第11回 | ナノ

 懐かしい金属音が聞こえた。
 キッチンのカウンターから、付けっ放しにしていたリビングのテレビへ視線を移す。賑やかな歓声と興奮を抑えきれないアナウンサーの声が渦のようにぐるぐると混ざり合う。その瞬間、土と日向の匂いがする懐かしい彼の匂いを嗅いだ気がした。それは気のせいなのだろうけど、懐かしさに自然と目元が緩んだ。冷蔵庫に向き直り、実家から送られて来たサイダーの瓶を掴み、栓抜きを携えてリビングに戻った。ソファの下に座り、行儀悪く足で瓶を挟んで王冠を抜く。金属的な音を奏でたそれはゆらゆらとガラステーブルの上で揺れて静かに止まった。それと同時に、うねるようにサイレンが鳴り響いた。青い空を背にして、投手が構える。息を飲む。ソーダの瓶が汗をかいて私の手を濡らす。早く飲まないとぬるくなる、そう思っていても逸らせない。
 白球が鋭い軌道を描き、ミットに吸い込まれる。三度目。けたたましい歓声が上がった。投手の男の子が、眩しそうに笑う。
 記憶の中の、あの時の光景が呼び起こされる。瞼を下ろし、瓶に口をつける。甘くてほのかに酸っぱいそれは、夏の味だ。
「元気かな、田島」
 太陽のように笑う彼を思い出すと、月の光が瞼の奥で散り、青臭い塩素の匂いが鼻を掠めた気がした。それは私と田島だけが知っている、秘密の思い出だ。



゜。



 学生の頃の私はそれほど部活を頑張っていたわけでは無かった。週に二回しか活動しない部活に居る事は苦ではなかったし、中学の頃からやっていたので、なんとなく続けてみようかなという軽い気持ちで入っただけだった。だからそのことを聞いた時、悲しくは無かったし、正直仕方が無いなという気持ちの方が大きかった。
 しかし、目の前にいる部長は悔しそうに眉間に皺を寄せていて、泣くのを堪えているように思えた。先輩の中には肩を揺らして大泣きしている人もいた。そんな空気の中、私はどんな顔をすればいいのか分からなくて、ただ俯いて黙っていた。なんだか自分が場違いなところにいるような気持ちがして、落ち着かなくて、視線は上履きの白をずっと追いかけていた。
「すまねぇな」
 突然降ってきた声に驚いて顔を上げると、部長が目を細めて私を見ていた。笑おうとして失敗したような笑顔だった。歪に引き攣った口元は、いつもの号令をかける部長のそれではなくて、失ったものの大きさをじわりと理解した。けれど、やはり、悲しみ嘆くほどの気持ちは湧いて来なくて、私は首を横に振って俯くしかなかった。



゜。



 この学校は放任主義というか、案外てきとうな所があるな、と鍵の掛かっていないフェンスの扉を開けながらぼんやりと思った。それとも、もうじき取り壊してしてしまうから、管理が適当なのだろうか。制服姿のまま、息を顰めて潜り込むと、嗅ぎ馴れた塩素の匂いが出迎えた。
 とりあえず側にある日除け付きのベンチに腰掛けて、両足を抱きながら見慣れたプールを眺めてみる。暗闇の中で、月の光だけを反射する水面は美しかった。
 あれから一日しか経っていないのに、時間の流れがゆっくりとしているように感じてしまい、落ち着かなくてここへ来たけれど、答えは見つけられない。それどころか、水に引き寄せられるような心地がしてますます落ち着かなくなった。しょうがない、と誰かに言い訳をして立ち上がり、靴下とローファーを脱いでスタート台に腰掛けて水面を見つめてみる。つま先が水面に触れ、波紋が浮かび、私の姿が歪んで散っていく。その心地の良さに目を細めて夢中になって波紋を増やす。ゆるやかに時間が加速しているのを感じながら、どっぷりと足首まで水に浸けてみた。ゆるゆるとくるぶしに当たる小さな波と水の抵抗感に心が解放される気がした。

