第11回 | ナノ

 埃をはらったノートは、今から10年前、当時16才の私の日記だった。確かに、思い出せば昔は書いていた気もするが、一番驚いたのは手記であることだ。現代に生きる16の生娘が手記とはどうだろうか。
ノートに書かれた雑な文字は、あの日男と出会ったことが、やはり乱雑に、そして丁寧に、書かれている。



 その日は眼鏡の度が合わなくなったから、新調しようと、早く家に帰りたかった。その日はレディースデイで、いつもより30%オフなのだから尚更早く帰りたかったわけだが、それは担任の一言により邪魔される。
今は"チーム"に所属する私だが、昔はそれなりの優等生で、学年では常に五番目に入っていた。それがどうした、と言われればそれまでなのだが、そういうわけもあってか担任からの信頼は厚かったし、私はそれに応えようとしていた。今回だって同じだ。軽い用件なら済ませればいいし、そうでなかったら持ち帰ればいいだけのこと。「どうかしましたか」16才にしては、敬語は使い慣れたほうだった。
「実は、ちょっとお前に頼みがあってな」
「はぁ」
「周防のこと、知ってるか?お前の後ろの席の、周防尊なんだが」
「知っています」
 周防尊のことは、知っていた。後ろの席になってからは、一度も会ったことがないけれど、彼と私は同じ中学の出身だった。同じ中学と言うことはきっと近所に住んでいる。
赤い髪をもつ周防尊はその容姿に反しない男だった。いつも不機嫌そうな顔は、煙草を不味そうに咥え滅多に学校にくることはなかった。たかが近所だからという理由でこの学校を選んだ私も対外だが、彼がよく高校にこれたものだ、と思った。
 それがどうかしましたか、と急かすようにいうと、担任は彼が留年ギリギリということを伝えた。正直言って、それがどうして私に、ということであった。まぁそれで話が終わるはずなく、話は続く。
「そこでだな、その、お前には申し訳ないんだが、アイツに勉強教えてほしいんだ。次の補習で五教科オール50点以上」
「そんな。私、周防君と喋ったことありませんよ」
「でもなぁ、これ、アイツからの指名なんだよ」
「えっ」
上擦る引き攣った声に、担任はごめんな、と一言謝った。眼鏡がずり落ちる。

 次の日の放課後、図書室に周防尊は来ていた。意外だった。私が予想した1つは、彼はなんらかの恨みを私にもっておりその復讐のために私を罠にはめるため今回こんなことをしたこと。しかし数学と化学の教科書を持っている限りそうではないらしい。いや、でも、これから罠にはめるのかもしれないし。
「あ、の。はじめまして…よろしくね?」
「…ああ」
随分と無愛想な声だったが、思ったほど低くはなかったし恐くもなかった。どこか私は拍子抜けしてしまい、じゃあわからないところを教えようと思うんだけど、と言うと、彼は教科書を突き出した。
「授業は一回も聞いてねぇ」
「…全部わからないってこと?」
「アンタが授業してくれよ」
眼鏡のブリッジを折り曲げた人差し指で押し上げる。困った、人に教えるの苦手なんだよなぁ、と頭で言い訳をしながらも最初の単元を広げた。補習は二週間後。それまでに全教科をテスト範囲まで。終わるのだろうか。終わらせないと、不味いのだろうけど、それは何時間彼と一緒にいることを現すのだろう。肩が何か憑いたように重くなった。

 二週間、みっちり勉強したせいか周防尊は無事留年を免れたらしい。おかげで私の任務も終わった。二週間の間で周防尊と少しくらい仲がよくなれると期待に近い感情を抱いていたのだが、私達の間に友情が生まれることがなかった。別に残念がる程期待もしていなかったし、昔の様に他人に戻っただけだった。
 周防尊の補習が終わって二日後、周防尊が珍しく朝から出席していた。話によると授業の出席日数を稼ぐためらしい。
「おい」
「…?」
「今日、暇か」
暇か。その一言は、お誘いの言葉だろうか。ぐるぐると考えて、でもまぁ暇なので頷くと、帰りに待っていろといわれた。教室が私の脳内以上にざわめく。

