夜兎族の上司が地球食が好きだと言っていた。唯一この春雨の第七師団の料理人の中で地球人であった僕は、偶然上司の目にとまり「専用」として仕事を頂いた。 恩人とも言える上司に迷惑をかけられない。ミスをしたくなかった。こんな生きるか死ぬかの環境で、というか、あの人がいるこの環境では。 異常である自分の気持ちに気付かない振りをする為でも、僕は狂ったように仕事をした。 役に立ちたいこっちを見て欲しい、いや嘘だこんな馬鹿馬鹿しい情は知らないという二つの我儘がいつまでも頭の中をグルグル彷徨い、自分でも気付かぬ内にストレスと疲労を溜めていく。 まだ大丈夫だ――そう思い続けても、体は言う事を聞かない。 ついに、僕の情けない貧弱な体は限界を告げる。 複数の食器が割れる音が部屋中に響く。朦朧とする中意識を取り戻す。 僕は倒れた拍子に持っていた食器を落とし、昼食が無残な姿で床に散乱してしまった。――なんてことだ。あの人のご飯がめちゃめちゃになってしまった。 硬い床に頭をぶつけたようで地味に痛むが、僕はそんな事を気にする余裕はなく早く片付けて謝らなければ、と焦るが体は動かない。 まるで世界が回っているようにぐるぐるぐるぐる視界がぐちゃぐちゃになる。そのうちぼやけていって、さらに混沌としていく。――嗚呼、気持ちが悪い。 自分の意志とは関係なくまぶたが閉じられ、再度意識が遠のいていく。 ――やばい、ごめんなさい、待って……作り直します。団長、ごめんなさい、ごめん―― * 「起きた?」 目を開けると、そこにあったのは憎悪と苦痛に満ち溢れた地獄――ではなく、第七師団の病室に寝かされている僕と、意識を失う直前まで思っていた神威団長が横の椅子に座っている、というあり得ない光景だった。 一瞬訳が分からなくて硬直してしまったが、直ぐに何事か把握して起き上がる。昼食を台無しにしたお詫びをしなければ、と思い土下座をしようとした――が、頭がグラグラして叶わず体勢を崩してしまう。 「起きない方がいいよ。熱がある上に頭打ったみたいだからさ」 「だ、だんちょ……」 「前から思ってたけど君も馬鹿なんだね。自分の体調くらいまともに管理できないの?」 その台詞を聞いて顔面蒼白になった。ごもっともであるそれに返す言葉もなく、視界を落として謝罪する。――ああ、大失敗だ……。 「適当にやればいいなんて言わないけどさ、君一人が倒れて迷惑するのは君だけじゃないんだからそれくらいは理解しといてよ」 「はい……申し訳ございません」 「まあ、ごはん抜きにならなかっただけ良かったし――味が変わってなかったのは大したものだね」 失態を責める言葉はまだ続くと確信していたが、団長はそんな事を言って小さく溜息をつく。 突然何を? と思って顔を上げると、タイミングよく続けて話した。 「厨房にあったおかわりを食べたよ。あれ、いつも殆ど君一人で作ってるんだろ。あれを毎日じゃぶっ倒れるのも無理ないさ」 予想していたのと全然違って意外だった。 どうやら、団長は厨房に入って食事を済ませたらしい。という事は、台所のあの有り様を見られたという事だ。まだ洗ってない食器やらまな板に放置しっぱなしの調理器具やら食材やらを、あの惨状を見られたとは……早く片付けるべきだった。 「無理があるなら言っても良かったのに。休みくらいあげるよ?」 「あ……いえ、それは……」 「君はこの船で唯一の地球人なんだ。君がいなくなったら、他に誰が俺のごはんを作るんだい?」 想像しなかったその台詞に、胸が高鳴るのを感じた。もしかして――とつい期待してしまう自分がいる。 「ごはんに特別のこだわりがある訳じゃないけど、君が作るごはんって美味しいんだよね」 ――だから死なないで? と続けた神威団長に目を逸らせない。確実に、今の僕は顔がトマトのように赤くなっていることだろう。 ここに来て初めて言われた台詞――しかも、一番敬愛する人に言ってもらえたこの瞬間は、本当は夢なんじゃないだろうかと不安になった。 「ほ、本当に……?」 「嘘言ってなんの意味があるの? とにかく、君が過労死したら俺が困るから、今度からはちゃんと無理せず休むようにしてね」 夢じゃない――直ぐに自分の考えを否定する。少しの頭痛と鉛のような自分の体、ベッドの柔らかさと温かさ。決して夢なんかじゃない。何より神威団長の凛々しさとかっこ良さは、僕の夢なんかでつくれるものじゃない。 言うべきことを言って満足したんだろう、団長は僕の返答を聞く前に椅子から立ち上がって病室を出て行ってしまった。それを呼び止める余裕もなく、僕は団長に言われた言葉を脳内でずっと繰り返し再生してはぼうっとしていた。 あの人は心を読めるのだろうか。一言二言だけでこうまで気持ちが楽になるなんて奇跡は中々ないだろう。――そうだ。僕は、神威団長のことが好きでたまらない。 今、僕は悩み苦しんでいたことが全てどうでもよくなっていた。こんなに心が晴れて心地よくなるんだ、言い訳出来るものではない。なんかもういいや。 春雨という組織は汚いが、僕は今の現実にとても満足している。辿り着いた理由がなんであれ、僕は幸せだった。 「うわあ、美味しそうだね」 僕が作った料理を見て初めてそう述べて下さった神威団長。僕が作った料理を口に運んでハムスターのように頬をふくらませ、ごはん粒をつけてニコニコ笑っている団長。師団の団長とは思えないくらい幼さを感じたが、他者に見せる背中は“男”だった。 ――ここで頑張ろう。素直に正直に、そう思えた。 僕は幸せ者だ。 |