「なーにやってんの?」

 ぽん、と突然肩を叩かれ、驚きのあまりプールへ落ちそうになった。そこで初めて、足の間についていたはずの手が無意識に水面へ伸びているのだと気付いた。振り返ると、不思議そうな顔をしたクラスメイトが目を丸くして立っていた。

「た、じま」
「おー」
「こんなとこで何してんの」
「それはこっちの台詞」

 ガサガサと白いコンビニ袋を揺らして田島は隣のスタート台に腰を下ろした。スニーカーと靴下を素早く脱いで、私と同じように足を垂らす。うひゃー、と小さく感嘆を上げて目を細める田島は野球部のくせにこの場によく馴染んでいた。 

「ちょうどいい温度だな。俺んちの風呂もこれくらいだったら良いのに」
「そんなんじゃ風邪引くよ」
「そーか?じーちゃんが熱いの好きだから、俺いっつも五秒で出ちまうんだよなぁ」

 ほら、熱いって痛いじゃん。うん、分かるよ、夏の日差しとかね。えー、日差しは別に痛くねぇよ。そう思ってるなら、田島は痛みに鈍いんじゃないの。そーかな。そーだよ。まぁ、みょうじと俺とじゃ、着てるもんの面積が違いすぎるもんな。

 今度は私が目を丸くする番だった。ぱしゃぱしゃと水面を蹴っていた足を止めて田島の方を振り返ると、それに気付いた彼が不思議そうに首を傾げる。

「俺、なんか変なこと言った?」
「言ってないけど、私が水泳部って、知ってたの?」
「うん。そりゃあ知ってるよ、俺達クラスメイトじゃん」

 あとさ、俺達外周でそこの道通るんだけど、その時にお前がここで水面を見据えてる姿も、綺麗な線を描いて飛び込む姿も、滑るように泳いでる姿も、俺見てたよ。

 ぱしゃぱしゃと水面を蹴りながら、田島は恥ずかし気もなくけろりと言い放った。それは波紋のように私の心に広がる。見られていた事に対する気恥ずかしさと、褒められた事に対する嬉しさに何も言えずに居ると、田島は少しだけ眉を下げて水面を覗き込んだ。

「でもここ、取り壊されんだよなぁ」
「……知ってたんだ」
「そりゃあね。野球部も何回かお世話になったし」

 さきほどまで忘れていた胸のざわめきが再び心の中を占領して、抗うように勢い良く水を蹴ったけれど、それは収まってはくれずに肥大してゆく。飛び散った飛沫がスカートに濃い斑点をつけたのを見ていると、昨日見た先輩の大粒の涙を思い出してしまい、なんだか胸が詰まって唇を噛んだ。
 
「俺ね、何でここに来たと思う?」

 田島が水面から足を上げて、体ごと私の方へ向き直って私に尋ねた。プールサイドに水が染み込み、彼の足形が浮き出る。私はスタート台の際を軽く握りながら首を傾げる。田島は口角を上げて右手でさきほどの外周に使う道を指差した。月の光が、彼の白いシャツに反射する。

「そこの道、俺の家に通じてんの。で、コンビニ行こうと思って歩いてたら、プールサイドに人影が見えたわけ。暗がりで分かんなかったけど、直感でみょうじだと思った。まぁでもプールの事情もあったし、そっとしといてやろうと思ってコンビニ行ったんだ。んで、帰りに一応と思って覗いたら、お前が、泣いてるように見えたから」

 吐き出すように言った田島の目は真剣で、そういう目を私は何度も見て来た。スタート台に立って、水面を見つめる目。光を反射して手招くそこに、飛び込んでしまいたくなる衝動を抑えながら、ゴーグルの奥で神経を張りつめる瞬間。

「でも、お前は泣いてない。俺はそれが心配だ」
「別に泣くほどのことじゃないからだよ。ここじゃなくても、泳ごうと思えばどこでも泳げる」
「そんなに悲しそうなのに、泣かないなんて嘘だ」