 周防尊に連れられたのは小洒落た喫茶店だった。常連なのかウエイターが案内する前に彼は椅子に座る。すると暫くして、茶髪の優男が彼と私に水を運んだ。
「なんや尊、いつもより早いなぁ、くるの」
「まァな」
「ていうか、これが言ってた子かいな。どうも初めまして、草薙て言います」
「どうも…?」
「まぁコイツのお目付け役みたいなもんや。年は高3。ちなみに高校卒業したら自分の店持つつもりやから、その時はご贔屓よろしゅう」
「はぁ」
私の曖昧で、不躾な態度にも臆することなく草薙さんは笑顔で私に話しかけてくれた。周防尊と自分は少し前からの仲と言うこと、このお店ではバイトをしているということ、周防尊の喧嘩はいつも自分が止めているということ、煙草は吸うが女の子の前じゃすわないということ。周防尊はそれらに反応することなく、ただ静かに草薙さんと話す私のほうを見ていた。
「ていうか尊もタメやし、ええよタメで」
「でも…」
「ええのええの。草薙とでも呼んでや」
「じゃあ…ナギで」
「ぶっ!なんや可愛いのついた!」
ナギは面白おかしく笑い始め、私は少し恥ずかしくなったがすぐにナギは「ええよ」と微笑んだ。なんだか凄く安心する笑みに、私も笑うとナギは店長に怒鳴られすぐにカウンターの中へといってしまった。周防尊と二人だけの、特に何もしない空気は非常にきまづかった。どれだけ私がナギとだけ話していたのかわかる。
「あの…、補習、おめでとう」
「…ああ」
「えーっと」
次の会話を思いつかないでいると「あんたのことは前から知っていた」なんて探偵でも使いそうな言葉を周防尊は言った。
「…?私も周防君のことは知ってたよ?中学、一緒だったよね。三年間同じクラスになることはなかったけど」
「いつも眼鏡がだせぇなって思ってた」
「…目が悪いから」
「コンタクトにしねぇのか?」
「痛そうだから」
「はっ」
笑った。伸びた前髪の中にある彼の目は確かに笑っていた。なんだか懐かない子猫が漸く膝の上で居眠りをしてくれたときの感覚に似ていた。ゆるむ口元を押さえて「コンタクトに今度するよ」というと、周防尊はそうしろと言った。
「まぁ眼鏡とっちまえば男が群がるだろうな」
「え?」
「こっちの話だ」
それから周防尊とは色々な話をした。中学の先生の話、高校の先生の話、ナギの話、いつもどんなことをしているのか、何が好きなのか。気づけば私は彼のことを尊と呼んでいた。



 それからの時間は、それまでに比べると短かった気がする。高校を卒業し、彼の作ったチームに入った。そこで色々な人に会った。
コンタクトにも慣れたし、茶色い自分の髪にも慣れた。今でも彼は私が眼鏡をつけるとくすくすと笑い出しダセェと笑い出す。
「笑いすぎ」
「はっ…はー、だめだな、その姿。面白すぎる」
横に座る彼が笑うたび、ソファは揺れ動く。私はそれに身を任せながら彼の笑い声に口を尖らせていた。暫くして、漸くおさまった尊が笑い声を殺しながら悪ィと謝る。誠意など一切感じれない言葉に口を尖らせたまま振り返ると、彼はすぐそこにいた。本当に、睫毛と睫毛がぶつかってしまいそうなほど。
だけどこの後何が起きるわけでもなかった。彼とそういう関係に、なったことがないわけではない。けれどそれは昔の話だった。今はもう違う。いつのまにか終止符を打ったその関係に、戻ることはできなかった。
「アンナが帰ってくる」
「ああ」
「ホットケーキ、焼こうかな」
「好きだな、テメェもアンナも」
「貴方だって好きじゃない。ホットケーキ2枚とバターも蜂蜜も少なめのホットケーキ」
「…あぁ」
昔より彼のことを知っているはずなのにそれ以上になれなかった。悲しい話、昔の方がよかったのかもしれない。



 日記を閉じた。余計なことまで思い出すのはいけない。古びた十代の記憶は笑い話にも美化することだってできるが、ほんの数年前の大人になってからの話はダメだ。汚い感情は美化できないほどくすんでしまっている。
 結局私が本当の思いを伝えることはなかったし、それでも私はチームにい続けた。今更出れない後ろめたさのせいでない。きっと、ここが私と彼の最後の場所になると、あの日初めてチームの扉をノックしたときに悟ったからだ。

 ああやっぱり、彼がいないとこんなことばかり思ってしまう。きっと等の本人は、呑気に向こうで私を見て笑っているのだろう。私はやっぱり尊の分のホットケーキも焼いてしまうから、まだダメなのだ。
彼の座っていたカウンターにホットケーキを置くと、それが妙にしっくりきて笑いが零れた。

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