは随分と久しい気もしたが、彼の指先はその感覚をいくつか覚えていた。
挙げるとすれば、まだ二人が幼かった頃、頬に伝う涙を拭いてやった時。
戦闘で傷を負い、頬を流れる血をそっと拭ってやった時。
そしてもう一つは、彼女の頬を染める敵の返り血を拭ってやった時だ。
白い頬に映える不気味な真紅は、今でもローの目に焼きついていた。


「…なまえ。お前は、これからどうしたい。まさか、いつまでも続けるつもりじゃないだろうな」


真っすぐに目を見つめれば、ほんの一瞬、なまえの瞳が揺らいだように見えた。
罪の意識が動揺を生んだのか、ローの真剣な瞳とその問いに少なからず狼狽したのかは定かではない。
ただ一つローが知っているのは、裏社会の人間たちが想像しているほど、彼女は強かではないということだ。
なまえは無慈悲な女王とはほど遠く、そして慈愛に満ちた女神でもない。
あえてたとえるならば、散々傷つきすべてに臆病になった野良猫に似ている。


「…私は"彼ら"のように、楽園で生きることができなくてもいいんです」


なまえが言葉を紡ぐ間も、冴えた灰色の瞳は変わらず彼女を捉えている。
普通の人間ならば威圧と変換するであろうそれを平然と受け止めながら、なまえは自らの頬に感じ続けているあたたかさに、感化されそうになっていた。
その外見には似合わないローの行動はいつものことだったが、まだ慣れそうにない。


――…それでも、いつか手に入れたい。

その言葉を紡ぐ時、わずかに苦しげだったなまえの表情が、一瞬にして普段の凛とした表情に戻った。
頬を撫で続けていたローの手が止まる。


「与えられない人間にとって、"幸福"はきっと、力で奪うものです」


そう言って小さく笑った彼女の瞳は狂おしく、そして哀しみに満ちていた。

そんな時、ローは決まってなまえを抱きしめる。
あたたかな腕の中で、その狂気すらも包みこみ、やさしく溶かすように。


その甘美な安らぎに侵食され彼女が眠りに落ちるまで、そう遠くはないだろう。
しかし、彼女の求める"幸福"が今、その手中にあることに気づくのは、まだもう少し先になりそうだ。

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