 田島に真っ直ぐな視線を突き付けられて、何も言えなくなった。喉の奥に何かが突っ掛かっていて、言葉も上手く吐き出せない。けれど、それが取れてしまうと、洪水のように感情が溢れ出してしまうと分かっていたから。

「あー!もう無理っ!」

 田島の大声が耳の奥で鳴り響き、呆気に取られていると、次いで馴染みのある浮遊感が全身を覆う。見慣れた水面が視界に映ったと同時に、弾けるような音が通り過ぎて、くぐもった音が響く、静寂に近い空間に切り替わった。沈んでゆく感覚を、ぼやけた視界の中で感じていると、涙の膜が張っているような気がした。口の端からあぶくが漏れ、水面へ向かって逃げていく。そこはとても明るいけれと、月の光は太陽のようにぎらぎらとしていなくて、あの日々はもうすぐ無くなってしまうのだと実感し、胸が締め付けられるように痛んだ。
 そのままあぶくの数を数えていると、突然右の手首に引っ張られ、私も水面へ急浮上した。

「っ、はぁ。お前、さすがだなっ!」
「何が?」
「だって、全然っ、しんど、そうじゃねーもん」

 田島は私の手首を掴んだまま肩で息をしていた。そこでやっと、田島に引かれてプールへ落ちたのだと理解した。彼は悪戯が成功した子供のように清々しく笑ったあと、私の顔を見て、眉を下げて小さく笑った。月の光りのように優しい笑みだった。

「俺しか見てねーから」

 熱い水滴が頬を滑り落ち、髪から垂れる水滴に混じって水面に波紋をつけていく。もしも温度に色があったら、色んな色の波紋が咲くのだろう。太陽の光を透かす、カラフルな水面を見上げたら、きっと、とても綺麗だ。
 田島はそれ以上何も言わず、なかなか泣き止まない私に辛抱強く付き合ってくれた。手首から伝わる彼の高い体温は、私の心の氷を溶かす作用があるのかもしれない。太陽の光をいっぱいに浴びている田島なら雑作も無く出来る気がした。
 
 氷が溶け切ったあと、田島がコンビニで買って来たソーダを二人で飲んだ。スタート台でソーダを飲むのはこれが最初で最後になるだろう。ペットボトルの中のソーダ水が月の光を反射し、あぶくを吐き出す。こんなところにも小さなプールがあったのだと、思わず笑みが溢れた。

「ありがとうね、田島」
「いいって。俺も夜中のプール入れてラッキーだったしな!でもこれは二人だけの秘密だ、ゲンミツに!」

 日の光ではなく月をの光りを浴びて笑う彼は、いつもの彼と違って大人びて見えた。普段とは違う彼の表情にどきりとして誤摩化すようにソーダ水を飲んだ。甘く痺れる味を噛み締めながら、秘密、という響きを舌で転がし、うん、と頷いた。
 生温い風が吹く、真夏の夜の出来事だった。



゜。



 唸るようなサイレンが聞こえ、旅立っていた意識がゆるやかに戻ってきた。テレビの画面の中には、嬉しそうに泣くチームと、悔しそうに泣くチームがいた。 
 泣く事は大事なことだと、教えてくれた彼もこの場所で泣いたのだろうか。田島の笑顔を思い出し、彼に泣き顔は似合わないな、と思いながら最後の一口を飲み干した。
 礼をする白と灰色のユニホームに、お疲れさま、と小さく呟いて、テーブルに置いておいた葉書へ手を伸ばす。あんまり行く気はしなかったけど、気が変わったので、参加の欄に丸をつけて放り出して寝転んだ。
 ひらひらとガラステーブルの上に落下した「同窓会のお知らせ」という文字が踊る葉書には、夏らしい配色の、色とりどりの花が咲いていた。彼に会えるといいな、と淡く思いながら、静かに目を閉じると、耳元でパチパチとソーダが弾ける音が聞こえた気がした。

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