第12回 | ナノ

「なあ、やっぱり今年も来んの?」
「うん。毎年ごめんね、気を遣わせちゃって」
「まあ、それは構へんよ。ただ…」
「本当、ごめんね。みんなによろしく伝えておいて」
「…わかった。ほんならまたな」
「うん。またね、忍足くん」

静かに響く通話が切れる短い音を聞き届け、私はゆっくりと携帯を耳から離す。聴覚は耳にそれなりに馴染んだ忍足くんの声から一転、落ち着いたBGMに支配される。このBGMをひとりで聴くのも、もう何回目になるだろうか。
そんなことを思いながらテーブルの上に置いていたグラスを手に取ると、それにそっと口をつける。中身をいくらか喉に通し、グラスから唇を外したところで意図せずして漏れ出した溜息が、グラスの表面に曇りを生む。

10月に入るか入らないかの頃、忍足くんから連絡が来るのはもう何年も前からお決まりのことだった。彼が中3だったときの氷帝男子テニス部は、毎年都合がつく限り全員が集まる機会をもっている、毎年、10月4日に。それは他でもない、あの跡部景吾の誕生日であるわけで。
大学進学を機に海外へと旅立ってしまった彼の誕生日を、かつてのテニス部の面々は毎年ビデオ通話で祝っているらしい。彼らの中心であり、そして私の唯一無二の恋人であった…景吾を。
忍足くんが毎年私をその集まりに誘ってくれるのは、私と景吾が恋人同士にあったことを知っており、また私が他のレギュラーの面々とも多少の付き合いがあるからだ。けれど私は一度だって忍足くんの誘いに応じたことは、ない。だって、私は。

「…景吾のそばには、もういられないもの」

空になったグラスを再びテーブルの上へと戻し、私は腰を下ろしている椅子の背凭れにぐっと身体を預けると、徐に瞼を閉ざした。



私が彼と出逢ったのは中学生のときのこと。きっと先に恋に落ちたのは、私だった。誰よりも華やかで、そしてそれに見合うだけの能力を持ち合わせた彼は、性別や学年、更には学校内外を問わずそのカリスマ性で人を強く惹きつけた。そんな彼に私はずっと憧れにも似た淡い思いを抱いていた。
ところがそれが恋心へと変化するきっかけは、案外単純なもので。それは私が学園祭の実行委員を務めた際に割り振られた仕事がたまたま実行委員長…すなわち景吾のサポート役で、派手な振舞いの裏で彼が非常に努力を重ねているのを知ったことだった。

けれどそれまで恋なんてほとんどしたことのなかった私は、彼に女の子として認められる術をまるで思いつかなかった。だから努力家な彼に少しでも見合うように、勉強にも課外活動にもそれまで以上に積極的に取り組むようになったのだけど…結果として、そんな私の姿が彼の心に留まったらしく、先に思いを伝えてくれたのは景吾の方だった。

それから私たちはあまり大っぴらに付き合うことこそなかったものの、折々で着実に中を深めていた…と、思う。私の恋心は全て景吾に捧げたし、景吾もそれに応えてくれた。そんな淡くきらめくような幸せが、ずっと続いていくと思っていた。
でも現実は、甘い夢ばかりを見せてくれるわけもなかった。景吾は、海外の大学へと進むことが決まったのだ。

きっとそれだけなら、私と彼はたとえ物理的な距離に隔たれようと交際を続けていられただろう。でも私は、そんな未来を自らの手で壊してしまったのだ。
別れの間際の空港で、ほんな些細なことから諍いを起こしてしまったせいで…私と彼は、それから一切連絡を取らなくなった。

あの日私がどうして彼と喧嘩なんてしてしまったかなんて、そんなことはわかりきっている。景吾との別れが私にはどう足掻いても不安で、寂しくて、つらくて。でもそんな感情を彼に晒したくなくて、つい可愛げのない態度をとってしまったのだ。元から気の強いところのある私が自分自身であまりにも可愛げがなかったと反省しているのだから、そのときの態度が他人から見てどうだったかなんて…正直想像もしたくない。なんて子どもじみていて、情けないんだろう。あのときのことはきっと一生私の心の中でささくれのように残るのだろう。
意地を張って起こした喧嘩をそのままに別れて、その気まずさに囚われたまま何年も、彼への未練に溺れているなんて。

「こんな私が、景吾に合わせる顔なんてあるわけないじゃない…」

ふと視線を向けた先、窓ガラスに映る私の顔は一見するといつもと変わらないようにも思えるけれど、情けない萎れを隠しきれてはいない。けれど暗い窓に滲むような私の影の中で、ひとつだけ光り輝くものがある。それは胸元を飾るダイヤのネックレスで、私の表情と裏腹に生来の純な煌めきを宿していて…それが私の心臓を、疼かせる。

お金よりも時間の贅沢を好む景吾は、そんな彼の考え方に同調する私に対してあまり形あるものを贈らなかった。素敵な場所やご馳走、花、そしてそれ以上にただ一緒にいることとで私に幸せをくれた景吾は、しかし彼と最後に過ごした私の誕生日にこのネックレスを贈ってくれたのだ。
突然の贈り物にはひどく驚かされたものの、私のためにと彼が選んでくれたものが嬉しくないはずがない。だからこのネックレスには思い入れがとても強くて、普段は思い出とともにしまいこんでいるのだけど、毎年10月4日だけは身につけているのだ。
普段使いにしてしまっては、景吾との思い出が日常の中に溶けだしていってしまうような気がして。景吾との思い出は、私だけの中にひっそりと留めておけばそれでいい。そして毎年彼の誕生日にだけ、こうして私がひとりで彼との思い出のお店にやってきて、僅かばかりのアルコールを煽りながらそれに溺れるだけでいい。そう、思っていたのに。

「…よお」

どうして、ここに。背後からかけられた声の主は、私が未だ視線を向けたままの窓ガラスにその姿を映している。すらりと伸びた長身に、均整の取れた面差し。記憶に残る最後の姿よりもいくらか男らしさが増しているものの大きな印象の変化はない、しかしその表情は…あの別れの時とはまた異なる苦みを覗かせている。

何も言えず、ただ窓ガラスを見つめて身体を強張らせるばかりの私をどう思っているのか、景吾は一歩ずつこちらへと近づいてくると、私のすぐ背後で足を止める。そしてぐっと一度唇を噛むような素振りを見せると、再び口を開いた。

「悪かった。お前を、傷つけて」

眉間に皺を刻みながらの言葉に、私は思わず表情を止める。今、景吾は…なんて?

「愛してるなんて散々囁きながら、お前の気持ちを汲みとりきれなかった。不安を抱えてるお前を突っぱねて、今日まで放っておいた」

後悔の念が滲み出る彼の声に私は胸が詰まる思いが込み上げる。ますます肩に力がこもる私に対して、彼は更に言葉を重ねていく。

「お前は昔から気が強いところがあるが、それでもあの日みたいな態度をとったことはなかったから、あの日のお前の態度を俺は真に受けた。だからこそ、俺はお前の隣から身を退いた。だが…俺はやっぱり今でもお前のことが好きだ」

ひくりと震えた肩は、心臓の熱い鼓動を伴って身体を震わせる。目まぐるしく移り行く状況に、身体中が熱を孕み始める。
今すぐ振り返りたい、そして彼の胸に飛び込みたい。でもそれが素直にできるほど、私の心も身体も素直じゃなくて。

「…私は、景吾のことなんて」
「もういい加減にしろ、お互い我慢は今日までだ」

とことん可愛くない私の言葉の裏を、今の彼は的確に読み取っているらしい。短く告げた景吾は窓ガラスに映る私の胸元にちらと目を遣ると、そこにある輝きに意味ありげな視線を送る。そして更に一歩こちらへと踏み出してくると、いきなり私の腕を掴んでそのまま私を立ち上がらせ、ひと息に私の身体を自分の胸元へと引き寄せた。

「ちょっ、景吾…!」
「今日俺は日本に帰ってきた。そして誰よりもまず、お前に会いにきた」

耳元で囁きかけるその声に、心の奥底がじんわりと穏やかな温もりに包まれる。耳に心地好い色気を孕んだ彼の声が、嗚呼、私は、ずっと。

「俺のところに、戻ってこい」

私の身体を拘束する腕を少しばかり緩め、真正面から私に向き合った彼が口にした言葉に、私は頬に伝う涙を禁じ得なかった。


あの頃、大人びていると言われていた私たちは、けれどどうしたって子どもだった。
それでも今なら。お互いに壁を乗り越えた今だから、私たちはともに歩む未来をリスタートできたのかもしれない。

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